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陰と陽の絆
しおりを挟む薄暗い。
窓にかかったブラインド越しの陽光のせいか、部屋の中は薄暗かった。
もしくはそれは、僕自身の心のありようのせいだったのかもしれない。
青みがかった薄暗さの中で、僕は背中に冷たいものを感じながら立ち尽くしていた。
高級ホテルの最上階の一室にある広い応接室の中、まるで会議室のように設え直されたのだろうソファとテーブルの向こう側にずらりと揃っているのは一族の重鎮達だ。彼らの鋭く責めるような視線が僕を射殺さんばかりに凝視してくる。
背中を流れ落ちるのは、間違いなく脂汗だった。
一族の長の息子ではあっても、僕はスペアにすぎず、スペアからすら脱落した出来損ないなのだ。
そんな自分を自覚していたから、僕は逃げたのだ。
逃げたところで、だれひとり困ることはないと、おそらく問題児が消えてくれたと重鎮達はホッとしただろうと思っていたのだが。
それなのに、なぜ。
僕を探すものなどいないだろうと、探すものがいるとすれば、それは彼以外にあり得ないと、そう確信していたというのに。
「奏(そう)座りなさい」
父のすぐ下の弟、叔父にあたるマルグリット子爵が溜息をつきながら手で椅子を指し示す。
そのどこか疲れたような表情に、僕の心臓がより一層縮み上がった。
ゆっくりと、重厚感の勝るゴブラン織の座面に座る。
忘れ去られすでに香りの散ったコーヒーに手を伸ばし一気に飲み干す。
乾いていた喉が数時間振りの水分に潤った。
「逃げるなら、一生逃げ切れるようにするべきだ」
眉間に刻まれた苦渋の証を指先で揉みほぐしながら、厳しい言葉を紡ぐ。
ああ、変わらない。
あの息苦しかった世界で散々味わったそれは、懐かしさよりも苦しさを思い出させるものだ。
出来損ないだと、直接にではなく告げてくる無慈悲なことば。
安易かとは思った。
逃亡先を母の故郷に選んだことは、確かに安直だったろう。それでも、母方の親族に接触することなくこの国で暮らそうとしたことは、それほど愚かな策ではないと思えたのだ。
事実、五年、逃げ切ったではないか。
彼とは違い、東洋の血を色濃く受け継いだ僕は、ほんの少しばかり彫りが深いだけで、この国の人間として違和感なく溶け込めていた。
髪も瞳も、母と同じ黒。
ねっとりとした漆のような色を、僕はあまり好きではなかった。
彼のような美しさはなくても、あの国で違和感のない金の髪や麦の穂のような色に憧れたものだった。僕のこの髪の色は、一族にとっては異端の色でしかなかったからだ。
そう。
今僕を凝視している重鎮達の誰もが、金か麦の穂色の髪を持っているように、一族の中では僕だけが異端だったからだ。
「もっとも、我々から逃げ切ることなどできることではないだろうが」
単に、逃げたことが愚かだと、そう告げてくる。
わかっていない。
ぐるぐると渦を巻くのは、心の奥底に長らく押し込めていた吐き気だった。
僕は、逃げなければならなかったのだ。
そう。
逃げなければ。
「お前の身柄は引き取った。戻りなさい」
どこに? などと茶化すことはできなかった。
「お前にはお前の役割がある」
カラーレンズの奥の薄いグレイの瞳が、僕から逸らされることはない。
「スペアの僕に何の役割があるというのです」
スペアの上に出来損ないの僕に。
口角がひきつれるように持ち上がってゆくのがわかった。
「捨て置いてくださって結構ですよ」
どこか別の国にでも逃げようか。それとも。
「そうもいかないだろう」
言外にお前の思惑など問題ではないのだと匂わせて、別の重鎮が口を出す。
