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エピローグ

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『お疲れ様でした。間もなくスタッフが参りますので、ご帰宅の準備をお願いします。』

 モニターに無機質な文章が表示された数分後に、どこからかコツコツと物音が聞こえてきた。耳を澄ませて音の出所を探ると、どうやら頭上から降ってきているらしい。
 新たな展開の訪れに緊張感がいやます中、カナが密着しない程度にこちらに身を寄せてくる。少し迷ったが、手を握ってやった。拒絶されるかもしれないなと思ったが、彼女は一瞬、意表を突かれたような顔をしただけで、その手を振り解こうとはしなかった。そんなことで俺は密かに喜びを噛み締めていた。
 次第に物音が大きくなっていく。コツ、コツ、と断続的なリズムで鳴り響く音を耳にしているうちに、もしやこれは足音ではないかという推測が脳裏を掠めた。
 やがて音が止み、数秒後にまた別の音が聞こえてきた。擬音にすると、ガガガガ、といったもので、硬くて重量のある物体が何か別の物体と擦れ合うような鈍い音だ。音の出所は今度も真上で、それもすぐ間近らしく、空気が振動しているのが肌で感じられた。
 不安を募らせながら天井を見上げていると、間もなく、ガタンッと大きな物音がした。それから唐突に、天井の中央部から何か長刀のようなものがぶすりと生えてきた。きゃっ、とカナが小さく悲鳴を上げて、ベッドに尻餅をつく。俺もぎょっとして目を見張った。
 長刀は円を描くような軌道で、天井に貼られた壁紙をバリバリと破りながら突き進んでいく。長刀が円を描ききると、クリーム色の紙片がはらりと天井から剥がれ落ちた。そうして天井に直径およそ1メートルほどの穴が開通する。その向こう側に人の顔らしきものが見えた。

「お待たせしました。ただいま梯子を出しますので、少し後ろに下がってもらえますか?」

 女の人の声だ。光源の関係から顔全体が暗く影がかっていて視認できなかったが、記憶にあるその声から水野さんだとすぐに察知した。ここに連れ込まれる前に、面接官として相対した一人だ。そばにもうひとつ顔が見えるが、堂島さんだろうか?
 穴から鉄製の梯子が下りてきて、のぼってください、と指示が続く。
 俺とカナは言われるがまま梯子に手足をかけて、そそくさと逃げるようにこの部屋を後にした。
 穴を通過すると、小部屋とはいかないまでもエレベーターの中よりは広そうなスペースに出た。そこに自分たちがのぼりきるまで、水野さんともうひとりーーやはり堂島さんだったーーは並んで頭を下げて待機していた。

「まずはこのたびの非礼について謝罪申し上げます。長期間に渡る拘束。本意でない性行為の強要。人権無視も甚だしいことだと誹られても返す言葉がございません」

 そこまで水野さんが述べてから、最後は堂島さんも加わって、本当に申し訳ございませんでした、と声を揃えるのだった。
 慇懃な言葉を滔々と浴びせられて戸惑いに駆られる。その拍子に、部屋から脱出できた時に言ってやろうと用意していた抗議の言葉たちも喉の奥に引っ込んでしまった。

