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苦痛に表情を曇らせたさおりの傍らで奈恵がおろおろと困惑している。
「さおり? 腹が痛いのか?」
圭介がうずくまったさおりの横に膝をついて、訊く。
ただごとでない苦しみように、近くの席にいた見知らぬ人からも問いかけるような好奇の視線が送られてきた。
「出よう。立てるか? 立てないなら、おぶってやるけど」
「……ごめん、圭介。立てない」
ほら、としゃがみ込んで圭介はさおりに背を向けた。
よほどの痛みに耐えているのか、ひどくのろのろと見える動作でさおりが圭介の背に腕を伸ばし、身体を預けていく。
「奈恵」
「えっ……?」
呆然と圭介とさおりの様子を見守っていた奈恵は、名前を呼ばれて初めて我に返る。
「バッグ、持てる? 三人分」
「あ、うん。大丈夫」
奈恵のバッグと、圭介のものと、さおりのもの。
さおりのバッグには、膝掛けや保温できる水筒の他にファイルやノートが入っていて、特に重かった。
「ごめん……、こんなこと」
「いいよ。いつから痛かった?」
「……っわかんない。なんか昨日から、かな……」
細く震える吐息のあとに、痛い、とさおりがまた言う。
圭介の首にさおりの腕が巻き付いて、胸のあたりの服を握っていた。
足元に気をつけながら、スタジアムのスタンドの階段を圭介はゆっくりと上る。苦しげなさおりの呼吸が聞こえる。
(さおり……)
背中いっぱいに、さおりの温度がある。胸の膨らみも感じた。
急な腹痛に苦しむさおりを心配する気持ちはもちろんあるのだが、その陰で、圭介は密かな喜びを咲かせている。こんなに、さおりの身体に触ったのは初めてだろう。髪がうなじに触れてくすぐったい。シャンプーらしい良い匂いも、少しする。
「ごめん、圭介……」
吐息が耳たぶを撫でる。
「いいよ」
さおりが苦しんでいるというのに、圭介は様々の感触に胸を躍らせている。
(今はそれどころじゃない……)
座席の並ぶスタンドを抜け、その裏の廊下を通る。
奈恵は、三人分のバッグを抱えて、圭介の後ろをよろよろと追いかけた。
(やだ、……行っちゃ、いや)
さおりを背負っているのに、圭介の歩みが奈恵よりもずっと速い。奈恵は重い荷物に阻まれて追いつくのが難しい。
後ろ姿が、遠ざかる。さおりを背負う圭介が、どんどん、遠い姿に見えてくる。
悲しくなってしまった。
馬鹿みたいだ、と奈恵は自分を罵りたいような気持ちになる。
さおりは、嘘ではなく苦しんでいる。腹が痛いのだと、青ざめて冷や汗まで浮かべていた。苦痛は本当だろう。あの場所にそのままいることはできなかったのは確かだ。病院に運ばなければならないことくらいは、奈恵にも解る。
それなのに、奈恵は、さおりが現れたときに感じた不快をまた感じている。
そんな場合ではないと解っているのに、圭介の背に居るさおりが、嫌で嫌でたまらない。
あ、と圭介の耳元にさおりの声がした。
「ごめん、……私……」
何事かと思ったとき、さおりの臀部を支えた圭介の手に、生ぬるい液体が触れた。激しい腹痛に苦しんでいるらしいことから、(仕方ない)と思う。
「良いよ。気にすんな。腹が痛いとき漏らすぐらい、ありだろ」
「ごめん、ホントごめん」
泣いているように聞こえる。
よたよたと、奈恵は圭介とさおりに追いつく。
「……圭ちゃん……」
バッグをその場に取り落としそうになり、持ち直す。
「圭ちゃん!」
「何だよ、声でかいよ」
「圭ちゃん、大変! 大変……」
ひどくうわずった声になっていた。
「さおりさん、血」
「あ?」
奈恵の言うことが、圭介の意識に届かない。何を言っているか、理解ができていない。
背中に、ずしん、と重みがかかる。
「おい?……さおり?」
首に巻き付いていた腕が弱まった。さおり自身がその体重を支える力を失っている。
奈恵が圭介の後ろに走り寄って、さおりの身体を支えた。
「さおりさん、血が出てるの! 圭ちゃんの手、血だらけなの!」
「え? 何……? おい、さおり?」
「救急車呼ぶ!」
エントランス近くの壁際に寄って、圭介がさおりを床に下ろす。奈恵は圭介に介添えしてさおりを支え、膝の上に彼女の頭を置いた。
横に置いたバッグの中に携帯電話があるはずだ。
「どうしよう……」
動転しているせいか、荷物をいたずらにかき回すばかりで、そこに入っているはずの携帯電話を、奈恵は探し出せない。
脂汗を肌に浮かべたさおりが数秒おきに呻吟する。
半ば気を失っているようだが、痛みは続いているらしい。膝丈のベンチコートを着込んでいるさおりの紺のソックスに、黒いシミが広がっている。身体からの出血がそこに流れ着いている。
スタジアムから少しだけ歓声が聞こえてきた。試合が始まったらしい。
