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Aim , Perfect Human !

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「私と一緒に『真人間』を目指さない?」

 これといった取り柄もなくクラスでも浮いた存在だった僕が彼女に声をかけられたのは、かれこれ半年前、高校2年生に進級したばかりの春先のことだった。
 ひと気のない階段の踊り場に呼び出され、いかにもおざなりな世間話を交わしたのちに告げられたのがその台詞だった。

 ――私と一緒に『真人間』を目指さない?

 心の中で反復してみるが、全く意味が分からなかった。普段から人と話さないせいで自分の耳がおかしくなったのではないかと本気で心配になったりもした。
 訊き直そうと思ったが、ふと別の事柄に関心が惹きつけられた。
 彼女の面持ちがやけに緊迫しているように思えたのだ。よく見ると、額や首筋に玉のような汗が浮かんでいる。
 何気なく僕が一歩足を前に動かすと、すかさず彼女も一歩分だけ後ずさりした。おもてには明らかに怯えの跡が浮かんでいた。
 訳を尋ねると、

「男の人が怖いの」

 彼女は自分の肩を抱きかかえながら切々と事情を打ち明け始めた。

 電車通学をしている彼女はその車中にて数ヶ月前から執拗な痴漢被害に遭っていた。
 見知らぬ無頼漢に身体を卑猥な手付きで撫で回され、そのたびに彼女は声を上げることもままならないほどの恐怖に呑み込まれていた。
 最初は衣類の上から腰回りを触られる程度の被害に止まっていたが、それも徐々にエスカレートしていき、やがて臀部や太腿などの下半身にも手が伸びるようになった。酷い時は服の中にまで手を入れられ、まさぐるような手付きで身体を愛撫されたこともあったという。
 日に日に激化していく痴漢行為に戦慄を覚えた彼女は、結局抵抗の声を上げることができないまま、登校時に利用する電車を人混みの少ない早朝帯のそれに切り替えることでひとまずは事なきを得ていた。
 だが心に負った傷は想像以上に根深いものだった。
 破裂寸前まで膨れ上がった『男性』に対する不信感と恐怖心は彼女をすっかり臆病で神経質な存在へと変えてしまっていた。
 以来彼女は男の人に近づけない身体となった。気心の知れたクラスメイトであろうと、信頼の置ける教師であろうと、性別が男というだけで無条件に恐怖の対象に分類されてしまうのだった。思いがけず男の人に近づかれようものなら、たちまち吐き気を催してしまうばかりか、果てには意識まで朦朧としてくるのだという。
 同じ血が通う父親さえもその例外ではなく、家庭内では反抗期の娘を演じて、極力接近を避けているらしい。
 ただし年端もいかない幼児などが相手となると、とりわけ恐怖心は湧かないのだそうだ。察するに、男性そのものを怖れているというより、自分の身体を性的な目で見られることや、そうした余地が少しでもあることに対して過敏になっているのだろう。
 だから同じクラスの男子生徒である僕に話しかけてきた時も、よほどの勇気を振り絞ったに違いないのだった。
 話を聞いて、今も緊張した面持ちを浮かべているのはそういうわけか、と納得した。
 そのうえで、改めて先の発言の意図を尋ねると、

「『真人間』を目指すっていうのはつまり、男性恐怖症を克服したいってこと」

 そう回答があった。
 男性に対する抗体を身につけ、元通り男の人に近づける身体となり、また痴漢被害に遭おうものなら声を張り上げて周りに助けを求められるだけの勇気を備えた人間になる。それが彼女の目指す『真人間』なるものの像だった。
 意向は理解したが、しかし依然として話の要領が掴めなかった。彼女はいったい自分に何を求めているのか?
 詳しく訊くと彼女は瞳に真剣な色を灯して、その目で真っ直ぐ僕を見つめてきた。

「付き合ってほしいの」

 あまりに装飾のない言葉にどきりとした。
 もちろんその台詞を額面通りに受け取って舞い上がるほどの愚か者ではない。
 具体的にどのように協力すればいいかを尋ねると、彼女は硬い表情の中に幾分か得意そうな色を滲ませて、こう言った。