「これから社長のもとにご案内します。ことの詳細についてはまたのちほどご説明する機会を設けさせてください」

 そう言って水野さんは顔を上げた。それでは、と彼女が手差しした先には階段があった。踵を返してそちらに歩を向ける。遅れておもてを上げた堂島さんが、どうぞ、と手案内してくるので、水野さんの後をカナと追った。最後尾は堂島さんが務め、縦並びの陣形で階段を進む運びとなった。
 足元にお気をつけください、と水野さんの声が反響して聞こえる。長ったらしいうえに天井が低く、照明類の乏しい階段だった。埃っぽい匂いが漂っているから、日常使いはしていないのかもしれない。
 段差を踏むたび、前後の面接官の足元からコツコツと硬質な音が鳴る。先ほど耳にした音の正体はやはりこいつだったかと得心する。
 ひとしきり階段をのぼりきると鉄製の重厚そうな扉が待ち構えていた。それを先頭にいた水野さんが押し開くと、なんとなく見覚えのある場所に出た。面接のために訪れた、あのビルのエントランスだ。
 エレベータホールを素通りして『多目的ルーム』と書かれている扉を3度、ノックする。返事を待たずに、水野さんは、失礼します、と言って、ドアノブに手をかけた。
 中は学校の教室ほどには広くて天井の高い一室だった。いくつかの長テーブルがロの字に配置されていて、何脚もの椅子が壁際に積み上げられている。
 入ってすぐに、見知った顔と目が合った。中川社長だ。前回会った時と同様、グレーのスーツを着こなし、凜とした佇まいで小さな笑みを湛えている。
 俺とカナが並んで対面したところで、中川社長は微笑を解いて深々と腰を折った。大の大人が、それも一企業の社長が頭を下げているところなんてテレビの中でしか見たことがなく、当事者として直面した経験もないものだから、思いがけず胸に緊張感が迫ってきた。
 社長は何も言うことなく、ただひたすら頭を下げることに徹していた。
 無言の時間が続く中、俺はカナと目を見合わせて内心の当惑を分かち合った。頭を下げられる筋合いがなければやめてくださいとなだめることもできるが、如何せんそうじゃないからたちが悪い。
 やがて社長は顔を上げて、深呼吸をひとつ。それから自分たちに席につくよう促してきた。
 テーブルの上には緑茶の注がれたコップが置かれていた。表面が結露しており、下に敷かれたコースターがじんわりと染みを帯びている。
 社長は自分たちの向かいの席に腰を下ろした。社長の前に飲み物はなかった。
 水野さんと堂島さんは席に座らず、社長の後ろに控えていた。ふたりの間の距離がただの社員同士にしてはやや近いように見えるのがふと気になった。
 中川社長はテーブルに両肘をついて手を擦り合わせながら言った。

「だまし討ちみたいなマネをして悪かったね。突然知らない場所に閉じ込められて、さぞかし混乱に見舞われたことだろう。君たちへのケアが不十分だったことは自覚している。だが我々の目的を叶えるためにはどうしても危機感を煽る必要があったんだ。その点はどうかご容赦頂きたい」

 社長は手を膝に置いて、首を折る程度だがまた頭を下げてきた。

「今回のことで君たちが被ったあらゆる面での損失は当然のことながら私たちの方で補償させてもらう所存だ。この後、ふたりにはメディカルチェックを受けてもらい、健康面に異常がないかを確認する。立花さんには念のため避妊薬を処方する。拘束時間分の時給を提供するのはもちろんのこと、慰謝料ではないが特別ボーナスを報酬に上乗せすることも約束しよう」

 はあ、と俺は曖昧な相槌を打ちつつ、横目を向ける。
 カナは社長の方を見向きもせず、ただテーブルの上の緑茶をじっと見つめて沈黙していた。その横顔はしかし、ぼんやりとはしておらず、何かを思案している風に見受けられた。
 ならば、とここは俺が声を上げた。

「その前に一つ、大事なことを確認させてください。貴方たちは、いったい何者なんですか? 今回の実験は何が目的だったんですか?」

「もっともな疑問だね」

 社長はこくりと頷いて、背後を一瞥した。
 するとそれを合図に水野さんがこちらに近づいてきて、俺たちの手前に数枚綴りのプリントを配置した。最初のページの右上に『株式会社スタークラウド』、その下に『代表取締役 中川良輔』、上部の見出しの部分にはゴシック体の太字で『新作アダルトビデオの構想案について』と記載されている。

「まず私たちが何者なのかという質問についてだが。単刀直入に言おう。私たちはアダルトビデオメーカーだ」

 言われて、はっとした。スタークラウド――どこかで聞いたことのある名前だなあと思っていたが……なるほど、どおりで馴染みがあるはずだ。
 映像業界に関心を寄せる者として当然の教養と言えればカッコいいが、もちろんそうではなく、単に普段からお世話になっているからという理由に過ぎない。大手と比べるとややマイナー寄りな印象のあるメーカーだが、たぶん名前だけなら健全な男子大学生のほとんどは認知しているだろう。

「次に、今回の目的について。それは目の前のペーパーに書いてある」

 改めて手元の資料に目を落とす。
 見出しからなんとなく想像できていたが、どうやら企画書のようだ。
 パラパラと中身をめくると、2ページ目に企画の具体的な内容が書かれていた。

 舞台は出入り口のない密室。そこに肉体的に成熟した男女(以下、役者とする)を1名ずつ拉致・軟禁し、性交しなければ脱出できないという条件を課す。役者たちは世俗的な倫理を冒すことに躊躇しつつも時間の経過と共に募っていく不安を無視することができず、やがてその重圧に屈する形で性交に臨む運びとなる。本作では時間の経過と共に移り変わる役者たちの感情と、それに伴う行動の変化に焦点を当てて、役者たちの間で織り成される一連の言動をノンフィクション形式で記録し映像とする。

