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AIR
2話目
しおりを挟むなんだかうるさい。
ひとことでいえば狂騒。都会の雑踏で喧嘩が起きたような、そんなうるささだった。甲高い声がキィキィとなにかを喚いている。低い声高い声さまざまなトーンの声が決して心地よくはない目覚めを促す。
頭が痛い。
喉が。
目が回る。
気持ちが悪い。
フローリングの上に腰を落としたままで上体を起こした尋を、目眩が襲った。しばらく目をつむり目眩をやりすごす。ねっとりとした湿気を感じて見下ろせば、己の血と胃液に染まったTシャツが目に入った。口元を拭い、頭の痛い箇所を確認する。傷になっている。が、血は固まりかけていた。
大きく深呼吸をした時だった。
「いいねぇ」
目の前に黒々とした一対の瞳が現れた。ぬらぬらと欲望を隠しもせずに、己よりもはるかに年下の少年の双眸を覗き込む。顔を寄せ、クンと鼻を蠢かせて、舌なめずる。
「いい子だねぇ」
女のかたちをしたものの声が耳を射る。
「可愛いねぇ」
尋の肩を掴み、後ろ側から頬を摺り寄せる。
「ああ、いい匂いだねぇ」
抱き込まれて、尋の鼓動が恐怖にせわしなく踊る。
「こんなにいい匂いを嗅いだのはひさかたぶりだよぉ」
しかし、尋は逃げることを思いつきもしない。
「あたしたちに食べられて、そうしてあたしたちの一部におなりな。いい子にしておいで。そうしたら痛いことはない。気持ちいい最中に死ぬことができるよ」
ぞろりと脳を撫で上げるような声が、思考力を奪い去る。
「あたしたちは、いい子や好きな相手しか食べないのさ」
「いい子や好きな相手には、快楽の死を」
「悪い子や嫌いな相手は、弄んで殺すだけさ」
「悪い子や嫌いな相手には、苦痛の死を」
「心が醜い人間など食べる価値は皆無さ。せいぜい苦しんで死ねばいいのさぁ」
「それがあたしたちの娯楽になる」
「彼らの価値などそれだけさねぇ」
「ほら、見ていてごらん」
うるさい鼓動を引き裂いて女のかたちをしたものが指し示す箇所が明瞭に見えた。
尋の両目が大きく瞠らかれた。全身が震える。
刳り貫きの入り口の向こう、尋の父のものだったピアノを中心としたサンルームは、いまだ幼い尋が想像もしないほどの異形の空間と化していた。
尋の視線がその場所に釘づけになる。
周囲をおびただしいひと以外のなにものかに囲まれて、三人の人間が悲鳴を上げ逃げ惑っていた。血に汗に涙に、唾液や鼻水までもあふれながさせながら、彼ら自身意味を理解していないだろう短い悲鳴を呟きながら、逃げ惑う。彼らは完全に弄ばれている。まるで集団生活を是とする大型ネコ科の生き物に囲まれたかのように、死の舞踏を踊らされているのだ。
「ああそうだ、あたしたちもあっちにいこう」
いいことを思いついたと言わんばかりの女らしきものの声が尋の意識をかすめた。そのまま抱き上げて、女らしきものがサンルームへと移動する。
「ほら、特等席だよ」
ピアノの降ろされた屋根の部分に尋を抱き込んだまま座る。すると、人型をとっていないものがより見物がしやすいように場所を開いた。
細いなにかが男の首を縛める。きゅうきゅうと締めては力を抜く。きゅうと締められては呻きもがく。解放されては荒々しい息を吐く。涙も鼻水もよだれさえもが、男を濡らしている。
「見苦しいねぇ」
だれかがはははと笑う。
「その心根にふさわしいさぁ」
「ほら、この腹」
「アルコールが詰まってるねぇ」
「裂いたら酒が溢れ出すよねぇ」
「血と尿にまみれたアルコールは臭いさねぇ」
「すすれば死ねるかねぇ」
「不味いよ不味いよ」
「むさいよむさいよ」
はははははと、あざけり笑う。
髪の束を掴まれて、女が悲鳴を上げた。そのまま釣り上げられて、髪が抜け首が伸びる。ぶらぶらと揺らしてはドスンと床に落とす。涙も鼻水もよだれまでもが、彼女をぬれぬれとてらてらと彩る。
「ああむさい」
「不味いねぇ」
「首を掻き切るかい?」
「ほら、この腹、腕、足、顎」
「指などソーセージのようさねぇ」
「この腹など大きなハムだよぉ」
「裂いたら脂肪が溢れ出すよねぇ」
「脂肪が詰まってるねぇ」
「臭い臭い」
「醜い人間の脂肪は臭いよぉ」
けらけらけらと、あざけり笑う。
爪であちらこちらを薄く欠かれて、流空が悲鳴を上げた。それでも悪態を吐くのは忘れない。手を振り回す。せめてもの反撃をと。反撃の反撃に足を深く傷つけられて、倒れ伏す。起き上がりかけては伏してを繰り返し、足から血をながしながらもどうにかずるずると四つん這いで逃げ惑う流空の尻を鋭い爪でつついてはぐるぐると追いまわす。血も涙も鼻水もよだれさえも、もはや混乱と恐怖以外を感じられない流空の下肢を濡らすものにはかなわない。
はははははとけらけらけらとあざけり笑う。
「ああおもしろい」
「楽しいねぇ」
「悪いこどもをいたぶるのは楽しいよぉ」
「ほらほらもそっと早く逃げないと貫くよぉ」
「尻の穴から貫くかい」
「口から貫くかい」
「目玉をくり貫くかい」
「悪い子の血は不味いけれど」
「いたぶりがいはいちばんあるねぇ」
ははははは。
「悪い子の腹を引き裂けばぁ」
「どんな臓物があふれてくるんだろうねぇ」
「それそれ逃げろやぁ」
「あんよは上手ぅ」
けらけらけら。
繰り広げられる光景の酸鼻さに、尋の視線は釘付けになる。彼自身を縛てくるなにものかの存在など頭からは消えていた。
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