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眠れそうにない。
十日ほど前の記憶が、圭介の脳裏に点景のようによみがえる。
救急車の中で、さおりは苦しみながら 赤ちゃん、と言った。
(……マサ、の、か?)
のどの奥がざらつくような、嫌な気分になった。
痛いほどにさおりに腕をつかまれながら、彼女が口走った言葉が心にひびを入れる。
そうか、そんなことまでする仲になってたんだな。そうだろうな。
圭介は胸の中でぽつぽつと呟く。大きな溜息が、腹の底から、出た。
さおりが処置を受けている手術室が見えるソファに座りながら、圭介は頭を抱えた。
ついさっき、看護師や医師にさおりの容態についての話を聞かされた。
彼らは、圭介がさおりの腹の子の父親だと思っているのだろう。そんな態度が端々に見えた。
(違う)
否定したかったが、事態が事態のために、弁明もせずに誤解されたまま、話を聞いた。
さおりの恋人と見られるのは、悪い気分でもない。そんな気がして少し笑った。
「保護者の方に連絡は取れるかな?」
「彼女の、ですか?」
「できればね」
看護師長に言われて、圭介はさおりのバッグを探った。
階段の脇に、携帯電話での通話コーナーとして仕切られた場所がある。そこで、さおりの携帯電話を操作し、アドレスを探った。偽物のマカロンのストラップがぶらぶらと揺れる。
お母さん、と書いてある番号を表示して、通話ボタンを押す。
「あの……、さおりさんのお母さんですか?」
「誰?」
娘の携帯電話からの着信から、男の声が聞こえたことに驚いたのだろう。尖った声だった。
「突然すみません。さおりさんが、病院に運ばれて……」
「えっ? どういうこと? 何なの?」
「僕は、さおりさんと同じクラスの相良といいます。部活でも一緒です。今日もたまたま、スタジアムで会って、それで……」
「相良、くん? えっ……と、何ですって?」
「だから、その……、さおりさんが病院に、今」
「病院って、どこ?」
声を震わせたさおりの母に、病院の名を告げた。スタジアムから救急車で、到着までそれほどの時間がかからなかったことも告げる。
「すぐ行くわ……。ありがとう」
「あの、命に別状ないっていうか、そこは大丈夫みたいです」
「……ありがとう」
慌ただしく電話を切った。無理もないことだろう。
流産だとは、言えなかった。
来ればそれは解ってしまうことだろう。だが、圭介の口からそれをさおりの母親に告げて良いのかどうか。言う覚悟も暇も無いうちに、さおりの母から電話を切られた。
さおりの家から病院までは距離がある。
同じ県内だが、圭介の家からもさおりの家は遠い。住所は知っているが、訪れたことはない。さおりの母親にも会ったことなど無かった。
ポケットから自分の携帯電話を取り出す。
もう一人、連絡しなければならない相手がいる。マサだ。
(出ないな……)
宮本雅弘というアドレスを呼び出し、通話ボタンを押して十コール待ったが出ない。
出ないことにわずかな安堵もある。口頭で説明することは、圭介には苦しい。
メールのタイトルに、病院名と一緒に「すぐ来い」と入れた。
「さおりが流産した。今は病院にいる」
内容はそれだけ、あとは病院の場所の説明を打ち込んで、送信した。
(馬鹿……、あいつ何やってんだよ!)