 粗筋を一読して、直ちに不穏な匂いを嗅ぎ取った。そこに書かれてあることは、まさしく自分たちが体験してきたことにほかならない。また『ノンフィクション』という、最近聞いた憶えのあるワードがさりげなく紛れていることも見逃せなかった。
 さらに読み進めると、アクションプランというサブ見出しの配下にいくつか箇条書きで項目が列記されていて、その中にこのような記載があった。

 他社の類似作品との差別化点として、役者たちのリアルな感情・行動に基づいたストーリー構成とする。具体的には台本制作にあたり、役者業を生業としていないこと、健康面において重大な疾患を抱えていないこと、最低限の知性と教養を備えていること(大学卒業者、または卒業見込みであること)を条件とした一般の男女(以下、被験者とする)をモニターとして募集し、本作の設定と同一の条件下に置かれた被験者の行動記録を初稿の叩き台とする。

 読んでみて、なるほどそういうことか、と合点した。
 中川社長は言っていた――『僕が映画を作る上で何より意識していたことは、物語のリアリティーを損なわないようにすることだった』『監督の仕事は物語や映像に現実味を付与して観衆の〝共感〟の強度を高めることだと僕は考える』――要は作品の下地となるストーリーをつくることが俺たちの仕事だったわけだ。
 理論的には理解できる。が、感情の方はそういうわけにはいかない。

「貴方がたの目的は概ね理解しました。でも、どんなに崇高な目的を掲げていたって、こんなやり方、決して許されるものじゃない。まず法律を逸脱してるし、最低限あって然るべき倫理すら蹂躙している。外部との繋がりが遮断されたあの部屋に何日間も閉じ込められて、途中から本当に気が狂いそうでした。極めつきは、性行為の強要。とても命の重みを軽視しているように感じられる。明らかな人権侵害には断固として抗議します」

 攻撃的な口調でまくし立てると、中川社長は申し訳程度に首を折った。

「重ね重ねになるが、その点については本当に申し訳なく思っている。だからこそ多額の報酬を支払う契約を提示しているんだ」

「お金で解決する問題じゃないでしょう」

 そう告げると、社長の目に冷徹な光が宿った。

「ならば訊くが、金銭的な補償以外に何を望む? 警察などの然るべき機関に泣きついて、法による裁きを求めるか?」

 顔つきは穏やかだが、厳然とした響きを含んだ口調だった。
 こちらが押し黙ると、社長は微笑を取り戻して言った。

「感情論はとりあえず抜きにして、建設的な話をしようじゃないか。もし仮に法的機関に訴えたとしても最終的には示談という形で手を打つことになるだろう。どの道お金が解決の手段になることに変わりはないわけだ」

 中川社長から手元の資料をさらに読み進めるようにと促される。言われた通り、パラパラ斜め読みしていくと、最終ページに今回の報酬金額が内訳と共にずらずらと掲載されていた。上段に基本報酬、臨時報酬、特別報酬、税控除額といった内訳が並んでいて、最下段に合計支給額という項がある。そこに印字された金額を視認して、咄嗟に目を疑った。予想を遙かに凌駕する金額だったからだ。文字通り桁が違うし、一介の大学生には確実に手に余る大金だ。奨学金の返済に当てたとしても、向こう数年は働かずとも悠々自適な暮らしをしていけるだろう。

「はっきり言うが、どんなに優秀な弁護士を雇ったって、そこに書かれている以上の示談金をもぎとることは不可能だと思った方がいい。もちろんこれでは足りないというのであれば、交渉のテーブルにつくことだってやぶさかではない」

 社長はすっかりビジネスマンの顔だ。
 交渉次第ではさらに報奨金の額を引き上げることも可能だと示唆しているが、この人を口先だけで説き伏せるのもなかなか難易度の高い作業に違いない。

「ここだけの話にしてくれた方がお互いの益になることだと僕は思うよ。弁護士を雇うのにもお金が要る。優秀な弁護士ならその分、雇用費用も嵩むだろう。係争のために何度も公然の場に足を運ぶのだって骨だ。言うまでもなく、君たちが学生でいられる時間は限られている。特に大学生である今の時分は人生の春に違いない。貴重な青春時代を非生産的だとわかりきっていることに費やすのはよしたほうがいい」

