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背徳の代償

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「あたし、ずっと好きだったんです。紫雲のこと……」
 気持ちのコントロールが効かなくなったのか、愛梨の声のトーンが僅かに上がった。
「だから、少しでも近付きたくて、テニス部のマネージャーになったんです」
 カウンター席の二人がこちらの様子を伺っているのを背中で感じながら、美空は愛梨の話にじっと耳を傾けた。

「去年、思い切って告ったらオッケーもらえて……。すっごく嬉しくて……。だけど……」
 一旦言葉を切ると、愛梨は綺麗な顔を憎らしそうに歪めた。
「三年で同じクラスになって、これから毎日一緒にいられるって喜んでたのに、なんだか急に紫雲の様子がおかしくなって……。心ここにあらずって感じで……。『どうしたの?』って聞いたら、『別れて欲しい』って……」
 美空はゴクリと喉を鳴らした。
「カマかけたんです。『他に好きな人できた?』って……。そしたら彼、『まあ、そんなもん』って……」
 ふうっと息を吐くと、愛梨は紅茶を一口飲んだ。カウンターの方から、「お会計」という小さな声が聞こえてきた。

「まさか、あなただったなんて……」

「あの……。私……」
「おかしいと思ったんですよね。継母なのに、やけに仲いいなって。だって最近、あなたの話しかしないから。紫雲」
「継母って……」
「あ、うちも継母だからわかるんです。慶は、私の父親とあの人との子ども。腹違いの姉妹なんです」
「そう……だったんだ……」
 児童在籍表には、そこまで明記はされていない。そういえば年の離れた夫婦だったと、今更ながら思い出す。
「あたしが中学の時再婚して、なんか未だにぎくしゃくしてて……。だから、継母なんてそんなもんだろうって思ってました。だけど、紫雲はなんか違うみたいで……。よっぽどいい人なんだろうなって思ってたんだけど……」

 カウベルの音が鳴り響く。どうやらカウンター席の二人組が帰ったようだ。
 ドアが閉まると同時に、店内は再び静けさに包まれた。
 客は、美空と愛梨だけだ。マスターが食器を片付ける音だけが、ジャズの音色に混じって時の経過を告げていた。

「なんで私が……」紫雲君の恋の相手だと思ったの? という言葉を、美空は曖昧にして飲み込んだ。
「だって、嬉しそうだったから」
「嬉しそう?」
 愛梨はテーブルの上に両手を組むと、それを睨むようにじっと見つめた。
「友達に話してるのを偶然聞いたんです」
「何を……話してたの?」
 震える声で、美空は聞いた。
「オムライス」
「オムライス?」
「LINEのアイコン。あのオムライス、あなたが作ったんですよね。紫雲、言ってました。神レベルだって」
「そ……そう……」
 背筋が冷たくなるのを感じ、美空はぶるっと身体を震わせた。
「あと、子どもの頃、プロポーズしたって……」
「プロポーズって……」
「その時あげた花冠、まだ持っててくれてたって、懐かしそうに話してて……」
「そんな……事を……?」
「ずっと怪しいと思ってたんだけど、怖くて聞けなくて……。でも……」

 ゆっくりまぶたを持ち上げると、愛梨は、まるで汚らわしいものでも見るように、美空の顔を睨みつけた。
「スーパーで会った時、確信したんです」
「な……んで……?」
「だって紫雲、すごく優しい目をしてたから……」
「っ……!」
 美空は思い出した。スーパーの窓越しに見つめる、愛梨の射るような鋭い眼差しを……。
 両手を組み直すと、愛梨は再び視線を落とした。

「極めつけは、お弁当でした」
「お弁当?」
「いつもと違う感じのお弁当を持って来た事があって、どうしたのか聞いたら、あなたに作ってもらったって」
「あ……。あの時……」
 美空はギクリとした。紫雲の看病をした翌朝、冷蔵庫の中身を少しでも減らそうと、使える物は全て紫雲の弁当に入れたのだ。
「熱出したのにお父さんは出張でいなくて……。だからあなたに一晩中看病してもらったって……。それって、二人っきりで一晩過ごしたってことですよね? 照れ臭そうに話す紫雲を見ていたら、なんだか無性に腹が立って……。悔しくて……。だからあたし……」
 愛梨の目から大粒の涙が落ちた。

「まさか……」

 美空は愛梨の顔を覗き込んだ。美空の言わんとしていることを察し、愛梨が「そう」ぽつり呟いた。
「保育園と学校にチクったの、あたしです。だって、許せなかったから。騒ぎが大きくなれば、さすがに紫雲も目を覚ますと思って……」

 紫雲は、それが愛梨の仕業だということに気付いたのだ。だからあの時、自分のせいだと言ったのだ。
 あの後紫雲は事故に遭い、記憶を失くした。
「まさかこんな事になるなんて思わなかったけど……。でもきっと、これが紫雲の本心なんだと思います。紫雲だって苦しかったんです。全部忘れてしまいたかったんです……」
 唇をわななかせ、愛梨は押し殺したような声で続ける。
「父親も息子もどっちも手に入れようなんてズルい。汚い」
「愛梨さん……」
「歳考えて下さい。幾つ違うと思ってるんですか? はっきり言って、気持ち悪いです」
 頬が、かあっと熱くなる。
『気持ち悪い』というフレーズが、美空の心をズタズタに引き裂いていく。
 それは、美空の幻想を打ち砕くには十分の力を持っていた。
 唇を噛み締め、俯き震える美空に、愛梨は最後とばかりに語気を強めた。
「消えてください。あたしたちの前から。お願いだからもう、邪魔しないで」

 頬の涙をぐいっと拭うと、愛梨は勢いよく席を立った。
 テーブルには、紅茶代として五百円玉が置かれていた。
「あ、おつり……」
 美空が振り返った時にはもう、愛梨の姿はドアの向こうへと消えていた。
 マスターの「ありがとうございました」という低い声が、カウベルの音と共に静かに漂う。
 行き先を失ったコーヒーと紅茶が、ペンダントライトの明かりを映し、冷たい光を放っていた。

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