おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第二章

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 足音を殺して源治は部屋に戻った。
 月子はまだ眠っている。あどけないような寝顔が、胸に痛い。

 嘘であれば良い。
 月子を汚したことへの後悔が、昨夜から何度目か、源治を苛む。嘘ではないことを、全身が鳴るように覚えている。それも快楽を伴って覚えている。
 申し訳ないといいながら、許しを請いながら、源治は月子を貪った。かつて知らぬような愉悦を堪能し、惑溺した。忘れられない快感だった。
 そう感じたことが、なお重い罪に思えてならない。

 月子を、一人ここに置いて出て行こう。彼女の前から去ろう。
 そして今後は、畑野の家を訪れるときにも顔をあわせないように避けるべきだろう。
 障子にあたる白い陽光を見ながら、源治は溜息をついた。月子の父の畑野に、次に江戸から来るときにはまた会わねばならない。それが役目だ。
 その日が来ることが、怖い。
 源治は彼の愛娘を犯した。どんな顔をして彼に会えば良いのだろう。目を見て話すことが出来るだろうか。

 月子が、低い声を発しながら寝返りを打った。目覚めたのかと、源治は身を固くした。彼女が目覚める前に、出て行くつもりでいる。
 目覚めて月子が何か言うことが怖い。睡眠を経て、月子の意識はどう変化しただろうか。源治に対して、屈辱や怒りを感じているかもしれない。だが、それが正しい考えだと思う。
 そう思いながら、月子に謗られることが恐ろしい。源治は月子に嫌悪されることを恐れている。嫌悪が正しい反応だとしても、それが、怖くなっている。
 くだらない、と己の感情をさげすむ。
 長い睫毛の影を見る。
 白い目蓋がひらめき、あの眦の凛とした黒い瞳が、源治を捉えたときにどのような色を見せるのだろう。
 嫌悪の色だろうか、それとも違う色だろうか。
 それが見たい。しかし見てはいけないかもしれない。
 月子が目覚める前に出ようと考えながら、源治は月子の傍らでただ彼女の寝顔を眺め続けて途方にくれている。
 離れがたい執着を覚えている。その思いを振り切れない愚かしさに、源治は自分を罵りたくなっている。

 日が、高くなった。
 少し出る、と言い置いて源治は船宿を出た。

 旅籠に荷物を預けてある。昨夜は、少し酒でも飲んでから旅籠に戻って泊まるつもりだった。
「夕べはお楽しみで?」
 旅籠の番頭が、日も高くなってから戻った源治をからかう。
 楽しんだと言いたくは無いが、夜にあったことが彼にとって多分に快楽であったことを否定は出来ない。からかわれても笑えなかった。
 旅籠の帳場に預けていた荷物を受け取り、表向きの商売のために歩きだす。

 港町の隣の栄町に、拠点にしている狭い店舗がある。そこを守っているのは源治の手下に当たる者だ。中年の夫婦者で、ひっそりと店を営んでいる。源治は江戸から訪れても、その店に泊まることは無い。狭いからだ。
 そこは貸本屋であり、かつ源治の属する一派の国許での連絡所のように扱われている。
 人目に触れさせてはならない荷は、旅籠ではなくこちらの店舗に預けている。
 江戸から頻繁に本を運んでくる貸本屋など、新潟や酒田など繁華な街ならともかく、この土地では源治のその店しかない。
 事情はともかく、一月置きくらいの間隔で訪れる源治が持参する江戸で発行された本を、楽しみにしている近所の人々も多いらしい。
 それゆえに小さな店舗ではあるが人の出入りは多い。
 表向きの理由でそのようであるが、それはまた隠しておきたい本来の目的にも好都合だった。誰が出入りしてもまぎれやすい。
 隣近所の別の商売をしている店の者に、彼らは源治のことを江戸の本店の主だとでも言っているらしく、訪れると丁重に挨拶をされるのがどこか面映い。ご自身の足で回るのか、と意外な顔をされることもまれではない。
 隠密な使いのために装っている仮の商売ではあるが、存外、貸本屋としての彼を重宝にしている武家や物持ちの商人や庄屋などの分限者が居る。