湧き上がった苛立ちで、圭介は傍らの壁を思わず蹴った。
圭介たちの年齢では、まだ父親になどなれるはずがない。
身体の機能は備わっている。しかし今の日本の社会では十代で健全な父親として子供を育てることは困難でありすぎる。
それくらいのことは、圭介にはわかっている。
だから、煩わしくても奈恵に接するときには必ず避妊具を着けた。その準備を待ちきれないような衝動に駆られたことは何度もあったが、本能に浸食された理性の残りを総動員して、彼の分身を皮膜で覆った。
それが、マサにはわからなかったのか。できなかったということか。
そのときの状況など想像もしたくないが、自分の経験を思い出せば、つまりそうなのかと思えてしまうことがある。嫌になる。
吐きそうな気分になった。
むしろ泣きたいような気分になっていた。
明かりを消した自室のベッドに横たわり、さおりの番号を液晶画面に表示させながら、まだマサと話しているのかと想像した。
さおりと、マサ。
二人を思い出すと、いちいち胸がちくりと痛む。
もう、その痛みにも慣れてきた。
わかっていたことだ。
さおりは、マサを選んだ。圭介ではなく、彼女はマサを好きになったのだ。
それよりずっと前から、マサがさおりを好きだったことも、わかっていた。マサ以外の身近な男たちも、何人かさおりを好きだったことも、知っている。
あの頃は、まだ圭介は、さおりが好きなのは自分だろうと、思っていた。
綺麗な顔立ちで、誰に対しても分け隔てのない態度で、さっぱりとして気性が快い。圭介にとってさおりは、気兼ねなく何でも言える相手であり、なおかつたまらなくときめく相手だった。
いつ、さおりに好きだと言おうか、そんなことに胸を躍らせていたこともあった。
圭介がそんなことを考えているうちに、マサとさおりが付き合い始めた。
彼らが手をつないでいる姿も見た。マサ、と呼ぶときのさおりの声がどこか違って聞こえていた。
あからさまにそうだと言葉では聞いたことはないが、十分に、二人が付き合っているのだと思い知らされる態度だったと感じている。
さおりに対しては、圭介は彼女に何かを言う前に完全に失恋した。
そうだと、わかっていたはずだった。
(こんな決定打まであるなんてなぁ……)
おかしくもないのに、笑ってしまいそうだ。
さおりは、圭介ではない他の男の子供を妊娠して、流産した。
妊娠したということは、セックスをしたということだ。
そんなこと、と圭介は思う。知りたくもなかった。
さおりとマサが付き合ったと悟ったときにある程度は覚悟もしていた。
だが、あからさまにそうだとさおりに聞かされたことの、ショックが大きい。
携帯電話のバックライトが消えた。静かな闇になる。
「自分より傷ついて辛い気持ちの人が居ると思うと、気が楽になる」
耳元に聞いたさおりの言葉を思い出して、寝返りを打って溜息を吐く。
奈恵、と圭介は呟いた。
やはり、眠れそうな気がしない。
十日ほど前の記憶が、圭介の脳裏に点景のようによみがえる。
救急車の中で、さおりは苦しみながら 赤ちゃん、と言った。
(……マサ、の、か?)
のどの奥がざらつくような、嫌な気分になった。
痛いほどにさおりに腕をつかまれながら、彼女が口走った言葉が心にひびを入れる。
そうか、そんなことまでする仲になってたんだな。そうだろうな。
圭介は胸の中でぽつぽつと呟く。大きな溜息が、腹の底から、出た。
さおりが処置を受けている手術室が見えるソファに座りながら、圭介は頭を抱えた。
ついさっき、看護師や医師にさおりの容態についての話を聞かされた。
彼らは、圭介がさおりの腹の子の父親だと思っているのだろう。そんな態度が端々に見えた。
(違う)
否定したかったが、事態が事態のために、弁明もせずに誤解されたまま、話を聞いた。
さおりの恋人と見られるのは、悪い気分でもない。そんな気がして少し笑った。
「保護者の方に連絡は取れるかな?」
「彼女の、ですか?」
「できればね」
看護師長に言われて、圭介はさおりのバッグを探った。
階段の脇に、携帯電話での通話コーナーとして仕切られた場所がある。そこで、さおりの携帯電話を操作し、アドレスを探った。偽物のマカロンのストラップがぶらぶらと揺れる。
お母さん、と書いてある番号を表示して、通話ボタンを押す。
「あの……、さおりさんのお母さんですか?」
「誰?」
娘の携帯電話からの着信から、男の声が聞こえたことに驚いたのだろう。尖った声だった。
「突然すみません。さおりさんが、病院に運ばれて……」
「えっ? どういうこと? 何なの?」
「僕は、さおりさんと同じクラスの相良といいます。部活でも一緒です。今日もたまたま、スタジアムで会って、それで……」
「相良、くん? えっ……と、何ですって?」
「だから、その……、さおりさんが病院に、今」
「病院って、どこ?」
声を震わせたさおりの母に、病院の名を告げた。スタジアムから救急車で、到着までそれほどの時間がかからなかったことも告げる。
「すぐ行くわ……。ありがとう」
「あの、命に別状ないっていうか、そこは大丈夫みたいです」
「……ありがとう」
慌ただしく電話を切った。無理もないことだろう。
流産だとは、言えなかった。
来ればそれは解ってしまうことだろう。だが、圭介の口からそれをさおりの母親に告げて良いのかどうか。言う覚悟も暇も無いうちに、さおりの母から電話を切られた。
さおりの家から病院までは距離がある。
同じ県内だが、圭介の家からもさおりの家は遠い。住所は知っているが、訪れたことはない。さおりの母親にも会ったことなど無かった。
ポケットから自分の携帯電話を取り出す。
もう一人、連絡しなければならない相手がいる。マサだ。
(出ないな……)
宮本雅弘というアドレスを呼び出し、通話ボタンを押して十コール待ったが出ない。
出ないことにわずかな安堵もある。口頭で説明することは、圭介には苦しい。
メールのタイトルに、病院名と一緒に「すぐ来い」と入れた。
「さおりが流産した。今は病院にいる」
内容はそれだけ、あとは病院の場所の説明を打ち込んで、送信した。
(馬鹿……、あいつ何やってんだよ!)