「難しいことは要求しないわ。貴方は、ただ私に近づくだけでいい」

 まず人目につかない場所でふたりきりになる。次に正面から向かい合い、少しずつ距離を縮めていく。とりあえず彼女が根を上げるまで。それを毎日繰り返す。以上が彼女が提示したアクションプランだった。
 単純な方法ながらもなかなか荒療治だなと僕は思った。素人の思いつきで行動するより、ちゃんとした病院に通って治療した方がいいのではないかと指摘してみたが、彼女は表情を曇らせてかぶりを振った。

「できれば私が男性恐怖症であることは公にしたくないの。厳密には、私が痴漢に遭っていたという事実を隠したいと思ってる。理由は色々あるけど、いちばんは自分が臆病者であることを周りに気取られたくないから」

 彼女はつかの間、下唇を噛んで項垂れた。下がった両腕に必要以上に力が入っている様が見て取れる。
 まあ痴漢に遭ったという事実を伏せておきたいという気持ちは分からなくもなかった。
 特に高校生というのはそうしたセンセーショナルな話題に目がない生き物だ。一部の拡声器と呼ばれている生徒の耳に入ろうものなら、いくらか脚色の入り混じった噂話が学校中に電光石火のごとく広まるだろう。そうなれば周囲に色眼鏡で見られるようになることは不可避だ。
 すると次に気になるのは、どうして協力相手に僕が選ばれたのかということだった。
 話を聞く限り、性別が男であればその相手は誰でもいい気がする。普段からろくに関わりのない僕なんかより、もっと気心の知れた男子を頼ればいいだろうに。

「その、気を悪くしないでもらいたいんだけど……」

 ふと彼女の口振りが重たくなった。肩を竦めて、少し上目遣いになる。

「私の目から見て、男子の中で貴方がいちばん『真人間』から遠い存在に見えたから」

 発言の意味は判然としなかったが、その申し訳なさそうな表情と口振りからして決して良い意味では無いということだけは伝わった。
 曰く、彼女が協力相手に僕を選んだ理由は主にふたつあるようだった。
 ひとつ目は、僕がクラスで孤立していたこと。
 ふたつ目は、僕が中性的な雰囲気を備えていたこと。
 協力者に求められる絶対的な条件として、彼女が抱える事情を外部に流出させないことが挙げられた。すると口が堅い人間か、僕みたいな外部との接点を持たない人間かに限られてくる。その二者択一に迫られた結果、彼女はより安全だと思える方を選んだ。つまりは流出経路をそもそも持ち合わせていない方が信頼に値すると考えたわけだ。
 それに加えて、僕自身の背格好や普段の立ち居振る舞いも、協力者として申し分ない要素を備えていたようだ。僕は男子生徒の中では比較的小柄な方で、声質もやや高めであり、どちらかというと童顔に分類される顔立ちをしている。そのため他の男子よりは一緒にいて緊張や恐怖を覚えにくいのではないかと踏んだらしい。
 またこれは言外より推察されたことだが、どうも僕のことを性欲が無い人間だという風に思っている節があるみたいだった。高校生というと思春期真っ盛りの年頃で、たしかに周りの男子生徒たちにしても事あるごとに下ネタを口外へ頻出しているイメージはある。それと比べたら、常に他の生徒と交わらず、寡黙に読書ばかりに耽溺している僕の姿はいくらか清廉潔白なものに映っていたことだろう。
 無論そこにある種の侮蔑が含まれていることに気づかないほど僕も鈍感ではない。要するに、僕みたいなチキン野郎に手出しする勇気なんて無いだろうと高を括られていたわけである。
 なるほど、確かに失礼な話だ。その読みが全くの的外れだとしたら、憤慨したっていい。

「貴方にとっても悪くない話だと思うの。私が貴方を通して『男性』に対する免疫を得ると同時に、貴方も私を通して『女性』に対する免疫を得ることができるから。ウィンウィンな関係性が築けそうだったことも、貴方に声をかけた理由のひとつよ」

 ――私と一緒に『真人間』を目指さない?

