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第三章

密 七

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 龍彦の美しい容貌を思い浮かべると、みなほの心に火が点る。
 彼の精がなければこの場で生きられぬ身であることが、悲しいより嬉しい。
 自らの命を伸ばすために、みなほは龍彦の帰りを待つのだろうか。それだけなら、ずいぶんな我執のようだ。
(それだけでは、ない)
 ただ側に龍彦が居ないことが、寂しい。
 龍彦はみなほを喜んでくれる。
 みなほの気が龍彦に力を与えるのだと言った。それが嬉しいのか、それとも、その気を発するために為すあのことが快いのか。
 理由は、いずれでも構わない。
 喜んでくれる龍彦がみなほは嬉しい。もっと、もっとたくさんの喜びを龍彦に味わって欲しい。そうすればみなほもなおいっそう嬉しくなる。
 肌も透けるような薄絹に身を包んでいることを、ふと寒く感じた。

 みなほの感覚では、二日ほど過ぎたと思う。
 まだ龍彦は帰らない。
 あゆやますが現れる縁の近くに褥を置いて休んでいる。力を失いつつあるのが解ってきた。
「そなたの住む世界とは違う」
 そう言い残した龍彦の、少し悲しげな微笑みだけ、脳裏に浮かべた。
 昼も夜も淡い霞の内にある。
 茫洋と見える湖水の果てに、龍彦は居るのだろうか。いつ、その霞の向こうから彼が現れるだろう。

 日が経った。
 あゆとますが運んでくれる重湯のようなとろりとした物を口にする。それなりに空腹は満たされる。身体の力はほんの少しだけ戻る。
「おきさきさま、お加減は如何ですか?」
「うん……。大丈夫よ」
 湖水に下りる階段の一番上に腰を下ろし、一つ下の段に足を置く。水面に二人の少女が顔を出していた。彼女たちは水から離れられない。
「おさびしゅうございますか?」
「あゆと、ますが、居てくれるから」
 可愛らしい少女達が互いの顔を見合わせる。二人が幾つなのかは知らないが、見る限りはみなほより二つ三つ幼い。可愛い、とみなほはいつも思う。
 かつて、もう八年も前に、弟が居た。そのころみなほは八歳で、弟は五歳くらいだっただろうか。きかん坊で、大人しく、と言っても聞き入れなかったが、あちこち動き回る仕草が可愛かった。
 あの頃は母が居た。父も居た。兄と姉も居た。
 ありがとう、と言うのよ。
 そう教えてくれたのは、姉だっただろうか。木の上に実った柿を欲しくて、眺めていて、兄が取ってくれたのを、手渡された。そのとき教えられて、ありがとう、と言った。兄は笑った。
 懐かしい、と思った。何もかも失った今になっても、生きる心がみなほの内にはある。
 ありがとう、と思う心は、胸の内を温める。
 父が、皆を殺したと聞いた。その場を見た。血まみれであった。
 怖かった。
 その後、清掃された小屋に、みなほは一人で置き捨てられて生きてきた。辛い日々だったと、今になって思う。
「ありがとう、あゆ、ます」
 可愛い二人が、悲しいような嬉しいような顔をしてみなほを見上げた。
(ありがとう、龍彦様)
 できれば直に言いたかった。

 ここはそなたの生きる世界とは違う。
 ならば、生きていないことが本当であろうか。いずれ、力を失っていくのだろうか。それもまた、運命であるのか。
「おきさきさま、悲しいお顔をなさらないで」
「お力になりとうございます」
「良いのよ。ありがとう。二人とも、ありがとう」
 贄になる前に、初めて、美味なる物で腹を満たす喜びを知った。
 みなほを身代わりの犠牲にするつもりであったとしても、村長の工兵衛や真由は優しかった。侍女達も、粗雑ではあったが、それなりに親切だった。
 生きていなくていいと望まれてきたみなほが、この一年だけ、大切にされた。生きていなければいけないと、守られた。嬉しかった。
 贄の役目が終れば、もう、みなほは生きる意味を無くす。村では、みなほの生きる場所はきっともうない。贄でなくなったみなほは、村では息をしているだけで、冷たい視線に囲まれるばかりだ。
 だがこの龍彦の世界でも、生きられないかもしれない。
「もう、良いのよ」
 生きることを望まれなかった己が、龍彦の贄に捧げられ、彼に悦ばれた。限りない愉悦が与えられ、それが龍彦の力になると聞いた。
 生きていい、悦んでいい。そしてそれが誰かの力になる。何と嬉しいことかと、思った。
 しかしそれは、この世界には歓迎されざることであったらしい。 内密であるはずのみなほの存在が、眷属に知れたそうだ。
 湖水に落ちたときの気配を思い出す。どくん、……どくん、と何か水なのに水でない、生温かい鼓動のような気配を感じた。
「その湖水は、龍彦様に繋がっているのね?」
「……御子様にももちろん、龍神様にも、眷属の皆様にも」
「そうなのね。不思議ね」
「私達は皆、御子様や龍神様の懐に抱かれております」
「それゆえに、ここから離れては生きられません」
 それならば、ずっと離れてはいけない、とみなほはあゆとますを見守った。
「おきさきさまのように、二本の足で歩むことも美しゅうございますが」
「まあ、そう思っていたの?」
 靄を透かして見ても、あゆとますの下肢は見えない。彼女たちに二本の足は、ないのだろうか。淡く霞んだ水面の下に、ゆらゆらと長い衣が揺らいでいるように、みなほの目には映っている。
 座る姿勢が辛くなってきた。身体を横に倒し、細い息を吐いた。
(龍彦様、帰って来てくださいまし……)
 そして、また力強くみなほを貫いて欲しい。愉悦の彼方に衝き上げて欲しい。それも遠い望みのようである。
 ふと、目蓋を閉じて、闇を感じた。

 みなほは眠ったらしい。目を覚ますと、身を起こすのも苦しいような気配があった。四肢に力が入らない。
 階段に近い、縁にいる。
 暑くもなく、寒くもない。静かに霞かかる湖水は、波立つ事もなくたまに揺らいでいた。
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