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第一章

不思議な依頼人(六)

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 凛太朗が夕食の支度を再開したころ、柏原愛がバスルームから戻って来た。

 残念ながら(?)シャワーは浴びていないようだが、小柄な身体には大きすぎるグレーのスウェットの袖と裾をめくり上げ、恥ずかしそうに微笑みながら登場した彼女に、凛太朗の心臓は大きく跳ね上がった。

「ありがとうございました」
 柏原愛がぺこりと頭を下げる。まだ生乾きの髪が、前後に揺れた。

「あ! いえ! こちらこそすみません! 結局濡れることになってしまって」
「いえいえ、とんでもない。帰ろうとしたら雨が降って来たので雨宿りしていたら、だんだん本降りになって来てしまって……。途方に暮れていたところ、柊さんが駆けつけて下さって。とっても嬉しかったです」

『嬉しかった』

 その響きが凛太朗の脳内を猛ダッシュで駆け回ったのは、言うまでもない。

「いや、そんな! 有難いお言葉! 恐縮です!」

 もはや、何が何だかわからない。

 暫く苦笑していた柏原愛が、ふと凛太朗の手元を覗き込んだ。

「何作ってるんですか?」
「ああ、これ? 今親子丼でも作ろうかと……。お好きですか? 親子丼」
「はい! 大好きです!」

 もし『腑抜け顔選手権』があったら、凛太朗は間違いなく優勝だろう。
 もちろん『大好きです』は、親子丼へ向けられた言葉なのだが、ここまで来たらもう、どちらでも良いだろう。

 凛太朗は腕によりをかけて、親子丼と野菜サラダを完成させた。しかも、わかめスープのおまけ付きだ。


「温まりましたか?」
「はい。お陰様で」

 先程まで探偵事務所の応接セットだったそこは、今やすっかり寛ぎのリビングと化していた。

 事務所兼住居である『ひいらぎ探偵事務所』は、営業時間を終えると凛太朗のプライベートルームへと装いを変える。

 そのプライベートルームに、何故か先程の依頼人が、食後のコーヒーを美味しそうに飲みながら凛太朗と向かい合って座っている。

 こんなことってあるだろうか? ひいらぎ探偵事務所始まって以来の緊急事態だ。

 仕事とプライベートの区別がつかなくなってきた頃、柏原愛がおもむろに話し始めた。

「昔、この辺りに住んでいたんです」
「え? そうなんですか?」

 柏原愛が懐かしそうに眼を細め、窓の方を見た。

「はい。多分、二十年ほど前だと思います。あまりよく覚えていませんが……」
「でしょうね。まだ小さかった頃ですもんね」
「ええ……」

 柏原愛は何故か寂しそうに俯いた。両手で大切そうに抱えたマグカップの中で、半分ほどになったコーヒーが静かに揺らいだ。

「きっと、街並みも変わったでしょうね」
 凛太朗の言葉に、柏原愛の肩がピクッと震える。
「え、ええ。そうですね」
 琥珀色の瞳が、少し潤んだような気がした。

「どうかされましたか?」
    
 柏原愛が、凛太朗の瞳の奥を覗き込む。
 その奥にある何かを探るように見つめたあと、やがてふうっと息をつき、彼女は愛らしい表情で微笑んだ。

「いえ。何でもありません」

 心の中で何かが引っかかるような気がした凛太朗だったが、柏原愛の穏やかな笑顔を見ているうちに、そんな僅かな違和感などあっという間に吹き飛んでしまった。
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