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第8章

優しさの理由(6/7)

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 ♥

 ――やったぞ。ついに、先輩を振り向かせることができたんだ!

 先輩の口から念願だった愛の告白を引き出せて、内心悦びに打ち震えていた。
 本音を言うと、先に肉体関係を持ってから恋人になるというプロセスは踏みたくなかった。なぜならそれはヨシノの手口だからだ。彼女のことは尊敬しているし、彼女のようになりたいとう憧れも健在だけれど、同じ手口を踏襲することにはなんとなく抵抗があった。
 だが、明確なタイムリミットが切られたことでなりふり構っていられない状況となり、多少強引なやり方で肉体関係を迫ってみたのだが――どうやら結果は吉と出たようだ。
 経緯はずいぶん特殊なものになったが、関係を築いてしまえばあとはこっちのものだ。今後ゆっくりじっくり先輩の心を籠絡していけばよい。新川カレンには悪いが、私こそ先輩の運命の相手だ。
 嬉しいです、せんぱい――そう応えようとしたが、声が出てこなかった。

 ――あれ、どうしたんだろう?

 感極まる余り、声を失ってしまったのか?
 私が何も答えられずにいると、痺れを切らしたように先輩は腰の動きを再開させた。
 押し寄せる快楽の波がまた私の思考を無秩序に散らかしていく。
 好きな人とセックスをしている。その事実が、幼少期を人の愛に飢えながら育った私に巨大な感動をもたらしていた。
 先輩の精液を自分の中に注ぎ込んでほしい。願わくばそのまま先輩の子供を身ごもりたい。それほどまでに先輩のことを愛していた。今の成長した自分であれば、先輩と上手くやっていけるだろうという確信もあった。全て、ハッピーエンドだ。

 ――でも、何かがおかしい。

 膣を突かれ快楽の波に翻弄される最中にも、胸の中ではしこりのような違和感がいたずらに膨らみつつあった。
 考えてはいけない、と本能が訴えている。でもなぜだかその声を無視することができない。
 違和感の所在は先輩の方にあった。
 私とのセックスに耽溺する先輩の顔が、酷く苦しそうに歪んで見えたのだ。
 先ほどまで、私に告白する直前までの、快楽の気配がほとんど消失している。
 なぜだ、となけなしの理性を振り絞り、思考を駆使する。
 その答えは悲しいかな、すぐに思い至った。
 ため息をつきたくなる。セックスの最中にこんな感情に襲われるのは初めてだ。
 先輩は心優しい人だ。どこまでも誠実で義理堅く、それ故に少しでも自分の汚点を許せない潔癖な性格を併せ持つ。
 先輩は私を裏切ってしまったことを、この3年間、ずっと悔やみ続けてきたと言った。先輩は何よりも自分の不誠実な行いを許せない人だ。だから、今度も同じように苦しんでいるのだろう。
 私と恋人になること。それはつまり今の恋人、新川カレンを裏切ることにほかならない。
 また同じ過ちを繰り返そうとしている。長年背負ってきた罪の十字架をようやく手放せることに安堵したのもつかの間、また同じように十字架を背負わなくてはならなくなる。先輩はそのことを苦悩しているに違いない。
 彼の語る十字架の重みたるや、想像に難くない。さもなければ私の要求を諾々と呑んで、この密室に何日間も留まり続けるという選択を余儀なくするはずがない。私の要求に従うこと、つまり私に性的な目を向けないことを誠実に遵守していたのがその証だ。

 ――もし、このまま先輩と結ばれたなら。

 私は想像する。きっと先輩はまた晴れることのない罪の意識を抱えて、自分を責め続ける毎日を送るのだろう。
 でも、そんなの私の知ったことじゃない。それは先輩自身の問題だ。私が考えるべきは、そんな心に闇を抱えた状態の先輩のことを変わらず愛し続けることができるかどうかだ。答えは考えるまでもなく、イエスだ。私が愛しているのは先輩の優しさであり、彼を苛む自責の念はその優しさの裏返しにほかならない。先輩を嫌いになる理由など、どこにもないのだ。
 ならば私の選択は決まっている。
 欲しいものを手に入れるためなら、手段を選んではいけない――3年前の失敗から学び得た教訓だ。
 私は強い人間になった。一度は離れていった先輩の心をも掌握することができるほどの強い人間に。もう弱い人間に成り下がるのはご免だ。改めてそう自分の思いを振り返る。
 私は口を開き、喜んで、と答えようとした。
 ……でも、やっぱりダメだった。先輩の懊悩に溺れている姿を目の当たりにすると、もう何も言えなかった。今の先輩を苦悩に陥れることができる人間になりたいという気がしない。ヨシノならできるかもしれないが……やはり私には無理だ。
 3年前、先輩のような優しい人間になりたいと願ったことを思い出す。それは途中で誤りだと気づいたが、その気持ち自体に偽りはない。
 今、この瞬間が分水嶺だと感じた。強い人間になるか、優しい人間になるか。
 答えはすでに出ていた。即座に口に出せなかったのは、その選択を認めたくない自分がいるからだった。

「――カナ?」

 先輩の優しい声。
 それが耳朶に触れたのとほぼ同時に、私の目の端からひと筋、雫が頬を伝った。

「ごめんなさい」

 身を引き裂かれるような思いで、私は告げた。
 もう自分に嘘はつきたくない。だから代わりに、先輩に嘘をつくことにした。

「私、他に好きな人がいるんです」

 ごめんなさい、と重ねて口にする。
 私の中に入っていた彼がみるみる熱を失っていくのを肌で感じた。それが何よりも悲しくて私を絶望のどん底に陥れるのだった。
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