4 / 76
第一章
不思議な依頼人(四)
しおりを挟む
夕食の支度に取り掛かりながら、凛太朗は先ほどの依頼人の姿を思い浮かべた。
彼女の動きに合わせふわふわと揺れるダークブラウンの髪が脳裏をよぎり、無性に触れてみたい衝動に駆られる。
凛太朗は、両手を強く握りしめた。
探偵という職業を選択して、早二年。
さしたる問題もなく、日々淡々と業務をこなして来た。
言い換えれば、何のトラブルにも見舞われない探偵の仕事量など、たかが知れている。
毎月の生活費を工面するのに、頭を悩ませる毎日だ。
それでもこの仕事を続けてこられたのは、凛太朗にはどうしても会いたい人がいるからだ。
必ず自分の力で捜し出すと決めた日から、探偵になる決意をしたのだった。
幸いこのマンションは、母親が昔買ったのをそのまま受け継いだもので、家賃などは発生しない。その母親は今、実家の屋敷を相続し、広い家に一人で暮らしている。
そんな恵まれた環境も、この仕事を生業にしていこうと決意できた所以である。
凛太朗は探偵になる時、自分なりに信条を定めた。
一、 常にクールであること。
一、 主観を捨て、事実のみをありのままに受け止めること。
一、 誠意をもって業務にあたること。
探偵にとっては、どれも当然の項目だ。
しかしたった今、その信条に背くような出来事が起こったのだ。
柏原愛を前に、凛太朗は心のざわめきを抑えることができなかった。
琥珀のような瞳に惑わされ、探偵にあるまじき行いを積み重ね、挙句の果てに今も尚、記憶の中の彼女を呼び起こし、あらぬ妄想に気持ちを高ぶらせている。
本来、この様なことはあってはならないのである。依頼人に、心を奪われてしまうことなど……。
「一体、どうしたっていうんだ……」
凛太朗は、握りしめた自分の両手を見つめた。
女性の依頼人など珍しくはない。中には、目の覚めるような美人もいなかった訳ではない。タイプの女性だってもちろんいた。しかし、だからと言って、恋愛対象になるかと言えば、それはまた別の問題だ。
あくまでもビジネスだ。依頼人は、依頼人でしかない。
そのはずだった……。
「これが俗に言う、一目惚れってやつか?」
凛太朗はポツリ呟き、その言葉の響きに言い知れぬ恥ずかしさを覚えた。
「まさか」
自嘲気味に笑い視線を上げると、窓に光の粒が幾つも付いているのが見えた。
「雨? いつの間に」
窓の向こうに光のアートを作っていくその無数の粒をぼんやり見つめながら、凛太朗はふと思った。
「傘、持ってたっけ?」
柏原愛のハチミツ色のカーディガンを思い浮かべる。手には小ぶりのハンドバッグ。傘は?
凛太朗は、慌てて窓の傍に駆け寄った。
三階の部屋から通りを見下ろす。アスファルトは既に濃い色に染められていた。
彼女が帰ってから三十分は経っている。さすがにもう帰路に着いている頃だろう。
もしかすると、今頃は電車の中かも知れない。今時傘なんて、コンビニでだって買える。
いるはずなんてない。そんなはずはないのだ……。
彼女の動きに合わせふわふわと揺れるダークブラウンの髪が脳裏をよぎり、無性に触れてみたい衝動に駆られる。
凛太朗は、両手を強く握りしめた。
探偵という職業を選択して、早二年。
さしたる問題もなく、日々淡々と業務をこなして来た。
言い換えれば、何のトラブルにも見舞われない探偵の仕事量など、たかが知れている。
毎月の生活費を工面するのに、頭を悩ませる毎日だ。
それでもこの仕事を続けてこられたのは、凛太朗にはどうしても会いたい人がいるからだ。
必ず自分の力で捜し出すと決めた日から、探偵になる決意をしたのだった。
幸いこのマンションは、母親が昔買ったのをそのまま受け継いだもので、家賃などは発生しない。その母親は今、実家の屋敷を相続し、広い家に一人で暮らしている。
そんな恵まれた環境も、この仕事を生業にしていこうと決意できた所以である。
凛太朗は探偵になる時、自分なりに信条を定めた。
一、 常にクールであること。
一、 主観を捨て、事実のみをありのままに受け止めること。
一、 誠意をもって業務にあたること。
探偵にとっては、どれも当然の項目だ。
しかしたった今、その信条に背くような出来事が起こったのだ。
柏原愛を前に、凛太朗は心のざわめきを抑えることができなかった。
琥珀のような瞳に惑わされ、探偵にあるまじき行いを積み重ね、挙句の果てに今も尚、記憶の中の彼女を呼び起こし、あらぬ妄想に気持ちを高ぶらせている。
本来、この様なことはあってはならないのである。依頼人に、心を奪われてしまうことなど……。
「一体、どうしたっていうんだ……」
凛太朗は、握りしめた自分の両手を見つめた。
女性の依頼人など珍しくはない。中には、目の覚めるような美人もいなかった訳ではない。タイプの女性だってもちろんいた。しかし、だからと言って、恋愛対象になるかと言えば、それはまた別の問題だ。
あくまでもビジネスだ。依頼人は、依頼人でしかない。
そのはずだった……。
「これが俗に言う、一目惚れってやつか?」
凛太朗はポツリ呟き、その言葉の響きに言い知れぬ恥ずかしさを覚えた。
「まさか」
自嘲気味に笑い視線を上げると、窓に光の粒が幾つも付いているのが見えた。
「雨? いつの間に」
窓の向こうに光のアートを作っていくその無数の粒をぼんやり見つめながら、凛太朗はふと思った。
「傘、持ってたっけ?」
柏原愛のハチミツ色のカーディガンを思い浮かべる。手には小ぶりのハンドバッグ。傘は?