 社長の淀みのない弁舌に少し圧され気味な自分がいる。
 さすが、一企業の社長ともなると口が達者だ。どうにか一矢報いたいと思っているが、なかなかその隙が見つからない。
 具体的な報酬金額を提示されたのも手痛い一撃だった。彼らが自分たちに施した行為は許しがたいものだが、それを補って余りあるほどの見舞金をちらつかされて溜飲が下がりかけているのも事実だった。
 カナはどう考えているのだろう? 彼女の意見も窺いたく、隣を見遣るが、その横顔は神妙に凍り付いたままで、未だにその沈黙の姿勢が崩れる気配もなかった。
 何か考えがあるのだろうか? 少し不安になるが、彼女が口を開くのを辛抱強く待つことにし、それまでの時間稼ぎも兼ねて俺は社長に尋ねた。

「こちら側のメリットはわかりましたが、貴方がたのメリットは? 示談金を上回る金額を報奨金として提示するのには何か訳があるんでしょ?」

 社長はにやりと口元を歪める。

「もちろん我々も篤志家ではないからね。額面通りの報奨金を受け取りたいなら、いくつかこちらが提示する条件を呑んで貰うことになる」

 そら来た、と内心でため息をつく。やはり上手い話には裏があるのが道理というわけだ。

「まあそう警戒しないでくれ。いずれも容易いことだ。まず第一に、ここであったことは秘密にしてもらいたい」

 社長は人差し指を1本立てて、それを口の前に持っていく。

「いわゆる守秘義務というやつだ。言わずもがな、我々が行ったことは公然的には犯罪だからね。たとえ内々で示談が成立したとしても、それが公になってしまえば会社としてのイメージダウンは避けられない。今回の企画を立ち上げるにあたって、スポンサー様からもその点は厳重に注意するよう釘を刺されているんだ」

 肩を竦めて苦笑する社長。色々ぶっ飛んでいるが、さしもの社長も大人の事情には逆らえないらしい。
 資料の内訳には明記されていなかったが、口止め料もあの多額の報酬の中に含まれているのだろう。

「第二に、あの密室で取り交わされた君たちの物語を、どうか我々に買い取らせてほしい」

 ピースサインのように二本指を立てて、社長は続ける。
 言っていることの意味が理解できず、俺は無言のまま首を捻る。

「そこのペーパーに書いてある通り、私たちの目的は新作ビデオのストーリーモデルを追求することだ。そのうえで君たちの物語を原案として新作を撮ることの許可を頂きたい」

「それは……俺たちのあの密室でのやり取りをAVにするということですか?」

 社長は首を縦にも横にも振らず、曖昧な笑みを浮かべて言った。

「もちろんそのまま映像を垂れ流しにするということはしないよ。君たちはあくまでもモデルだ。君たちの言動を極力現実に近い形で再現して、多少エンタメ性を持たせるべく脚色を加えつつ、一つの商業作品に仕上げたいと思っている」

 もはや盗撮していたことを隠そうともしない。まあ今更否定されても信じられるわけないが。

「君たちの物語は実に見応えのあるものだった。細部のそこかしこに芳醇なエロスの香りが漂っていて、振り返れば常に好奇心が刺激されていたように思う。特に最終日に見せてくれた情熱的なセックス。あれは見ていて痺れたね。それまでにも観衆の耳目を惹き付ける場面は随所に盛り込まれていたが、本番だけは待てども暮らせども一向にはじまる兆しがないものだから、今回の人選は失敗だったかなと思ったりもした。そういうわけで予定を少し前倒しして、打ち止めの指示を出したんだが、それがまさか、あのような展開を招くことになるとはね。いやはや、待っていてよかったよ。最後にあんないいものが見れたんだからな!」

 感慨深そうに社長は熱弁するが、全く褒められている気がしない。むしろものすごいセクハラをかまされている気がしてならず、胸中を不快感が占めていく。
 隣を覗き見るとカナも顰めっ面を決め込んでいた。耳の先は真っ赤に染まっているが。

