雪蛍

紫水晶羅

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混乱する気持ち

夕日が沈むレストランで

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 須藤に案内された創作フレンチの店は、日本海を一望できる高台にあった。
 海に沈む夕日を眼下に見ながら、綾音は須藤の話に耳を傾けた。

「タイにはね、五つの世界遺産があって、中でも、歴史の幕開けとなった『スコータイ』には……」
 瞳を輝かせてタイの歴史を語る須藤を見て、そういえば世界史の先生だったと思い出す。
 ほぼ毎回赤点スレスレだった綾音にとっては、なんのことやらさっぱりわからない。
 赤ワインのソースをまとった牛フィレ肉にナイフを入れ、綾音は曖昧に頷いた。

「……って、あんまり興味なかったかな?」
「へっ?」
 びくりとして顔を上げると、にやにやしながら自分のことを見つめている須藤の視線とぶつかった。
「いや、あのぉ……。とっても興味深いです」
「嘘つけ」
「えへっ。バレました?」
 綾音がペロリと舌を出す。
「ったく……」
 呆れたように溜息をついたあと、「変わってねぇな」須藤はふっと瞳を細めた。

「すいません。進歩なくて」
 カトラリーを皿に置き、綾音はグラスに手を伸ばす。
 深みのある赤ワインが、グラスの中で緩やかに波打った。
「ははっ。進歩したのは、酒量だけか?」
「もう! 人を酒豪みたいに言わないでください!」
 一つむせたあと、綾音は頬を膨らませた。
「違うのか?」
 からかうように、須藤が笑う。
「違います!」
 綾音は上目遣いで、須藤を睨んだ。

「しっかし……」
 椅子の背もたれに身体を預け、須藤が感慨深げに綾音を見つめる。
「まさか、お前とこうして酒を飲める日が来るとは思わなかったよ」
「なんかすいません。私だけ楽しんじゃって」
 申し訳なさそうに、綾音は須藤のグラスを見た。
 運転手の須藤は、酒が飲めない。
「お気になさらず。お姫様」
 左手を胸に当て恭しく頭を下げると、須藤はノンアルコールワインの入ったグラスを持ち上げた。
「からかってます?」
「めっそうもございません」
 にやりと笑うと、須藤はグラスを傾けた。


 デザートに出された桃のレアチーズケーキをたいらげると、テーブルの上は残すところコーヒーとプティフールだけとなった。
 紅茶のクッキーを一口かじり、「さっきの続きだが」須藤は唐突に切り出した。
「続きって、なんの?」
 コーヒーカップをソーサーに置き、綾音は首を傾げた。

「タイだよ。俺も二度ほど行ったことがあるんだけどな。とにかくいい国なんだよ。治安もいいし、人もあったかい」
 おまけにメシもうまい、と須藤は口の中に残りのクッキーを放り込んだ。
「へぇ。行ってみたいです」
 軽く笑みを浮かべ、綾音はブールドネージュに手を伸ばした。

「行くか?」
「えっ?」
 綾音の手が止まる。
 視線を上げると、須藤が真剣な眼差しでこちらを見ていた。
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