「クリュヴェイエ公爵がお前の現状を知らないとでも?」
その名に全身が震えるのを必死で堪えた。それでも、血の気が引いて行くのが感じられる。ぐらりと視界が大きく揺れて、ただでさえ青暗い闇がひときわ深さを増した。
ああ---と、現象を理解する。
最近は、より正確に言えば、ここ五年ばかり起きることのなかった貧血だった。
あの頃は、すぐに貧血を起こして意識を失っていた。それもまた、スペアとして出来損ないの謗りを受ける原因ではあったのだ。
だれひとりとして、それがどのタイミングで起きているのかを理解してくれるものなどいはしなかった。
いや、ただひとりだけ。
貧血の原因である当のクリュヴェイエ公爵だけが、底意地悪く喉の奥で笑いを噛み殺しながら僕を見ていた。
叔父の、どこか彼に似た薄いグレイの瞳が、視界で揺れている。グレイの瞳の奥に、かすかな憐憫を感じたのは気のせいだろうか。
首を振る。
この貧血は心因性のものだ。
青く暗く狭まってゆこうとする視界を、必死に元に戻そうと努める。
「わかりました」
かろうじて椅子から立ち上がった僕が一歩を踏み出したその時、
「なにがわかったというのかな?」
涼やかな中に毒を混じえた声が耳を射った。
錯覚ではなく、射たれたとそう思った。
ホテルの上等なカーペットの上に踏み出した足がバランスを崩したのを他人事のように感じていた。
とっさに伸ばした手で重厚な椅子の肘掛を掴む。
息が荒くなった。
苦しい。
ダメだ。
このままでは、捕まってしまう。
せっかく逃げたのに。
平穏な毎日を送っていたのに。
誰か。
誰か。
誰か。
救済を乞う声にならない叫びが、荒ぶる鼓動にリンクする。
けれど、誰が僕を助けるだろう。
鼓動と脈動とがからだを震わせる。
この五年、誰とも深く関わってはこなかった。
振り返ることさえも恐ろしかった。
それは、すぐに逃げ出すことができるようにとの配慮であったのか、それとも、こうして捕まることがわかってのことであったのか。
いつの間にか溢れ出していた冷や汗が瞼を濡らし、目を痛めつけてくる。
そんな視線の先に、彼がいる。
僕の顎をきつく掴んで、自分の視線に無理矢理に合わさせる。
首が痛い。
「いつまでそんなぶざまなさまを晒している」
この私の弟ともあろうものが。
頬を張るような鋭い叱責に、涙がこみ上げてくる。
ああ本当にぶざまきわまりない---と。
引きずり上げるようにして僕を立たせた彼の、ほんの少しだけ乱れた淡い金色の髪の間から覗く薄いブルーグレイの眼差しが、凝視してくる。
端麗なと表現するも烏滸がましい美貌がそこにはあった。
犯しがたい威厳を放ちながらそこに存在する彼が、なぜ僕の兄なのか。
形良い鼻梁の下、薄いそのくちびるが、皮肉げな冷笑を刻んでいた。
誰が彼と僕とが双子の兄弟だと思うだろう。同じ歳だというのに、彼はすでに完成された貫禄を身につけている。外見だけではなく、内面からにじみ出るものまでもが、立派な支配者のものだ。それなのに、僕はといえば、二十五歳に見られることさえ少ない。そう、この島国にあってさえ、僕は幼く見られてしまうのだ。
再び顎を持ち上げられ、
「窶れたな」
言われて、顔を背けた。
嘲笑じみたそのことばに湧き上がってくるのは、羞恥以外のなにものでもない。
窶れた。
「………」
反論もできなかった。
留学先の大学を勝手に退学して姿をくらませた僕は偽名を使ったために不法滞在者となった。そんな僕に出来る仕事はアルバイトくらいなものだったからだ。それも夜の仕事、接客は性格上無理だったため裏方だった。華やかな脂粉にまみれた虚飾の世界の陰の中でただ毎日を過ごしていた。
それでも、
「離せ」
僕だとてもう子供ではない。