「長年この業界に携わってきた私の勘が囁いている。あの密室で繰り広げられた君たちの物語を作品化することができたら間違いなくヒットすると。それもただのヒットじゃない。世間に広まっている通奏低音を一新し、時代をひとつ前に進めるやもしれない、意義のあるヒットだ。旧態依然とした価値観を振りかざし、外連味の欠けた作品を量産し続けるAV業界に大きな風穴を開ける作品になるだろう。女優のルックスや演技ばかりに頼りきりだった業界の古狸どもはこの作品をみて気づくことになる。作品の質を担保するには、演者だけでなくストーリーの見せ方にも拘る必要があると。ともすれば、新時代における金字塔のような作品にすらなれるのではないかと私は思っている」

 鼻息荒く語っているが、その熱量とは対照的に、白けた気分が加速していく。
 げんなりした顔を向けているはずなのだが、立板に水とばかりに続けられる社長の熱弁はまるで勢いを落とさない。

「職業柄、何千本何万本とアダルト作品を視聴してきたが、見ていてこれほど心が躍り、気持ちが昂ぶったことはなかったよ。危うく立場を忘れて股間に手を伸ばすところだった。踏みとどまれたのは、私の意思が堅かったりから……と言えればカッコいいんだが、単に年のせいだろう。恥ずかしい話だが、40代に差し掛かった頃から年々体力と性欲が減退するのを感じている。いやはや、持て余すほどの性欲を自分の意思ひとつで自在に解放することができる若人が心の底から羨ましいよ」

 何の話をしているんだ? どうしてこんなところでおじさんの赤裸々な性事情を聴かされなくてはならないのか。
 なんとなく自分たちの存在が置き去りにされているような感じがして、さらに気持ちが冷めていく。苛立ちを通り越して呆れすら抱きはじめた頃、社長の口元に意味深な笑みが浮かんだ。

「その点、そこにいる彼女たちはまだまだ現役世代のようだ。君たちの情熱的な交尾を目の当たりにして、どうしても我慢ならなくなったみたいだよ」

 社長っ、と慌てた声を発したのは水野さん。怜悧な顔が珍しく狼狽に取り憑かれている。隣の堂島さんも声こそ発していないが、ぎょっとした顔になってどこかそわそわとした態度を露呈している。
 突然狼狽えだした社員たちをよそに涼しい笑みを湛えて、社長は言った。

「君たちの生活の観察役は水野と堂島に任せていて、表向き私は立ち会わないことになっていた。しかし実をいうと、私はふたりとは別室にいて、君たちと、観察員の様子を同時にウォッチしていたんだ。もちろんふたりには内緒でね。理由は視聴者のサンプルも欲しかったからだ。ふたりにはこの数日間、君たちの様子を終日モニタリングしてもらっていたわけだが、苛酷な労働を強いてしまって溜まるものもあったんだろうね。最終日まではずっと真面目に職務をまっとうしている様子だったけれど、やっとこさ君たちが愛の営みに着手したのを見届けるなり、ふたりして堰を切ったようにまぐわいはじめたよ」

 嬉々として裏事情を明かす中川社長の後ろで、面接官たちは赤くなって俯いている。ともに申し開きもなさそうな様子だ。

「徹夜続きで相当ムラムラしていたんだろう、それはそれは濃厚なセックスだったよ。愛を確かめ合うことを目的とした、互いへの思いやりに溢れたようなセックスじゃない。蓄積したストレスを発散するためだけに肉欲を貪り合う、極めて本能に忠実なセックスだった。ただ気持ちよくなりたいという一心で腰を振りつけ合う。愛情という余計な情が介在していない分、思いは純に、強固に練り上がる。故に相手を激しく求めがちになるのだろう。それはセックスというより一種の格闘技のようでもあった。もともと恋愛感情すら持ち合わせていなかったひと組の男女が、君たちの情熱的なセックスを目の当たりにしただけでいとも容易く燃え上がってしまった。無理からぬことだ。あんなのを見せつけられて、劣情を催さない方がおかしい」

 生々しい解説に、どう反応を返せばいいのかがわからない。
 水野さんたちは悪事を暴かれた子供みたいに縮こまっている。すみません、と謝罪の言葉を口にするが、怒濤の羞恥に呑まれているからか、蚊の鳴くような声量だ。

「謝ることはない。君たちはいっとき職務を放棄したかもしれないが、それは私が予想した台本通りの展開だったのだから。被験者たちがセックスを行う傍ら、それを目撃した観察員たちが何の反応も示さないようなら、この企画はお蔵入りにしようとも考えていたんだ。出歯亀まがいのことをして申し訳なく思っているが、お陰で視聴者受けも上々だと確信できて安心したよ」