地元校の試合ではなかったためか、そもそも観客はまばらだった。今、エントランスはむしろ静寂の中にある。
「あ、もしもし……」
奈恵の頭上から、圭介の声が聞こえた。
「はい……、スタジアムのエントランスにいます」
携帯電話を探して見つからない奈恵よりも先に、圭介が救急車を呼んだ。携帯電話を上着のポケットに入れていたために、すぐに取り出せたのだ。
その手が、茶色く汚れているのを奈恵は呆然と見上げる。
救急車の中でも、さおりの出血は続いていた。
「進行性のようです……」
そんな言葉を救急隊員がレシーバーらしき物に告げていた。
圭介と奈恵も、救急車に乗った。
奈恵は呆然と不安定な座席に座っている。
その傍らで圭介は、さおりの横に付き、その手を握っていた。
「さおり? さおり、しっかりしろよ」
奈恵が知らない響きを、そこに聞いている。圭介の声が震えて掠れている。
「やだ、……やだよ。圭介、助けて」
意識を取り戻したさおりが苦しげに泣いている。
痛みはまだ続くようで、時折、悲鳴を上げた。
「やだ、……赤ちゃん死んじゃう! やだ!」
さおりの指が圭介の腕をつかむ。肌に爪が食い込んだ。
がたがたとさおりの乗った台が揺れる。それだけ、彼女が震えているのか苦悶に身体がきしんでいるのか。
「お願い助けて……! 助けて!」
絶叫とともに、血の塊のような物が、さおりの体内から排出されたとき、それを見た奈恵は気を失った。
さおりが処置を受けている手術室の外のソファに、圭介は呆然と座っている。
朝起きてからついさっきまでのことが、何日にも及んだように感じる。
まだ日の高い時刻であるのに。
朝から今まで、ほんの数時間のはずだったのに。
救急車を降りるとき、奈恵まで気を失っていた。奈恵は、日帰りで点滴を受けていくような外来患者用の処置室の台に寝かされている。
一度、様子を見に行った。ブランケットを被せられて、奈恵は眠っているようだった。特に外傷などもあるわけではない。脈なども正常のようで、ただ驚いて気を失っただけだろうという看護師の話だった。
そのまま処置室の奈恵を置いて、圭介はさおりのところへ戻った。
通りかかった外来の待合室は照明も消され、がらんとしていた。
大晦日である。
それでも医師や看護師は何人も居て、さおりのところに戻るまでには入院患者らしい人々とも、何度かすれ違った。
(病気に大晦日も正月も無いよな)
そんなことを、廊下の向かい側の壁を見ながらぼんやりと考えた。
「さおり? 腹が痛いのか?」
圭介がうずくまったさおりの横に膝をついて、訊く。
ただごとでない苦しみように、近くの席にいた見知らぬ人からも問いかけるような好奇の視線が送られてきた。
「出よう。立てるか? 立てないなら、おぶってやるけど」
「……ごめん、圭介。立てない」
ほら、としゃがみ込んで圭介はさおりに背を向けた。
よほどの痛みに耐えているのか、ひどくのろのろと見える動作でさおりが圭介の背に腕を伸ばし、身体を預けていく。
「奈恵」
「えっ……?」
呆然と圭介とさおりの様子を見守っていた奈恵は、名前を呼ばれて初めて我に返る。
「バッグ、持てる? 三人分」
「あ、うん。大丈夫」
奈恵のバッグと、圭介のものと、さおりのもの。
さおりのバッグには、膝掛けや保温できる水筒の他にファイルやノートが入っていて、特に重かった。
「ごめん……、こんなこと」
「いいよ。いつから痛かった?」
「……っわかんない。なんか昨日から、かな……」
細く震える吐息のあとに、痛い、とさおりがまた言う。
圭介の首にさおりの腕が巻き付いて、胸のあたりの服を握っていた。
足元に気をつけながら、スタジアムのスタンドの階段を圭介はゆっくりと上る。苦しげなさおりの呼吸が聞こえる。
(さおり……)
背中いっぱいに、さおりの温度がある。胸の膨らみも感じた。
急な腹痛に苦しむさおりを心配する気持ちはもちろんあるのだが、その陰で、圭介は密かな喜びを咲かせている。こんなに、さおりの身体に触ったのは初めてだろう。髪がうなじに触れてくすぐったい。シャンプーらしい良い匂いも、少しする。
「ごめん、圭介……」
吐息が耳たぶを撫でる。
「いいよ」
さおりが苦しんでいるというのに、圭介は様々の感触に胸を躍らせている。
(今はそれどころじゃない……)
座席の並ぶスタンドを抜け、その裏の廊下を通る。
奈恵は、三人分のバッグを抱えて、圭介の後ろをよろよろと追いかけた。
(やだ、……行っちゃ、いや)
さおりを背負っているのに、圭介の歩みが奈恵よりもずっと速い。奈恵は重い荷物に阻まれて追いつくのが難しい。
後ろ姿が、遠ざかる。さおりを背負う圭介が、どんどん、遠い姿に見えてくる。
悲しくなってしまった。
馬鹿みたいだ、と奈恵は自分を罵りたいような気持ちになる。
