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第四章

凛太朗の心の奥(六)

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「マル?」

 両手で持ち上げた猫の全身を四方八方から眺めていた柏原愛は、最後に真正面からじっとその瞳を見つめた後、ふうっと柔らかい笑みをこぼした。

「残念ながら、この子はマルじゃありません」

「え?」
 三人同時に、驚きの声を上げた。

「まず……」

 猫を一度膝の上に乗せ抱き直すと、柏原愛はまるでプレゼンでもするかのように、ひとつひとつ解説を始めた。

「目が違います。この子の目は丸くて少し垂れています。マルは少し釣り目なんです。それから、体毛の長さが若干短いように思えます。マルはもう少し長くて、背中の所が一か所短いのです。絡まった毛を私が切ったんです。それと、マルの尻尾はもっと長いです。」

 柏原愛が、寂しそうに猫の頭を撫でた。

「それに……。マルなら、こんなに大人しく座っていません。きっと籠から出した時点で、大騒ぎになることでしょう」

 凛太朗は思い出した。そういえば、あの日マルは、柏原愛が籠の蓋を開けた途端、逃げ出したのではなかったか。

 もしこれがマルだったら……。

 想像して、凛太朗は大きく身震いをした。

「え? じゃあ……」

 これまでずっと頑なに閉じられていた小さな口から、安堵の言葉が漏れた。

「この子、連れて帰ってもいいの?」
「ええ、どうぞ。お姉さんは残念だけど」
「ほんとに?」

 少年が隣を見上げると、母親が目に涙を溜めて頷いていた。
「良かったね」
 母親の目から、涙がひと粒流れ落ちた。


***


「残念でしたね」
「ええ。でも何だかホッとしました」
「と言いますと?」

 パスタを巻く手を止め、凛太朗は柏原愛の顔を上目遣いに見上げた。

 先ほどの親子を見送った後、一向に立ち去る気配のない雨雲を理由に彼女を夕食に誘った凛太朗は、またしても数少ないレパートリーの一つを披露するべく、こうしてパスタディナーを振舞っていたのだ。

 とは言っても、本格的なソースなど作れるはずもなく、味付けは粉末タイプのバジリコだ。

 それでもそれなりの味にはなるものだ。この時代に生まれてきて良かったと今更ながら運命に感謝する凛太朗であった。

「そりゃあ、マルだったら良かったと思いますよ。あの子を抱くまで、かなりの割合で期待していたのも事実です」

 既にフォークに巻き取られているパスタの束を回し続けながら、柏原愛は俯き加減に答えた。

「でも……。何だか可哀想で……」
「可哀想?」
「ええ。だって、泣いてたじゃないですか」
「ああ……」

 凛太朗は、先ほどの少年の瞳を思い出した。

 激しい痛みに必死で耐えているようなあの瞳。
 まるで、心の一部をもぎ取られるかのような、辛くて切ない……。
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