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第7章

そして、私は大人になる(1/5)

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 先輩に顔向けできるだけの自立した人間になりたい。
 そう決意してから数日が経った休日の朝、私は街中のとあるカフェに足を運んだ。全国的に名の知れたチェーン店だが、まだ浅い時間帯とあってか客数は少ない。カウンターでカモミールティーを注文して窓際のソファ席に腰を落ち着かせる。
 スマホで時間を確認してから、ふう、とひと息つく。遅れるよりはましかと思って早めに家を出たが、約束の時間より1時間も早く到着してしまった。どこかのタイミングでまたドリンクを注文する必要があるな、と考えつつ、窓の外に目を向けて行き交う車や人の群れをぼんやり眺める。
 気分がそわそわして落ち着かない。気づけば手に汗を握っている。緊張と恐怖で浮き足立っているのもあるが、その中に仄かな期待感も入り混じっていて、それが変に自分を高揚させているのだと思う。
 結局注文したドリンクには一度として手付かずのまま約束の時間が到来した。
 店の自動ドアが開き、ひとりの女性客が入店してくるのを遠目に見つける。ひと目見ただけでそれが約束の相手――安住ヨシノだと分かり、心臓がどきりと跳躍する。今日は眼鏡をかけていて、落ち着いた色のコートとデニムパンツといった装いだ。数日前街で見かけた時より大人しめのファッションだが、凜とした佇まいから一歩一歩の足運びに至るまで、一挙手一投足に華やかなオーラが滲み出ているようだった。
 カウンターの前で注文したドリンクを待つ間、ヨシノは店内にさっと目を配った。一瞬、自分と目が合った気がしたが、その目は私のもとに留まることなく素通りしてどこか別の一点に向いた。
 気づいていないのかな、と思いきや、ドリンクを受け取った後は迷いのない足取りでこちらに近づいてきた。どうして無視したのだろうと疑問に思いつつ彼女の到来を待ち構える。
 ここで弱腰な態度を見せていては先が思いやられる。そう考え、意地でもヨシノから目を逸らさぬようにと注意を払っていたが、先に視線を逸らしたのは彼女の方だった。伏せられた顔にはどこかぎこちない色が張りついている。もっと高圧的な態度で接してくると予想していただけに、意外な反応だった。
 私のいるボックス席まで足を運ぶと、ヨシノは気まずそうな表情のまま口元だけ綻ばせてみせた。

「久しぶり」

 立ったまま、まずはひと言。
 私は頷き、久しぶり、とオウム返しする。こちらの声も彼女に負けず劣らずの角張り具合だった。

「突然連絡がきたからびっくりしちゃった」

 言いながら対面のソファに腰を下ろす。
 コートを脱ぎ、居住まいを正している最中の彼女に、私は言った。

「連絡先を渡してきたのは貴女の方じゃない」

「うん、そうなんだけど。でも、本当に連絡してくるとは思わなかったから」

「迷惑だった?」

 ヨシノは一瞬眉を顰めたが、またすぐにぎこちない笑顔に戻って左右に首を振った。

「ううん。でも、どうして連絡する気になってくれたのかはすごく気になってる」

 それはそうだろうな。仲違いしていた相手から突然会いたいと連絡があって何の警戒心も抱かない方がおかしい。
 しかし、それを言うならどうしてそんな相手からの呼び出しに応じてくれたのか、私の方も大いに疑問なのだが。
 まあ、それは後で確認するとして。
 私はオーダーしたカモミールティーに初めて口をつけた。さすがに冷め切っていて多少の不快感は否めなかったが、からからに干からびていた口内が潤いを取り戻したことで口火を切る準備は整った。

「この前、街で貴女を見かけたわ。知らない男の子と歩いてたけど、今付き合ってる人?」

 そう言うとヨシノは笑みを引っ込めた。表情に緊張の色が混じる。こちらの内心を探ろうとしているのか、食い入るように私の顔を凝視している。
 なかなか答えが返ってこないので小首を傾げてみせると、ヨシノは観念したように首を縦に振った。
 そ、と言って、私は微笑む。