 彼女が最初に放った台詞が蘇る。『一緒に』というのはそういう意味かと合点した。
 提示されたプランがさも当然のごとく自分が『女性』に対する免疫を持っていないことを前提としていることには閉口するしかなかった。もっとも、彼女の恐縮した態度を見るに、馬鹿にされているわけじゃないことは分かる。もし虚仮にされたと感じるなら、その怒りの矛先は常日頃から周りとのコミュニケーションを怠っている自分自身に向けるべきだろう。

「協力してもらえるかな?」

 おおよそ話の流れが明らかになってから、改めてそう尋ねられた。不安に染まったその表情には光沢を放つほどに大量の汗が滲んでいた。
 僕はつかの間、彼女を見返したまま黙考した。
 正直、人付き合いは苦手だ。休憩時間はいつも本の世界にトリップしている。そうやってバリアを張ることで、他者からの不要な接触をかわしてきた。外を出歩く時、音楽プレイヤーとイヤホンは欠かせない。僕は常に自己の世界をつくり上げ、そこに耽溺する術を磨き上げてきた。彼女の言う『真人間』に憧れはないし、ちっとも興味をそそられない。
 だけど――
 理由は何であれ、彼女が自分を選んでくれたことに少なからず感銘を受けていることも事実だった。
 透明人間も同然だった自分の中に初めて何色かが溶け込んだような気がした。
 勘違いするなと自分に言い聞かせていたが、そうはいってもやはり、可愛い女の子から頼りにされて舞い上がっていた部分もあったのだろう。
 僕が了承の意を示すと、彼女は不安げな面持ちから一転、花がぱあっと咲いたような笑みをつくって、胸の前で小さくガッツポーズした。

「これからよろしくね!」

 そう告げた時の彼女の笑顔は太陽より眩しくて、どんな花より美しかった。
 彼女の目論見通り『女性』に対する免疫を持っていなかった僕は、きっとその瞬間から彼女に惹かれていたのだと思う。我ながらチョロいと思うが致し方がない。生まれて初めて女の子に全力の笑顔を向けられたのだ。たちまちコロッと惚れてしまわないわけにはいかない。

 かくして、僕たちは秘密の同盟を結ぶことになった。
 その時はバラ色の日々が始まると能天気に思っていた。彼女との心の距離を縮めていき、ゆくゆくは恋人同士になれればいいななどと密かに夢見てさえいた。
 そうした考えが全く甘いものだということは初日の訓練で思い知らされた。
 彼女の男性恐怖症は想像していた以上に深刻だった。はじめたての頃は3メートルだって近づくことはできなかったし、自分のコミュニケーション能力が壊滅的なせいもあって、まともに会話ざ続くこともなかった。最初の1ヶ月は特に、どんよりとした空気が僕たちのあいだに漂っていたのを覚えている。ギクシャクした感じが取り除かれるまで、結局1学期のほとんどを費やしたのだった。
 徐々に彼女との心的な距離が縮まっていく感触に悦びを噛み締めながらも、それに比例して、自分の中で黒い塊が成長しつつあることも認めざるを得なかった。
 彼女はひとつ、大きな思い違いをしていた。
 恋は人を盲目にするというが、根拠のない信頼も人を容易く盲目に変えてしまう。
 性に関して恬淡なイメージを僕に寄せているようだったが、あいにく僕も他の男子たちと何ら変わらない健全な男子高校生のうちのひとりだった。
 現に僕は『真人間』になる訓練を行うたび、毎回頬を赤く染めて艶めかしい吐息を漏らしている彼女に、どうしようもない劣情を抱いている。
 こんなことを続けていては、心の奥底に封じた情念がいつ爆ぜてしまうか分かったものではない。仮にそうなれば、彼女は二度と男性を、いや、人間そのものを信用することができなくなるだろう。
 やめなくてはならない。心に爆弾を抱えた僕が相手では、あまりにリスクが大きすぎる。
 そう何度も決意しているのに、訓練の後、彼女が決まっておもてに浮かべる造花のような笑みを目にするたび、僕の決意はたちどころに揺らいでしまう。
 最初は3メートルもあった距離を15センチまで縮めるのに半年もの歳月を要した。今では一定の距離さえ保てば楽しく会話だって交わせる仲だ。
 目標に向かって邁進してきたのは彼女だけではない。目指すところは違っていたけれど、僕だって多大な努力を積み重ねてきたつもりだ。
 たとえつくり笑いだとしても、それを手放すのは大変忍びない。
 15センチより先に進めなくなってからずいぶんと久しい。そのわけを僕は朧気に察していたが、その残酷な現実を、まだどうしても認めることができないでいた。
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