凛太朗は、慌てて窓の傍に駆け寄った。
三階の部屋から通りを見下ろす。アスファルトは既に濃い色に染められていた。
彼女が帰ってから三十分は経っている。さすがにもう帰路に着いている頃だろう。
もしかすると、今頃は電車の中かも知れない。今時傘なんて、コンビニでだって買える。
いるはずなんてない。そんなはずはないのだ……。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
夕陽が浜の海辺
如月つばさ
ライト文芸
両親と旅行の帰り、交通事故で命を落とした12歳の菅原 雫(すがわら しずく)は、死の間際に現れた亡き祖父の魂に、想い出の海をもう1度見たいという夢を叶えてもらうことに。
20歳の姿の雫が、祖父の遺した穏やかな海辺に建つ民宿・夕焼けの家で過ごす1年間の日常物語。
叶うのならば、もう一度。
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ライト文芸
今年30になった結奈は、ある日唐突に余命宣告をされた。
混乱する頭で思い悩んだが、そんな彼女を支えたのは優しくて頑固な婚約者の彼だった。
彼と籍を入れ、他愛のない事で笑い合う日々。
病院生活でもそんな幸せな時を過ごせたのは、彼の優しさがあったから。
しかしそんな時間にも限りがあって――?
これは夫婦になっても色褪せない恋情と、別れと、その先のお話。
おばあちゃんのお惣菜
コリモ
ライト文芸
小さな町の商店街に面した一軒のお惣菜屋さん【おたふく】
近くに大きなスーパーができて商店街はシャッター通りと言われているが、いまだに続けている。
さて今日のお客さんは?
心の落とし物
緋色刹那
ライト文芸
・完結済み(2024/10/12)。また書きたくなったら、番外編として投稿するかも
・第4回、第5回ライト文芸大賞にて奨励賞をいただきました!!✌︎('ω'✌︎ )✌︎('ω'✌︎ )
〈本作の楽しみ方〉
本作は読む喫茶店です。順に読んでもいいし、興味を持ったタイトルや季節から読んでもオッケーです。
知らない人、知らない設定が出てきて不安になるかもしれませんが、喫茶店の常連さんのようなものなので、雰囲気を楽しんでください(一応説明↓)。
〈あらすじ〉
〈心の落とし物〉はありませんか?
どこかに失くした物、ずっと探している人、過去の後悔、忘れていた夢。
あなたは忘れているつもりでも、心があなたの代わりに探し続けているかもしれません……。
喫茶店LAMP(ランプ)の店長、添野由良(そえのゆら)は、人の未練が具現化した幻〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉と、それを探す生き霊〈探し人(さがしびと)〉に気づきやすい体質。
ある夏の日、由良は店の前を何度も通る男性に目を止め、声をかける。男性は数年前に移転した古本屋を探していて……。
懐かしくも切ない、過去の未練に魅せられる。
〈主人公と作中用語〉
・添野由良(そえのゆら)
洋燈町にある喫茶店LAMP(ランプ)の店長。〈心の落とし物〉や〈探し人〉に気づきやすい体質。
・〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉
人の未練が具現化した幻。あるいは、未練そのもの。
・〈探し人(さがしびと)〉
〈心の落とし物〉を探す生き霊で、落とし主。当人に代わって、〈心の落とし物〉を探している。
・〈未練溜まり(みれんだまり)〉
忘れられた〈心の落とし物〉が行き着く場所。
・〈分け御霊(わけみたま)〉
生者の後悔や未練が物に宿り、具現化した者。込められた念が強ければ強いほど、人のように自由意志を持つ。いわゆる付喪神に近い。
私の主治医さん - 二人と一匹物語 -
鏡野ゆう
ライト文芸
とある病院の救命救急で働いている東出先生の元に運び込まれた急患は何故か川で溺れていた一人と一匹でした。救命救急で働くお医者さんと患者さん、そして小さな子猫の二人と一匹の恋の小話。
【本編完結】【小話】
※小説家になろうでも公開中※
悲鳴じゃない。これは歌だ。
羽黒 楓
ライト文芸
十五歳の〝私〟は死に場所を求めて家出した。
都会の駅前、世界のすべてを呪う〝私〟はしかし、このとき一人の女性と出会う。
彼女は言った。
「あんた、死んだ私の知り合いに似てる――」
そこから始まる、一人の天才ロックシンガーの誕生譚。
さくやこの
松丹子
ライト文芸
結婚に夢も希望も抱いていない江原あきらが出会ったのは、年下の青年、大澤咲也。
花見で意気投合した二人は、だんだんと互いを理解し、寄り添っていく。
訳あって仕事に生きるバリキャリ志向のOLと、同性愛者の青年のお話。
性、結婚、親子と夫婦、自立と依存、生と死ーー
語り口はライトですが内容はやや重めです。
*関連作品
『モテ男とデキ女の奥手な恋』(政人視点)
『物狂ほしや色と情』(ヨーコ視点)
読まなくても問題はありませんが、時系列的に本作品が後のため、前著のネタバレを含みます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる