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第一章

不思議な依頼人(四)

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 夕食の支度に取り掛かりながら、凛太朗は先ほどの依頼人の姿を思い浮かべた。

 彼女の動きに合わせふわふわと揺れるダークブラウンの髪が脳裏をよぎり、無性に触れてみたい衝動に駆られる。

 凛太朗は、両手を強く握りしめた。

 探偵という職業を選択して、早二年。
 さしたる問題もなく、日々淡々と業務をこなして来た。
 言い換えれば、何のトラブルにも見舞われない探偵の仕事量など、たかが知れている。 
 毎月の生活費を工面するのに、頭を悩ませる毎日だ。

 それでもこの仕事を続けてこられたのは、凛太朗にはどうしても会いたい人がいるからだ。
 必ず自分の力で捜し出すと決めた日から、探偵になる決意をしたのだった。

 幸いこのマンションは、母親が昔買ったのをそのまま受け継いだもので、家賃などは発生しない。その母親は今、実家の屋敷を相続し、広い家に一人で暮らしている。
 そんな恵まれた環境も、この仕事を生業なりわいにしていこうと決意できた所以である。

 凛太朗は探偵になる時、自分なりに信条を定めた。

一、 常にクールであること。
一、 主観を捨て、事実のみをありのままに受け止めること。
一、 誠意をもって業務にあたること。

 探偵にとっては、どれも当然の項目だ。
 しかしたった今、その信条に背くような出来事が起こったのだ。

 柏原愛を前に、凛太朗は心のざわめきを抑えることができなかった。
 琥珀のような瞳に惑わされ、探偵にあるまじき行いを積み重ね、挙句の果てに今も尚、記憶の中の彼女を呼び起こし、あらぬ妄想に気持ちを高ぶらせている。

 本来、この様なことはあってはならないのである。依頼人に、心を奪われてしまうことなど……。

「一体、どうしたっていうんだ……」

 凛太朗は、握りしめた自分の両手を見つめた。

 女性の依頼人など珍しくはない。中には、目の覚めるような美人もいなかった訳ではない。タイプの女性だってもちろんいた。しかし、だからと言って、恋愛対象になるかと言えば、それはまた別の問題だ。

 あくまでもビジネスだ。依頼人は、依頼人でしかない。

 そのはずだった……。

「これが俗に言う、一目惚れってやつか?」

 凛太朗はポツリ呟き、その言葉の響きに言い知れぬ恥ずかしさを覚えた。

「まさか」

 自嘲気味に笑い視線を上げると、窓に光の粒が幾つも付いているのが見えた。

「雨? いつの間に」

 窓の向こうに光のアートを作っていくその無数の粒をぼんやり見つめながら、凛太朗はふと思った。

「傘、持ってたっけ?」

 柏原愛のハチミツ色のカーディガンを思い浮かべる。手には小ぶりのハンドバッグ。傘は?

 凛太朗は、慌てて窓の傍に駆け寄った。

 三階の部屋から通りを見下ろす。アスファルトは既に濃い色に染められていた。

 彼女が帰ってから三十分は経っている。さすがにもう帰路に着いている頃だろう。
 もしかすると、今頃は電車の中かも知れない。今時傘なんて、コンビニでだって買える。

 いるはずなんてない。そんなはずはないのだ……。
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