湧き上がった苛立ちで、圭介は傍らの壁を思わず蹴った。
圭介たちの年齢では、まだ父親になどなれるはずがない。
身体の機能は備わっている。しかし今の日本の社会では十代で健全な父親として子供を育てることは困難でありすぎる。
それくらいのことは、圭介にはわかっている。
だから、煩わしくても奈恵に接するときには必ず避妊具を着けた。その準備を待ちきれないような衝動に駆られたことは何度もあったが、本能に浸食された理性の残りを総動員して、彼の分身を皮膜で覆った。
それが、マサにはわからなかったのか。できなかったということか。
そのときの状況など想像もしたくないが、自分の経験を思い出せば、つまりそうなのかと思えてしまうことがある。嫌になる。
吐きそうな気分になった。
むしろ泣きたいような気分になっていた。
明かりを消した自室のベッドに横たわり、さおりの番号を液晶画面に表示させながら、まだマサと話しているのかと想像した。
さおりと、マサ。
二人を思い出すと、いちいち胸がちくりと痛む。
もう、その痛みにも慣れてきた。
わかっていたことだ。
さおりは、マサを選んだ。圭介ではなく、彼女はマサを好きになったのだ。
それよりずっと前から、マサがさおりを好きだったことも、わかっていた。マサ以外の身近な男たちも、何人かさおりを好きだったことも、知っている。
あの頃は、まだ圭介は、さおりが好きなのは自分だろうと、思っていた。
綺麗な顔立ちで、誰に対しても分け隔てのない態度で、さっぱりとして気性が快い。圭介にとってさおりは、気兼ねなく何でも言える相手であり、なおかつたまらなくときめく相手だった。
いつ、さおりに好きだと言おうか、そんなことに胸を躍らせていたこともあった。
圭介がそんなことを考えているうちに、マサとさおりが付き合い始めた。
彼らが手をつないでいる姿も見た。マサ、と呼ぶときのさおりの声がどこか違って聞こえていた。
あからさまにそうだと言葉では聞いたことはないが、十分に、二人が付き合っているのだと思い知らされる態度だったと感じている。
さおりに対しては、圭介は彼女に何かを言う前に完全に失恋した。
そうだと、わかっていたはずだった。
(こんな決定打まであるなんてなぁ……)
おかしくもないのに、笑ってしまいそうだ。
さおりは、圭介ではない他の男の子供を妊娠して、流産した。
妊娠したということは、セックスをしたということだ。
そんなこと、と圭介は思う。知りたくもなかった。
さおりとマサが付き合ったと悟ったときにある程度は覚悟もしていた。
だが、あからさまにそうだとさおりに聞かされたことの、ショックが大きい。
携帯電話のバックライトが消えた。静かな闇になる。
「自分より傷ついて辛い気持ちの人が居ると思うと、気が楽になる」
耳元に聞いたさおりの言葉を思い出して、寝返りを打って溜息を吐く。
奈恵、と圭介は呟いた。
やはり、眠れそうな気がしない。
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