 穏やかな仮面を張り付けてそう語りかけるが、最後までその目が背後のふたりに向けられることはなかった。そこになんとなく社長の冷徹な内面が表れているようで、ぞっとする。
 未だにはめられたことへの怒りは収まらないが、それはさておき、辱めを食らわされたふたりの大人たちには同情する。
 目的を成し遂げるためならいかなる倫理観をも冒すことを辞さないという、中川社長の狂気的な一面を改めて垣間見た気がした。

「作品の品質を向上させるために、ストーリーの詳細についてより現実に即した形で詰めていきたい。そこで君たちには是非とも、あの密室で交わした言動のフィードバックをお願いしたい。あの瞬間、何を考えていたのか? この行動にはどのような意図が込められていたのか? そういったことを定点カメラの映像を振り返りながら、できるだけ事細かに明らかにしてほしい。これが君たちが多額の報奨金を手にすることができる、三つ目の条件だ」

 中川社長は三つ指を立てて、白い歯を覗かせる。
 条件は以上となる。どうか前向きにご一考をお願いしたい。社長はそう締め括って頭を下げた。
 俺は鼻から浅く息を排出して腕組みする。
 さて、どうするべきだろうか……。
 正直、多額の報奨金を前にすると悪くない話だという気はしてくる。社長の言うとおり、係争沙汰に発展しても、主だった益は私怨が晴れること以外にない。法的なことに関して明るくないが、まあ常識的に考えて、提示された報奨金と同額かそれ以上の示談金を受け取ることは困難を極めるという社長の談に偽りもないだろう。
 自分たちの盗撮映像がそのまま作中に流れるというのなら話は別だが、あくまでストーリーの原案として使われるだけだ。盗撮映像はもちろんのこと、此度採取されたあらゆる記録の二次使用さえ差し止めておけば、自分たちの名誉が毀損されることもないだろうし、特に問題はない気もする。
 ーーしかし、だ。
 気にならないことが全くないわけでもない。最たるは隣の相方の様子だ。依然として沈黙を保ちながらも、その横顔は相も変わらず不機嫌そうに歪んでいる。
 手元の資料にまた目線を戻して、グラスに初めて手を伸ばす。食道を通過する液体の冷たさを感じながら、改めて自分の考えを整理する。
 理屈の上では社長の口車に乗っておいた方が得策だと理解している。しかし、理不尽な目に遭わされていることが災いしてか、感情が強烈な抵抗の意を示している。
 また騙されるのではないかという警戒心が発露していることもさることながら、やはりそれ以上にカナがおもてに漂わせているあからさまな鈍い反応が自分に中にある危険信号を強めているのだ。
 彼女の頭がいいことは言うまでもないが、とりわけ危機管理能力と状況分析能力が突出しており、共同生活を送っていた中でもそれらは遺憾なく発揮され、何度となく唸らされた憶えがある。その彼女が険しい顔を浮かべて黙り込んでいるのを見て、とても心穏やかにはいられない。ただならぬ雰囲気から察するに、自分の陳腐な脳みそでは考えが及ばないような危険因子が社長の話には潜んでいるのだろう。
 カナの横顔を無言で窺っていると、そのうち視線に気づいたらしい、彼女の強張った顔がこちらを向いた。何か言いたげにしている様子を察知し、「どうする?」と水を向けると、彼女は少しばかり思案するような間を挟んでから、ふうっとため息をこぼして開口した。

「これは私だけの問題ではなく、先輩と一緒に答えを出す必要があることだと承知しています。それを踏まえたうえで、一旦、私の意見を述べさせてもらってもいいですか?」

 随分と慎重な言い回しだ。こちらに判断を委ねているようで、その瞳の中に宿る意思の力強さからは有無を言わせぬ圧力を感じる。
 わかった、と頷いてみせると、カナはまたひとつ深呼吸して正面の社長に視線を定めた。

「色々と御託を並べておいででしたが」

 剣呑な語り出しに続いて、ばんっと大きな音が鳴り響く。カナが力任せにテーブルを叩きつけたのだ。空気が一気に張り詰め、皆の視線がカナの厳つい剣幕に集中する。

「まずはじめに、ふざけるなと言いたい」

 咄嗟に社長の顔から笑みが消えた。まさか反撃されることを予想していなかったことはないだろうが、相手はただの子供だと侮っていたに違いない。敵愾心のこもったカナの眼差しを受けて、つかの間息を呑んでいる様子だった。
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