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しおりを挟む屋敷の奥の奥に、道が待っていた。
奥まった部屋だが、池のある広い庭に面していて視界が開けている。十畳ほどの二間続きの部屋の床の間の前に、小柄な姿が脇息にもたれるようにひっそり座している。庭からの光が道の華奢な身体の半分を影にした。光は道の居る部屋の敷居の手前で膝をついた。傍らに真知雄を座らせ、手を膝の前に置いて頭を下げるように促す。
淡い色の綸子に濃紺の被布を着て、寡婦らしく髷の先を落とした切り下げ髪にしている。光よりも五つかそのくらい年上のはずだが、衣通姫と称されたほどの美貌のせいか、ずっと若く見えた。卵型の輪郭の中の整った位置に繊細な目鼻がある。長い睫毛が眼差しを煙らせ、形の美しい唇が笑みを刻む。
「ご無沙汰をしておりまして、申し訳ありません」
「何も謝ることなどない。無事で良かった。よう来てくれた」
「奥様、これは塚本の末の子の、真知雄でございます」
「真彦に目元が似てきているのう。真知雄、前に私はそなたを抱っこしたことがあるのです。まだまだ赤ちゃんのころであった。覚えておらぬだろうなあ」
急に話しかけられた真知雄は、きょとんとなって道を見て、すぐ光に顔を向ける。
「もっとこちらへ、近う」
呼ばれて道の側に行こうとした光達の横を、幼女が通り過ぎた。たどたどしい足音で、桃色の袖をふわふわと翻した。
「ははうえ」
あどけない口調で呼びかけながら、道に駆け寄って抱きつく。
「ははうえ、かがみを貸してくださいませ!」
「これ、お国や。お客様が居るのにお行儀が悪いこと」
たしなめながら道が懐から小さな丸い手鏡を出して国に握らせた。大人の掌に収まる大きさだが、国にはいっぱいに広げた手の指先までの大きさくらいになる。いぶし銀の背面に西洋風の模様が彫り込まれていた。
「奥様、もしや」
「ええ、そう。あのときの子がこの子です」
道が国と呼ぶ子の身体を抱えて、光のほうへ向き直らせた。国は両手で鏡を掴んで覗き込みながら、幾度か光にも視線を投げた。動きの活発な瞳と広い額が、旧主の上野介に似ている。国自身は父を知らないだろうが、彼女はとても父親によく似ていた。
真知雄も父を知らない。真彦が亡くなったのは真知雄が生まれてから一年経った頃である。覚えていないだろう。覚えているかどうか以前に、父とは何かということを今も真知雄は解らないはずだ。国などは母の胎内にいるうちに父を失っている。
いずれ母親である光や道が、父とは何者かと彼らに教える。だが肌の実感としての父を、二人は生涯において知ることはない。哀れだ。
戦だった。多くの人々が亡くなった。父を知らぬ子は、きっと何千も居るだろう。同じ境涯の子がたくさん居れば悲しみが薄らぐものではない。それでも真知雄と同じく父を知らない国の存在を、どこか慰めに感じた。
あどけなく、国が光に笑った。何も知らない無垢な笑顔が、胸に痛い。抱きしめたいほど可愛いと光は思う。
うふ、というような声が光の傍らで聞こえた。真知雄が笑ったようだ。彼も国より一年早く生まれただけの幼児である。そんな子から見ても、より幼い子の笑みは可愛いようだ。
笑った真知雄を見て国がまた笑う。母の道の肩に掴まりながら、国は何やら嬉しそうだ。子供の笑い声は聞こえるだけで嬉しい。幸福の音色が何かといえば、きっとこの声だ。
道が光を見て、唇を綻ばせた。同じように光も笑おうとした。
(三年前は、千香や千鶴や千代の笑い声も聞こえていたのに)
不意にそんな記憶が衝き上げ、息を止めて掌で顔を覆う。抑えようもなく涙があふれ出た。
「もしよろしかったら、お子様達はこちらへおいでくださいな」
光を案内して後ろに控えていたおていが言った。光は振り返ることができない。
「お国様、真知雄様、どうぞこちらへいらっしゃいまし。お菓子を上げましょうね」
「お行きなさい」
道が国を促した。光は息を深く吸って、細く吐いた。昂ぶりが少し和らいだ。下袖を引き出して目元を拭う。真知雄が戸惑った目で、泣き顔の光を見上げていた。
「真知雄も行っておいで。お菓子をくださるのですって」
真知雄は唇を結んで小鼻を膨らませた。母親の泣き顔に驚いている上に、馴染みのない場所で母から離れることも不安なのだろう。
