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崩壊
上書き
しおりを挟む綾音がアパートに着く頃には、既に辺りは暗くなっていた。
時折強く吹きつける木枯らしが、剥き出しの外廊下に佇む綾音の体温を奪っていく。
「さむ……」
コートの襟を手繰り寄せ、綾音は肩をすぼめた。
どこからか、おいしそうな醤油の香りが漂ってくる。
煮物だろうか?
導かれるように動かした綾音の視界に、こちらへ向かって歩いてくる人影が映り込んだ。
「あ……」
弾かれたように綾音は駆け出す。
「蛍太さん!」
街灯に照らされた蛍太の顔が、驚きと喜びをないまぜにして華やいだ。
「綾音さん! どうしたんですか?」
蛍太は綾音に駆け寄ると、まっすぐ胸に飛び込んできた綾音の身体を受け止めた。
「待ってたんです」
きゅっと両手で蛍太のダウンジャケットにしがみつくと、「一緒にお鍋しようと思って」綾音は腕に掛けたエコバッグを少しだけ持ち上げて見せた。
「マジっすか? やった」
今日寒いですもんね、と蛍太が顔を綻ばせる。
「良かった。追い返されたらどうしようかと思っちゃった」
泣き笑いの顔で、綾音は冗談ぽく肩をすくめた。
「そんなわけないじゃないですか。めっちゃ嬉しいです」
持ちます、と言いながら、蛍太は綾音の手からエコバッグを受け取った。
「でも今度から、来る時は連絡してくださいね。ダッシュで帰ってきますから」
両手を曲げて腰につけ、蛍太はおどけたように腕を振った。
「わかりました。そうします」
ふふっと綾音は笑みをこぼした。
「早く行きましょ。俺もう、腹減って死にそ」
綾音の背に腕を回し、蛍太が急かすように部屋へと促す。
「大袈裟」
くすくすと笑いながら、綾音は足を速めた。
「寒くてすいません」
ストーブのスイッチを入れると、蛍太はキッチンへと向かった。
「あったまるまで、コート着ててくださいね」
風邪ひくと悪いんで、と言いながら、蛍太は流しの下にある収納棚を開いた。
「ちょうどいい鍋、あったかなぁ?」
腰を屈め、蛍太が収納棚を覗き込む。その背に抱きつくと、綾音は腰に腕を回した。
「綾音さん?」
少し後ろを振り返り、蛍太が身体を起こす。
「寒い……ですか?」
小刻みに震える綾音の腕をさすりながら、蛍太が心配そうに訊いた。
蛍太の背中に額をつけたまま、綾音はふるふると首を振る。
「なにか、あったんですか?」
綾音の両手を優しく包むと、蛍太はそっと持ち上げキスを落とした。
ぴくりとその手が僅かに跳ねる。
少しめくれた両の手首に、赤く擦れた痕があった。
「この傷、どうしたんですか?」
身体を反転させ綾音の方に向き直ると、蛍太は綾音に問いただした。
「先生に」
「先生?」
蛍太の目の色が変わる。
「大丈夫です。ちゃんと、終わらせてきましたから」
「何かされたんですかっ?」
綾音の肩を蛍太が掴む。大きく見開かれた両の瞳が、怒りと不安に大きく揺れた。
「なにも」
左右に首を振ると、綾音は蛍太をじっと見つめた。
「蛍太さんに言えないようなことは、なにもありません」
涙を浮かべ、綾音はにっこり微笑んだ。
「綾音さん……」
青白く冷たい綾音の頬を、蛍太が右手でそっと包む。
「なんで、そんな無茶」
「だって、自分で蒔いた種だから」
「だからって、一人で行くなんて無謀すぎます。言ってくれたら、俺も一緒に行ったのに」
そっと綾音の髪をすくうと、蛍太は優しく耳にかけた。
「そう言うと思ったから、言わなかったんです」
咎めるような目で綾音を見つめたあと、「全く……」呆れたように溜息をつき、蛍太は耳の後ろに指を滑らせた。
「怖かったでしょ? こんなに震えて」
痛ましそうに見つめる蛍太の瞳が、綾音の首筋を捉えて固まった。
「ここ」
「あ……」
咄嗟に隠した綾音の手を、蛍太が掴んで脇へ除ける。そこには、須藤の残した印がくっきりと残されていた。
「これも、あの先生が?」
「それは……」
綾音の全身を激しい震えが支配する。
ぎりりと奥歯を噛みしめたあと、蛍太は左手で綾音の後ろ首を押さえつけた。
「けい……?」
そのまま綾音の首筋に顔を埋めると、蛍太はそこに力いっぱい吸いついた。
「いっ」
綾音が痛みに身体をよじる。
きつく腕を絡ませたまま、蛍太は何度も綾音の首筋を食んだ。
やがて傷口を舐めるようにていねいに舌を這わせたあと、ようやく蛍太が顔を上げた。
「上書きしときました」
「上書き?」
「はい。綾音さんがそれを見るたびに、俺のことを思い出すように」
悪戯っぽくにやりと笑ったあと、「やべ。やりすぎたかも」蛍太は気まずそうに顔をしかめた。
「え? なに? どうなってるの?」
慌てて綾音は首筋に手を当てる。
「平気です。しばらくタートルネック着とけば」
「ちょっ! 蛍太さ」
喚く綾音を、蛍太が唇で封じ込めた。
「んっ」
両の拳で、綾音が蛍太の胸を叩く。力強い蛍太の腕が、綾音の身体を引き寄せた。
愛おしそうに綾音の髪を撫でながら、蛍太が激しく舌を絡める。
蛍太の胸を滑り降りた綾音の両手が、ダウンジャケットの中を通って背中にそっと巻き付いた。
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