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しおりを挟む兼村と名乗った若者の主人は、塚原但馬守昌義という旗本だった。
塚原は万延元年の兼米使節団の一員であり、瓦解の寸前に勘定奉行だった。同時期に小栗上野介も勘定奉行に再々再任されていた。そんな縁もあって、兼村という男は、塚原家の使いで夫を幾度か訪ねてきた。
最後に兼村と行き会ってから、少なくとも三年は過ぎている。あの頃の彼はまだ少年のようだった。今は散切りとなっている頭に髷もあった。
兼村の右寄りの顎先に大きな黒子がある。小綺麗な目鼻立ちで口元も品のある形をしているのに、黒子が無駄な汚れのように感じたことを、光はうっすらと思い出した。
「小栗様には、まことご災難であったと聞いております。理由も明らかでないのに捕らえていきなりの斬首とは。何故の処刑であったのか、まったく理不尽なことでした。塚本殿も気の毒でござった」
その話を知っているのか、と光は少し意外に感じた。身内の者達はそれなりの縁があったから、小栗家の件を知っているのは当然だ。どうやらそのほかの旧幕臣の間でも、関心を持たれていたようだと知った。
つと袂が引かれる。後ろ手に庇った真知雄が光の袖を掴んだ。急に話しかけてきた見ず知らずの男が怖いようだ。光も兼村という男にさほど鮮明な記憶もない。事情を知っているらしい話しぶりにどう答えたら良いのか戸惑う。
主人の死と夫の死。どちらも三年前の閏四月のことであった。
一連の死にまつわることを思い出すのが苦しい。顔見知りとも言えないような相手に、泥足で古傷を蹴られたような気分になった。だが兼村には同情はあるが悪気はないようである。
兼村が腰に差した刀の拵えには傷みが見える。色褪せた紺の綿服を纏い、折り目も消え果てた袴を着けている。光も、色も褪せて継ぎの当たった物を着ていた。たいていの旧幕臣の係累の者達は、身形に構うゆとりなど無い。
江戸から東京と名を変えた土地に、かつての旗本御家人には居場所がない。多くは静岡に追いやられた徳川宗家を慕って去った。主に東京にのさばっているのは、幕府を倒し明治という時代を打ち立てた薩長土肥の連中だ。
「あのお屋敷も土佐っぽに奪われているようですね」
光はかつて住み暮していた旧主の屋敷をもう一度目に映す。向こうの角に見える門の中では、以前は小栗家の人々が和やかに暮らしていた。数えればたった三年ほど前の事なのに、隔世の感がある。
「悔しいですね」
兼村は目を鋭く細めてかつての小栗家を見ていた。涼し気な容貌に差す翳りに、光は少し見とれた。
それから二日後。
「以前に、こちらのご家中の出だと聞いていましたので」
と、兼村が光を訪ねて林田藩の屋敷に来た。
兄の家に居候している状況の光は、彼を家に通す事もできない。真知雄を背負って、屋敷の近所にある神田明神の境内に行って、すこしばかり立ち話をした。
それから数日おきに三度ほど兼村は訪れた。訪れるたび、兼村は真知雄に飴などを買ってきてくれた。優しい風貌の彼に真知雄も少し懐いた。光も彼の訪れを楽しみにするようになった。他愛のない世間話ばかりだったが、彼と少し話をするとどこかせいせいとするようで、その後は多少の義姉の小言も気にならなくなる。
四度目に兼村が訪れてきた時、義姉は光に嫌な顔をしてみせた。若い男が幾度も訪ねて来て、近所の良からぬ噂になっているようだった。
「こう何度も来られると、お長屋でも噂になるのですよ。どういうつもりでいらっしゃるのか、存念をよく聞いておきなさい」
「すぐ戻ります」
その場で背を向けた。忙しいのに、と義姉がつぶやいている。引っ越しも近い。労働力である光が場を外すのが、何より気に入らないようである。
どういうつもりか。それは光も疑問に思っている。
兼村は好男子である。彼と向き合って話をするのは楽しい。亡き夫と真知雄のために忘れようとしていた「女」の気持ちが、若い彼に対して浮き上がろうとする。
光は寡婦で子も居る。色めいた意味の相手になど成りようがない。それでももしかしたら、とかすかな喜びの予感を持ってしまう。若い頃は美しいと褒められる事が稀ではなかった。ありえないとすぐに打ち消し、またもしかしたら、と繰り返す。情けないと思いながら、兼村に会いに向かう足取りが軽い。三歩ほど踏み出した後、すっと胸が沈むのを光は感じた。
(この手で千鶴と千代を殺したくせに、私は……)
やむを得ない仕儀であったが、それで娘達を殺した罪がなくなることはない。心を浮き立たせることなど、この先も、あってはならないことのはずだ。喜びなど求めない。光の生きる理由は、ただ真知雄を育て上げることだけ。そうでなければならないのだ。
光は真知雄を呼んで背負い、藩邸を出て神田明神に行った。
四月の半ばである。黄昏時でもまだ日差しが明るい。明神下の家並みが男坂の影に染まるのを光は兼村と眺めた。真知雄は光の背から降りて境内で石を蹴って遊んでいる。
「実は、あと半月ほどで江戸を離れます」
「……それは、まことですか? いや、何というか、とても残念ですな」
意外だという顔をした兼村は、やはり本当に光に好意を持ってくれたのだろうか。
「いろいろとありがとうございました。きっともう、お目に掛ることもないでしょう。どうぞ、ご息災で」
「そう寂しいことを言わないでください。せっかくこうして、お話しできるようになったのに、本当に残念です」
兼村が腕組みをして項垂れる。光は彼から目を背けた。
「それでは、これにて失礼いたします」
「あ、お待ちください。お光様は、小栗様の奥様の行方をご存じでしょうか?」
光は少し目を凝らすように兼村の口元を見上げながら、じり、と後ずさった。
「なぜ、そのようなことを」
「存じませんか。実は私は知っているのですよ。知りたいとは思いませんか? 実は私が先日駿河台にいたのも、ご縁のある方を探していたからなのです」
ぜひ教えてくれ、と喉まで出かかった。しかし思いとどまる。さほど縁も深くない塚原家の家人風情が奥様の行方をどうして知っているのか。何のために小栗家に関わりのある者を探していたのか、意図が解らない。だが、知りたい。
「三野村利左衛門という男をご存じでしょう。今や三井の大番頭です。最近、彼の者は大きな屋敷を深川に持ったようでね。そこに」
あり得る話である。利左衛門は小栗家に仲間奉公していた過去がある。
「もしよろしかったら、これからご案内しましょうか?」
「いえ。けっこうでございます」
西日に足元からの影が伸びる。これから深川まで行くと、着いた頃には日が落ちる。夜に訪ねるのは失礼であろう。
(そこまで、この人を信じて良いのかどうか)
旧主の行方を知っていると言うが、それが本当かどうか。
「奥様のこと、教えてくださってありがとうございます」
光は真知雄の手を掴み、それでは、と兼村に背を向けて足早に立ち去った。
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