自分の力だけで生きてきたのだ。
密入国者が働いている店と摘発され、僕もまた不法滞在者として収監された。
できればこの国にいたかった。だから特別滞留許可を得ようとしたのが、仇になったのだろう。なぜ、本来二重国籍保持者であったのに、国籍選択の期限である二十二歳までに日本の国籍を得なかったのかと質問されても、答えようがなかったのだ。
国籍を得て、戸籍を持った途端、兄に見つかるのは火を見るよりも明らかだった。
今、現在のように。
「まったく。なんとも嘆かわしい。この私の弟が、不法滞在者などという不名誉な犯罪を犯すとは」
涼しい表情で僕を否定しながら顎を握る手には力が込められてゆく。
砕かれそうな痛みに、眉をしかめる僕に、
「奏、お前はこの私の、クリュヴェイエ公爵の実の弟であるという誇りを忘れたのか」
と、糾弾の手を緩めない。
けれど、僕にはそんな誇りなどない。
僕の誇りは、十年前、この兄によって粉々に砕かれたのだから。
「僕は、もう、クリュヴェイエのものじゃない」
者なのか、物なのかもあやふやに叫ぶ。
「それは、あんただって知っているだろう! あんたが、あんなことを僕に強いなければ、僕だって、まだクリュヴェイエの名に誇りを持てただろうけど………」
十年前からの五年間が、どれだけ僕の誇りを粉々に打砕き続けたのか、この兄が知らないわけがない。
一族の重鎮たちが雁首を揃えていることさえ忘れて、僕は叫んでいた。
ぶざまだろうとなんだろうと、かまいはしない。
「そんな名前なんか、捨てた! とっくの昔に! だから、あんたは、もう僕にとって」
喉が破れても構わない、と、できる限りの大声で叫んだせいでおかしなところで息が切れたけれど、
「赤の他人なんだ」と続けようとしたその刹那に頬に弾けたその衝撃に、部屋の空気が凝りつくよりも先に、
「だまれ」
似つかわしくないひび割れたような声だった。
張られた頬の痛みさえ忘れるほどの、豹変だった。
十年前のあの出来事が脳裏にフラッシュバックする。
あの悪夢の五年間が、僕の動きを呪縛しようとする。
「お前は私の物だ」
野蛮な劣情をはらんだ野獣の唸りのような声が、呪縛を解く。
踵を返した僕の足を、兄が払った。
まろんだ僕をひっくり返し両肩を絨毯に押さえつけ、猛々しいくちづけを落としてきた。
もがく僕の手を取ってくれる存在は、だれひとりとして現れず、僕はその場で十年前の再現のように双子の兄の暴虐に曝されたのだ。
*****
兄の劣情をこの身に打ち込まれ、とめどない白濁を注がれつづけた。
重鎮たちのだれひとりとしてその場を動くことはなかった。
兄による弟への蛮行を認めるかのごとき空気がその場にあった。
なぜ。
僕はただの出来損ないで、クリュヴェイエには必要のない存在であるだろうに。
痛くて熱くて苦しいばかりの兄の熱に犯されつづける。
そんな僕の白くかすんだ視界に映る、重鎮たちの見えるはずのない影が、異形の形を取って見えた。
そうして兄が僕から身を離したとき、
「確かに」
と、誰かの声が聞こえた。
「クリュヴェイエの血を確認いたしました」
と、誰かがつづける。
これで名実ともにアンブロワーズ・響(ひびき)・クリュヴェイエがクリュヴェイエ公爵の当主であると承認いたしました---と。
アンブロワーズがクリュヴェイエでありつづけるために、テオドール・奏はアンブロワーズの受け皿となるのだと。
「二度と逃げることは許さない」
兄の満足げな声が耳元で聞こえたとき、
『逃げるなら、一生逃げ切れるようにするべきだ』
叔父の言葉が脳裏にこだました。
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