さおりは、嘘ではなく苦しんでいる。腹が痛いのだと、青ざめて冷や汗まで浮かべていた。苦痛は本当だろう。あの場所にそのままいることはできなかったのは確かだ。病院に運ばなければならないことくらいは、奈恵にも解る。
それなのに、奈恵は、さおりが現れたときに感じた不快をまた感じている。
そんな場合ではないと解っているのに、圭介の背に居るさおりが、嫌で嫌でたまらない。
あ、と圭介の耳元にさおりの声がした。
「ごめん、……私……」
何事かと思ったとき、さおりの臀部を支えた圭介の手に、生ぬるい液体が触れた。激しい腹痛に苦しんでいるらしいことから、(仕方ない)と思う。
「良いよ。気にすんな。腹が痛いとき漏らすぐらい、ありだろ」
「ごめん、ホントごめん」
泣いているように聞こえる。
よたよたと、奈恵は圭介とさおりに追いつく。
「……圭ちゃん……」
バッグをその場に取り落としそうになり、持ち直す。
「圭ちゃん!」
「何だよ、声でかいよ」
「圭ちゃん、大変! 大変……」
ひどくうわずった声になっていた。
「さおりさん、血」
「あ?」
奈恵の言うことが、圭介の意識に届かない。何を言っているか、理解ができていない。
背中に、ずしん、と重みがかかる。
「おい?……さおり?」
首に巻き付いていた腕が弱まった。さおり自身がその体重を支える力を失っている。
奈恵が圭介の後ろに走り寄って、さおりの身体を支えた。
「さおりさん、血が出てるの! 圭ちゃんの手、血だらけなの!」
「え? 何……? おい、さおり?」
「救急車呼ぶ!」
エントランス近くの壁際に寄って、圭介がさおりを床に下ろす。奈恵は圭介に介添えしてさおりを支え、膝の上に彼女の頭を置いた。
横に置いたバッグの中に携帯電話があるはずだ。
「どうしよう……」
動転しているせいか、荷物をいたずらにかき回すばかりで、そこに入っているはずの携帯電話を、奈恵は探し出せない。
脂汗を肌に浮かべたさおりが数秒おきに呻吟する。
半ば気を失っているようだが、痛みは続いているらしい。膝丈のベンチコートを着込んでいるさおりの紺のソックスに、黒いシミが広がっている。身体からの出血がそこに流れ着いている。
スタジアムから少しだけ歓声が聞こえてきた。試合が始まったらしい。
地元校の試合ではなかったためか、そもそも観客はまばらだった。今、エントランスはむしろ静寂の中にある。
「あ、もしもし……」
奈恵の頭上から、圭介の声が聞こえた。
「はい……、スタジアムのエントランスにいます」
携帯電話を探して見つからない奈恵よりも先に、圭介が救急車を呼んだ。携帯電話を上着のポケットに入れていたために、すぐに取り出せたのだ。
その手が、茶色く汚れているのを奈恵は呆然と見上げる。
救急車の中でも、さおりの出血は続いていた。
「進行性のようです……」
そんな言葉を救急隊員がレシーバーらしき物に告げていた。
圭介と奈恵も、救急車に乗った。
奈恵は呆然と不安定な座席に座っている。
その傍らで圭介は、さおりの横に付き、その手を握っていた。
「さおり? さおり、しっかりしろよ」
奈恵が知らない響きを、そこに聞いている。圭介の声が震えて掠れている。
「やだ、……やだよ。圭介、助けて」
意識を取り戻したさおりが苦しげに泣いている。
痛みはまだ続くようで、時折、悲鳴を上げた。
「やだ、……赤ちゃん死んじゃう! やだ!」
さおりの指が圭介の腕をつかむ。肌に爪が食い込んだ。
がたがたとさおりの乗った台が揺れる。それだけ、彼女が震えているのか苦悶に身体がきしんでいるのか。
「お願い助けて……! 助けて!」
絶叫とともに、血の塊のような物が、さおりの体内から排出されたとき、それを見た奈恵は気を失った。
さおりが処置を受けている手術室の外のソファに、圭介は呆然と座っている。
朝起きてからついさっきまでのことが、何日にも及んだように感じる。
まだ日の高い時刻であるのに。
朝から今まで、ほんの数時間のはずだったのに。
救急車を降りるとき、奈恵まで気を失っていた。奈恵は、日帰りで点滴を受けていくような外来患者用の処置室の台に寝かされている。
一度、様子を見に行った。ブランケットを被せられて、奈恵は眠っているようだった。特に外傷などもあるわけではない。脈なども正常のようで、ただ驚いて気を失っただけだろうという看護師の話だった。
そのまま処置室の奈恵を置いて、圭介はさおりのところへ戻った。
通りかかった外来の待合室は照明も消され、がらんとしていた。
大晦日である。
それでも医師や看護師は何人も居て、さおりのところに戻るまでには入院患者らしい人々とも、何度かすれ違った。
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