 昨今の庄屋階級の者たちの知識欲は、本来は武家に属するはずの源治も目を見張るものがある。
 頼まれて運んできている書物も少なからず背負って来ていた。入手するのが難しいような学術的な書物を依頼する大百姓も居る。そんな書が存在することを源治さえ知らないような物を、学識の深い彼らは知っている。
 生活にかつかつな微禄の武士よりも、暮らしぶりにゆとりのある大百姓たちのほうがずっと勉学に励んでいる。それは時代のなせる業でもあるだろう。
 灌漑や作物の改良、道具の開発などによって、農作業の時間的な負担は恐らく百年前よりも軽くなっている。それでいて収穫高はあがっている。小作の者はともかく、庄屋階級ともなれば相当な収入があるだろう。
 大名に金を貸すような富農も出てきていると聞く。
 その時間と経済的なゆとりを以って学者を招いて講義を聴いたり、江戸に子を遊学に出すこともあるようだ。

(藩の中で誰が頭になるかどうかなど、争っている場合でもあるまいよ)
 藩士の立場ではあるものの、それ以外の者達の社会を同じ視線の高さで常に目の当たりにしている源治は、時折、冷めた頭でそんなことを思う。
 そのくせ自分の役割は、その武家社会の中の小さな争いの中で生かされている。
 身分など、おかしなものだとふと笑いたくなることも、あった。


 源治が懐紙に矢立で手紙を書いているときに、月子は目を覚ました。
 この宿を出るな、と目覚めた月子は彼に言われた。

 日の光を斜めに浴びて、真摯な眼差しで源治が手紙をしたためているのを、まぶしいように月子は見た。明るい日差しの中で、引き締まった輪郭と明確な陰影を持った源治の顔を、見ていた。
 ふと眼差しをあげた源治から、月子は目を伏せた。不愉快だったのではない。恥ずかしかった。
 浅黒い顔をして、笑うと白い歯が際立つさわやかな表情が印象的な源治である。そういう顔しか、月子はかつて見たことはなかった。笑っていない彼の顔を見ることが月子にとって何故か恥ずかしい。
 視線が合った途端に目を背けたことを源治はどう思っただろう。腹を立てただろうか。月子はそんなことを心配した。

 昨夜のうちに、そうせよ、と言われたとおりに身体の始末をした。そうするものだ、と源治が月子に教えた。
「覚えなくていい」
「いえ、覚えておきます」
 終始、源治は悲しげだった。
 身じまいをして肌着を纏った月子を、源治は懐に納めるようにして夜具に包んだ。
 とくとくという拍動が、源治の胸元に頬を寄せた月子の耳に届いていた。その音を目覚めてからも覚えている。
 今宵もここへ戻ってくるから、出てはならない。源治は書いていた通りの言葉を口でも言った。
 源治から目をそむけたまま、月子は顔を赤らめた。
(今宵も……?)
 白い首筋までが血の色に染まる。座りなおした体の芯の疼痛が、月子を落ち着かせない。

 昨日の夕方に船宿に入って貸し与えられた着物を、再びまとう。部屋の片隅の曇った鏡の前で髪を整えた。鏡を正視できない。そこに映るのは月子の知らない女のような気がしている。
 ほとんど無意識のまま、月子は窓を開けて夜具をはたいた。見知らぬ風景が障子を開けた窓の外にある。淫靡な夜の気配と裏腹に、窓の外の河岸からみえるのは、きらきらと朝日を反射するまぶしい水面である。

 よく、眠った。
 源治と共に在った夜具の中は彼の温度であたためられ、時折しゅん、と音を立てる鉄瓶には湯が沸いていた。火がある部屋の暖かさを思い知った。
 炭の燃え尽きた冷たい火鉢の前に座り、横からの日差しを受けつつ、すすけた畳の上に落ちた影を見る。
 月子には意味の解らない涙が、ぽたぽたと膝に落ちた。

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