「幸せそうで何よりね」

 途端にヨシノは罰の悪そうな顔となり、ふらふらと視線をさまよわせてから、最終的に窓の外に目を遣った。

「私のこと憎んでるわよね」

 それにはなんと答えればよいのだろうと迷い、曖昧に首を捻るだけのリアクションに留める。
 なるほどね、とため息交じりに呟くヨシノ。
 見ると口元に薄い笑みが浮かんでいた。失望の気配を色濃く漂わせた冷笑だった。

「突然会いたいだなんて言ってきたのはそういうからくりか……。そりゃそうだ。意中の人を横取りしておきながら、なに違う男の子と仲良くやってんだって。そりゃあ苦情のひとつも言いたくなるわよね」

「誤解よ」

 咄嗟に反論の言葉が口を衝いていた。
 ヨシノの視線がまた私の方に向き直る。

「先輩のことで貴女に全く恨みがないといえば嘘になる。ていうか恨み骨髄よ。法律さえ許すなら、今ここで張っ倒したいくらいだわ」

 面食らったように目を丸くするヨシノを見て、今のは言わなくても良かったかもな、と反省する。昔の所業を蒸し返して糾弾することが、今日この場をセッティングした目的ではない。
 ひと息分の間を挟んでから当惑に染まった彼女の目をしかと見つめて私は続けた。

「でも、今の貴女が先輩のことをどう想っていようが、私には何の関係も無いことよ。興味もなければ怒りなんてものも皆無。むしろ先輩への熱が冷めたって言ってくれた方が私にとって好都合だわ」

 ヨシノの瞳に驚きの色が浮かぶ。

「あんた、まだ桐生先輩のことを……」

 私は苦笑して、後を引き取った。

「ええ。今も変わらず、愛しているわ」

 そう告白した途端、全身に降り注いでいた緊張の重圧がふっと消えた気がした。自分ひとりで抱えるには重すぎる秘密を初めて誰かに打ち明けたことで、肩の荷が下りたのかもしれない。
 ヨシノは何度か瞬きして、盛大にため息をついた。ドリンクに口をつけてから、放心したような口振りで言う。

「すごい執念。紛いなりにも自分を袖にした男なのに」

 言外に呆れの色が滲んでいたが、それも当然の反応だと思う。
 私は意図して自嘲気味に見える笑みを浮かべながら、

「そんなことで嫌いになれるなら、私は学校を去らなくて済んだのかもしれないわね」

 なんて当てこすりめいたことを言ってみた。
 ヨシノはなんとも言えないような顔で俯いた。狙い通りのリアクションだった。彼女にしてもまさか私が退学するとまでは思っていなかったに違いない。その実、退学することとなった理由の大部分は家庭の事情が占めているのだが、そんなことは彼女の与り知らぬ範疇であり、自身が働いたかつての裏切り行為に少しでも負い目を感じている様子が分かっただけで溜飲は下がる。

「じゃあ私を呼び出したのは、先輩の連絡先がほしかったから?」

 そうじゃない。私はかぶりを振る。

「今はまだ先輩と再会する意思はない」

 ヨシノは顔を上げて怪訝な眼差しを寄越してきた。
 私はカップを持ち上げておもむろに傾ける。ヨシノに何を言うかは予め考えてきているが、どんな形で伝えるのがベストか今一度頭の中で整理する。
 ほんの僅かだが、カップを持つ手が震えていることに気がつく。表面上は強気を装っているが、まだヨシノに対する苦手意識が胸の奥底に根を張っているらしい。終業式の前日、彼女の手で絶望の奈落に突き落とされた時のことは今でも苦い記憶だ。時折フラッシュバックして現実を生きていることを忘れさせるほどの苛烈なトラウマが深層心理に植え付けられている。さっきから身体の芯は薄ら寒く、そのくせ心臓は早鐘を打ち続けている。こうして面と向かって話すのにも、実は相当な無理を働いているのだ。

