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第九章

マル(一)

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 今から二十余年前、柏原家は愛息子凛太朗の為、瀬谷にある『コーポ谷崎』に移り住んだ。

 当時発語に遅れが見られた凛太朗は、一匹の仔猫『マル』と生活を共にするうちに、次第に言葉を覚えていった。

 五歳の誕生日、頼んだプレゼントが待ちきれず、凛太朗は父親を迎えに行くと駄々をこね、母親とマルを引き連れ、雨の中出かけた。

 横断歩道で一時停止している際、凛太朗は向こうから歩いてくる父親の姿を見つけ、思わず車道に飛び出した。

 傘をさしていた凛太朗は、トラックがすぐ傍まで迫っていることに全く気が付かなかった。

 気付いた時には、凛太朗は対向車線に大きくはみ出し倒れていた。

 辺りを見回すと、止まっているトラックの目の前に、血を流し横たわる、マルの姿があった。

 それきり、凛太朗の記憶は途切れた。

 退院して帰宅した凛太朗がショックを受けないようにと、猫の籠は、父親が当時の管理人、宗助氏に預けたらしい。

 その後両親は離婚。凛太朗は母親の実家で少年時代を過ごす。

 そこで凛太朗は、後の親友田丸と出会い、少しずつ心を取り戻していった。
 家の周りに自然が多く残っていたことも、凛太朗とその母親の精神を落ち着かせるのに、一役買っていたようだ。

 凛太朗が高校進学を期に、母親は現在のマンションを購入。

 その後、凛太朗は密かに父親を捜すため、探偵の勉強を始める。

 そして現在に至る、という訳だ。

「なぜ瀬谷に?」という凛太朗の問いに、母親は「いつかあの人にまた会えるような気がして……」とはにかんで答えた。

 まだ二人は愛し合っているのだ。

 それでも二人は積極的に会うことはしなかった。

 なぜなら、息子を守りたかったから。

 この世でただ一人の愛する息子、凛太朗の心を、守りたかったのだ。


「結局マルは……」

 凛太朗は呟いた。

 母は、あの時マルは、凛太朗を助けるために飛び出したと言った。
 だが、本当にそのような事が起こり得るのだろうか。
 いくら心が通じていたとしても、相手は猫だ。そんな都合の良い解釈などできるだろうか。

「マル……」

 再び呟き、凛太朗は空を見上げた。

 全て思い出した。
 ふわふわした触り心地も。
「みゃー」と鳴く甘えた声も。
 クリクリした大きな金の瞳も。
 毎晩一緒に寝たことも。
 新しいレインコートと長靴を見せびらかしたことも。
 雨が降ったら一緒に出掛けようと約束したことも……。

 自然と、凛太朗の足はアミティエ瀬谷に向いていた。

 誰かに認めて欲しかった。自分の立てた仮説を。
 にわかには信じ難い出来事だ。
 だがしかし、もはやそれしか考えられない。

 凛太朗には確信があった。

 なぜ柏原愛が自分の前に現れたのか……。
 なぜこんなにも彼女が気になるのか……。
 なぜ彼女は『柏原』と名乗ったのか……。

 全てが繋がった。

 柏原愛の正体。

 それは……。

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