「行ってらっしゃい。母はここに居ますから」
「行こ」
唇を尖らせた真知雄の前に、いつの間にか国が来ていた。国は人懐っこい性質らしい。さらに真知雄が何かを言いそうになる前に「ねっ?」と国は彼の顔を覗き込む。その呼吸に呑まれたように、真知雄はうなずいた。それから国が真知雄に手元の鏡を自慢気に見せた。美しい細工の小物など真知雄は初めて見るだろう。目を奪われたようだ。誘われるまま、国と一緒に真知雄も出て行った。
子達が去って静かになった。
「近う」
道がもう一度、光を側に招く。光は静かに敷居を越えた。もっとこちらへ、と招く道に従って、光は膝を突合わせるほどの場所に座った。
「無事で良かったのう」
「ありがとうございます。奥様も」
行儀良く膝に置いた光の手を、そっと伸ばされた道の手が握った。敬うべき主人ではあったが、敬意より懐かしさと親しみが胸の中の多くを占めている。光は道の手を握り返した。兄の家で婢のように働く光の手は荒れているが、遠慮は忘れた。
「よく無事で居てくれた。会えて良かった。良く訪ねてくれたな、お光。苦労しているのであろう。これまでどのように暮らしていた?」
「実家の兄の所に身を寄せております」
左様か、と道が微笑んでうなずく。衒いの無い笑顔に光は心が安らいだ。
「そなたの姑と千香のことは聞いたか?」
千香とは光の長女の名である。三年前は七歳だった。
「何もかも、辛い事ばかりだった。あのときは」
「はい」
うなずきながら、光はまた涙が零れそうになるのを耐えた。
三年前、塚本家の家族は、足手まといになることを避けて道とは別行動を取った。道は北へと逃れる。それゆえに光達は反対の南へ逃れた。万一、敵に捕らわれたときには、光は「私が小栗上野介の妻である」と名乗るつもりでいた。道が逃れる時を稼ぐためのための囮になるつもりだった。もちろん逃げ切ることが第一である。
夫の母が上州七日市藩の家臣の出であったため、その家を目指して山道を逃げた。
ひとかたまりで捕らわて全員が死ぬことを恐れ、落ち合う場所を決めて、異なる道筋に別れた。だが姑と千香は待ち合わせの場所に現れなかった。一日待って、光は二人との再会を諦め真知雄と共に姑の親戚の家まで行った。
光達と別れた姑と千香は、山道で土地の老人に道案内を頼んだが、その老人が家に戻って旅支度をして戻ったときに二人は自害していたという。姑が親族の家までの道案内を頼んだ老人は、律義にも姑達の遺品を届けてくれた。そのおかげで、光も彼女達の死を知ったのである。
「千鶴と、千代は?」
「あの折り、逃れる途中、――水に、嵌まりまして、儚くなりました」
「残ったのは、真知雄だけか」
光はうつむいた。目に膝の上に拳が映る。
(私がこの手で、二人を水の中に沈めた、とは、言えない)
道に嘘を吐いた。あの時のことを正直に言えば道に何と思われるか怖かった。
庭から子供達の歓声が聞こえてきた。庭には芝を植え込んでいて、萌黄色のびろうどを敷き詰めたようになっていた。
その頃、光を案内した女中は、裏門の脇で一人の男に話しかけられて頭を下げた。散切りの頭で草臥れた紺の綿服に折り目もなくなった袴を着けている。
「あの方がおいでになったこと、奥様もたいそうお喜びでございましたよ。まあ、そうでしたか。お連れ様でございますか」
「先に奥様にお話をしてから、私も共にご挨拶をすることにしております。何も申していなかったとは、そんなはずはないのですが」
男の目鼻立ちの整った顔の右寄りの顎先に、大きな黒子があった。元は武家であるらしく、貧しげな中にも折り目正しさが見え隠れする。腰には二刀を帯びている。
「少しお待ち下さいませ」
男に「そんなはずはない」と言われた女中は、少し狼狽えた。世の中は明治に変わったが、もともと町人の身では、まだどことなく武家への遠慮と畏怖が消えない。
玄関から入ってすぐ脇の部屋に男を待たせて、女中は屋敷の中に入っていった。絨毯の敷かれた洋風の部屋である。少し後に、玄関まで連れてきた女中より上等な風情の女が現れ、彼を屋敷の奥へといざなった。
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