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第一章

贄 四

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 九歳のとき、村長の家のばあやが、火のおこし方と粥の炊き方を教えてくれた。
 以来、みなほは粟や稗を実のままで貰い、自ら炊くようになった。以前に彼等から与えられていた冷たい粥に比べれば、湯気の立つそれは、みなほにとってはご馳走に感じられた。
 僅かながら人と関わったのは、そのばあやだけだっただろう。
 みなほの糧を、村長の屋敷から届けに来る人も交代交代だったが、いつしか彼女だけになっていた。
 
 ばあやが死んだのは、みなほが十四歳になったころだ。
 初めての月の障りの訪れに、呆然と土間でしゃがみこんだみなほに、
「大人になったってことさね」
「大人?」
 それが大人の女として当然の事象であり、これから月々の訪れがあること、そしてその始末の仕方などを教えてくれた。
 その、直後のことだった。
 数日の間、みなほに穀物を届けてくれる事が絶え、それから訪れたのは見知らぬ女だった。
「いつものばあやさんは?」
「死んだよ」
「ええっ?」
 みなほの驚きに白々と冷たい眼差しを向け、ここに置くよ、と戸口の外に物だけを置いてその女は去って行った。
 寂しいという気持ちは、誰に教えられなくても生じるものだ。
 八歳の時には漠然とするばかりで解らなかったことが、十四歳にもなれば少し解ってくる。親兄弟が不意に亡くなったことよりも、みなほにとっては、あのばあやの死のほうが大きな哀しみに感じられた。年齢のせいもある。
(私のせいなの?)
 そんなことさえ考えた。

 ばあやの死後、みなほと口をきく人間は絶えた。
 家の外に出れば、遠目に見ても、近くにすれ違っても、みなほに目を合わせる者もない。
 秋の祭礼のときだ。それと知らず家を出て、多くの村人とすれ違ったが、無言で向けられた遠巻きの視線は冷たかった。それはひどくみなほの胸を痛めた。
 その後は、戸を開ける前に、人が居るか居ないか小窓から確認するようになった。人が居れば外には出ない。家の片隅に膝を抱えて座り、人影が絶えるのを黙って待つ。自然、外に出る日は少なくなった。

 卯年に、みなほは十五歳になった。早い者ならば嫁ぐような年齢でもある。だがみなほを妻にと望む者は居ない。
 何のために生きているのか。そんなことを、みなほは考えるようになった。
 常に独りで、居る。この先もそうなのだろう。
 嫁ぐ、とはどういうことか。八歳までは父も母も居たから何となく解る。彼等のように、子を生して共に暮らすことなのだろう。
 物思いに耽るのは、家の中ではなかった。
 御子ケ池のほとりに座り、美しい碧の水を見ながら、色々なことをみなほは思う。心に浮かぶ問いに答える口はなく、泣き濡れても肩を撫でる手もない。
 村の習わしでは、祭礼の時以外に御子ヶ池に近づくのは禁忌だった。それは御子ヶ池の麓の村々では常識で、当然のこととして口伝されていた。見張りもないが、実際に近づく者は見かけない。
 しかし、みなほは知らない。かつて父母が言ったかもしれないが、思い出さなかった。
 常に人気の絶えた御子ヶ池は、みなほには居心地の良い場所である。
 時折、山女などが跳ねる音が鳴る。羽を日に透かして蜻蛉が飛び交い、みずすましが音もなく水面を渡る。
 葉擦れの音、虫の羽音、御子ヶ池から流れ出るせせらぎの音。
 池の底の砂を巻き上げながら、水が湧く。
 それらの景色を五感におさめてみなほは独り、水辺にたたずむ。

 母は、子を疎んじなかった人だと思う。訳も無く泣いた幼い頃、母はみなほを胸に抱いて、何が悲しいのかと問いかけながら頭や背を優しく撫でてくれた。
 今も、そして将来にわたっても、その優しい手を、みなほは二度と望むべくも無い。
 何故、生きているのだろう。
 父と母と兄と姉と弟と、共に死んでしまえばよかった。そんなことを思う。今日も昨日も一昨日も、ずっと腹が空いている。与えられる糧は生きるぎりぎりの分だ。いつもただそれだけだ。
 抱え込んだ膝の中に涙を落としてみなほは泣く。
 髪を撫でるのは風ばかり。肩を温めるのは木漏れ日ばかり。耳に届くのは、池のほとりから流れ出す沢の音と、鳥の声だけだ。
 池はどのくらい深いのだろう。石を袂に入れて飛び込めば、浮かべないほどの深さだろうか。涙のままの目で池の水を見る。
 耳の底に遠い遠い雷のような音が響いた。足下が少し揺れる。よくある弱い地震である。めまいのように揺れを知り、伏せていた目をふと開く。
 駄目だ、と思う。
 美しい風景だ。碧に澄み切った御子ヶ池の水はとても美しい。そこに骸など浮かべるべきではない。美しいものを自らの屍で汚すのは、みなほは嫌だった。
 涙に濡れた顔を、池の水で洗った。


 座した龍彦がみなほを膝に乗せた。
 背から抱き、腕を腹に絡めて肌に触れる。汗ばんで、熱い。
「……っ!」
 背後から掌が胸の膨らみを包む。反らせた顔の上に、龍彦が居る。みなほの呼吸を飲むように、唇が重なった。
 膨らみの先を龍彦の指が捩る。痛むような痺れるような感覚にみなほが喘ぐ。喘ぎは唇と唇の間に消えていく。ぐらぐらと視界が揺らいで感じた。まるで大きな地震に遭ったように、脳裏が蹌踉よろめく。
 今も地震で揺れているのだろうか。地響きも、震動も、今のみなほには何も解らない。
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