 ――呑まれるな。ヨシノはもう敵じゃない。今の、失うものが何もない私なら渡り合っていけるはずだ。

 カップをソーサーに置いてから、改めてヨシノの怪訝な眼差しと向き合った。

「連絡したのは、貴女に個人的な興味が湧いたからよ」

 ヨシノの瞳の中にある怪訝な色がますます深みを増していく。
 噛みつかれる恐怖を押し殺して、私は語気に力を込めながら続けた。

「私は貴女みたいになりたい。強く、逞しく、狡猾で、高潔な女に。そうならないと胸を張って先輩に会いに行けない」

 だからお願い、ヨシノ――私は唇を噛んで、首を折った。

「貴女のようになるにはどうすればいいか。私にアドバイスをください」

 顔を見ずとも当惑の気配がひしひしと伝わってくる。
 やめて、やめてよもう、とヨシノが迷惑そうに繰り返すので、恐る恐る顔を上げた。
 ヨシノは頬杖をついて額に指を押し当てていた。瞼も薄く閉じられており、どこか懊悩している様子だ。

「全然話が見えてこない。あんたが求めているものが何なのか、もう少し具体的に説明してほしいんだけど」

 言葉足らずなのは承知している。どうしても混み入った話になりそうなので気が重いが……さて、何から説明すればよいか。

「あっ、でもその前に、ひとつだけ確認させて」

 私が口を開く前に、ヨシノはさらに尋ねてきた。
 瞼を開き、テーブルの上に両腕を載せる。それから少しばかり前屈みになって、こちらの顔をじっと覗き込んでくる。
 何を言い出すつもりなのか。思わず身構えてしまう。

「言ってることはちんぷんかんぷんなんだけど。要するにさーーもう一度、私と友達になってくれると思っていいのかしら」

 ヨシノが言う。柄にもなく不安そうな口振りで。
 虚を衝かれ、咄嗟に反応を返せなかった。なんてことを訊いてくるのだという驚きが自分の中を襲っていた。
 ヨシノが無言で見つめ返してくる。しばらく沈黙が続くと自信が萎んだのか、前のめりだった上半身が徐々に後退していった。おもてにはじんわりと失意の色が広がり始めていた。
 その反応を見て何か言わねばと我に返り、私は思いつくまま言葉を並べた。

「私は、まだ貴女の裏切りを許すつもりはない。貴女に近づいたのは、先に言ったような思惑があるからだと明言しておく」

 途端に色をなくした表情になるヨシノ。失意が諦念に移り変わりつつあることをその暗い表情から読み取る。
 だけど、と私は言葉を繋いだ。またヨシノと中空で視線が交錯する。つかの間の余韻を挟んで、私は彼女に微笑みかけて言った。

「もし貴女が私に何かを求めるなら、できるだけそれに応じるつもりではいる。そんな打算的な関係を友情と呼びたいなら好きにするといいわ」

 これが今の自分に提示できる精一杯の妥協点だった。
 好きか嫌いかの二元論で語るなら、断然ヨシノのことは嫌いだ。でも彼女への憧れだって本物だ。その思いはきっと、彼女に対する嫌悪感を凌駕する。だから彼女と再会することを決断できたのだし、こうして嘘偽りのない本音を洗いざらい吐き出せてもいるわけだ。
 こちらの発言の真意を探っているのか、ヨシノはしばし眉を顰めて思案顔をつくっていたが――やがて吐息して、憑きものが落ちたかのように頬を緩ませた。

「小難しいこと言うのね。でも分かった。今はそれでよしとする」

 好意的な反応に内心ほっとした。
 ヨシノに見限られて困るのは自分の方だ。本来なら彼女の機嫌を損ねることがないよう立ち振る舞うのが賢明なやり方かもしれない。だがそんな風に己を曲げることは彼女のような強い人間になりたいと願う自分の意思に反する行いのように思えてならなかった。下手な小細工はどうやら仕掛けなくて正解だったようだ。
 ヨシノはソファの背もたれにもたれかかって、小さく顎を持ち上げた。緊張の糸が解れたのか、軽い放心状態に浸っている様子だった。
 私の方はさすがにまだ緊張感は手放せなかったが、ひと仕事終えた時のような達成感があった。
 カップを持ち上げ、口元に運ぶ。いつの間にか手の震えもおさまっていた。
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