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第八章
最後のピース(四)
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「五歳の誕生日だったわ」
凛太朗の心の影を、母親の言葉が静かにかき混ぜた。
「家族で出かける時にはいつもお留守番だったマルを、あなたが『かわいそうだ』って言ってね。一緒に連れて行けるような籠が欲しいって言ったの」
「猫の籠?」
「あなた、誕生日プレゼントはそれがいいって言うのよ。それであの日、彼が仕事帰りに買って来ることになってね」
「それが五歳の誕生日……」
「雨が降ってたの」
ふいに窓から湿気を含んだ風が入り込み、母親の束ねられた真っすぐな黒髪を揺らした。
「パパを迎えに行くんだって聞かなくてね。仕方がないから駅まで迎えに行くことにしたの。買ったばかりの青いレインコートを着て、ピカピカの青い長靴を履いてね。あなたとっても嬉しそうだったわ。マルに自慢げに見せてた」
「新しいレインコートと、ピカピカの長靴……」
映像が、フラッシュのように凛太朗の脳裏に幾つか瞬いた。
「おまけにあなた、マルも連れて行きたいって言いだして……」
「マルも?」
「ええ。新しい籠を早く使いたかったのね。結局私がマルを抱いて行くことになって……。もうかなり大きくなってたから、あなたじゃ無理だった。雨も降ってたし……」
「そうだね」
「それでなんとか出発して……」
一旦言葉を切り、母親は窓の外に視線を移した。
日差しは既に消え、細かい雨が木の葉をじっとりと濡らしていた。
「コーポの前に横断歩道があったの」
「信号の所?」
「今は信号があるけど、当時は無かったの。そこで一旦止まって……」
母親の声が詰まった。
「母さん……」
「ええ。大丈夫よ。ごめんなさい」
母親は麦茶をひと口飲むと、凛太朗を見つめた。その瞳は、凛太朗を慈しむようでもあり、悲しみを堪えているようでもあった。
「道を渡ろうとしたら、向こうからトラックが見えたの。だからそれを見送ってから渡ろうと思って……。だけどその時、向こうからあの人が歩いてくるのが見えて……。手には大きな荷物を持って……。あなたは『パパ!』って叫んで……」
「それで……?」
「一瞬だったわ。きっとあなたにはトラックが見えてなかったのね。傘をさしていたから……」
「あ……」
空を舞う青い傘が、凛太朗の脳裏をかすめた。
「あなたは道に飛び出していった。私は必死で叫んだけど、あなたの耳には届いていなかったみたい。私の声がクラクションに消されて……」
耳をつんざくクラクションの音が聞こえたような気がして、凛太朗は思わず耳を塞いだ。
凛太朗の心の影を、母親の言葉が静かにかき混ぜた。
「家族で出かける時にはいつもお留守番だったマルを、あなたが『かわいそうだ』って言ってね。一緒に連れて行けるような籠が欲しいって言ったの」
「猫の籠?」
「あなた、誕生日プレゼントはそれがいいって言うのよ。それであの日、彼が仕事帰りに買って来ることになってね」
「それが五歳の誕生日……」
「雨が降ってたの」
ふいに窓から湿気を含んだ風が入り込み、母親の束ねられた真っすぐな黒髪を揺らした。
「パパを迎えに行くんだって聞かなくてね。仕方がないから駅まで迎えに行くことにしたの。買ったばかりの青いレインコートを着て、ピカピカの青い長靴を履いてね。あなたとっても嬉しそうだったわ。マルに自慢げに見せてた」
「新しいレインコートと、ピカピカの長靴……」
映像が、フラッシュのように凛太朗の脳裏に幾つか瞬いた。
「おまけにあなた、マルも連れて行きたいって言いだして……」
「マルも?」
「ええ。新しい籠を早く使いたかったのね。結局私がマルを抱いて行くことになって……。もうかなり大きくなってたから、あなたじゃ無理だった。雨も降ってたし……」
「そうだね」
「それでなんとか出発して……」
一旦言葉を切り、母親は窓の外に視線を移した。
日差しは既に消え、細かい雨が木の葉をじっとりと濡らしていた。
「コーポの前に横断歩道があったの」
「信号の所?」
「今は信号があるけど、当時は無かったの。そこで一旦止まって……」
母親の声が詰まった。
「母さん……」
「ええ。大丈夫よ。ごめんなさい」
母親は麦茶をひと口飲むと、凛太朗を見つめた。その瞳は、凛太朗を慈しむようでもあり、悲しみを堪えているようでもあった。
「道を渡ろうとしたら、向こうからトラックが見えたの。だからそれを見送ってから渡ろうと思って……。だけどその時、向こうからあの人が歩いてくるのが見えて……。手には大きな荷物を持って……。あなたは『パパ!』って叫んで……」
「それで……?」
「一瞬だったわ。きっとあなたにはトラックが見えてなかったのね。傘をさしていたから……」
「あ……」
空を舞う青い傘が、凛太朗の脳裏をかすめた。
「あなたは道に飛び出していった。私は必死で叫んだけど、あなたの耳には届いていなかったみたい。私の声がクラクションに消されて……」
耳をつんざくクラクションの音が聞こえたような気がして、凛太朗は思わず耳を塞いだ。
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