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母親だなんて思ってない

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「ところでさぁ。私のこと、覚えてる?」
 注文した品がテーブルを埋め尽くした頃、恵令奈が紫雲に問いかけた。
 ジョッキの中は既に三分の一になっている。今日はいつになくハイペースだ。

「覚えてますよ。もちろん」
「えっ? ほんとに?」
 思いがけない答えに、恵令奈は瞳を輝かせた。気持ち、身体が前のめりになる。
「よく一緒にお散歩に行きましたよね」
「そう。行った、行った」
「やたら可愛いって言われて……」
「そう……だっけ?」
 なんだか、雲行きが怪しくなってきた。
「食べちゃいたいって言われて……」
「はあぁぁっ!?」
 美空と哲太が、紫雲の顔を凝視する。
「ほんとに食べられるかと思って、怖かった……です」
 紫雲が恥ずかしそうに俯いた。

「恵令奈ぁ……」
「それ、アウトっす」
 美空と哲太に責められ、「そんなこと言ったっけ?」恵令奈は人差し指を顎に当て、とぼけたように宙を見つめた。
「第三者委員の耳に入らなかっただけでも有難いと思いな」
 美空の忠告に、恵令奈はテヘッと舌を出す。
「ちゃんと反省して下さい」
 哲太に言われ、「ごめんね」恵令奈は紫雲に頭を下げた。

「いえ。俺もガキだったし……。流石にもう、食べられるなんて思わないから大丈夫です」
 紫雲が、さも可笑しそうに笑った。
 その姿に安堵したのか、恵令奈は一気にジョッキを煽ると、熱のこもった眼差しで紫雲をじっと見つめた。

「ねぇ。紫雲君って、彼女いるの?」
「えっ……? 何ですか? いきなり」
 予期せぬ質問に、紫雲が戸惑いの表情を浮かべる。
「やめなよ、恵令奈。酔っ払ってんの?」
「いいから美空は黙ってて」
 美空の言葉を遮ると、恵令奈は再び紫雲に聞いた。
「いるよね? もちろん」
「いえ」
「いえ?」
 驚く美空に、「なんだよ?」紫雲が怪訝そうな顔を向けた。
「ふぅん。じゃあ今、フリーなんだ」
 恵令奈は頬杖をつくと、瞳をトロンと潤ませた。

「ほんと、可愛い。違う意味で、食べちゃいたい」
「えっ!?」
 身の危険を感じたのか、紫雲の身体が大きく仰け反る。
「ちょっと恵令奈! なんて事……!」
「恵令奈さんっ! それマズイっす!」
 二人の制止も聞かず、恵令奈は髪を掻き上げた。
 ストレートのロングヘアが、美しく整った顔にはらりと落ち、なんとも言えず色っぽい。
「いろいろ教えてあげよっか?」
「遠慮しときます」
 やや被せ気味に断る紫雲に、「即答かっ!」恵令奈が鋭くツッコミを入れた。

「恵令奈さん。次、何飲みます?」
 絶妙なタイミングで、哲太が恵令奈の目の前にメニューを広げた。
「てっちゃん、グッジョブ!」
 ついでに美空と紫雲もドリンクを頼むと、美空は化粧室へと向かった。


「美空さん」
 席に戻る途中で、美空は紫雲と鉢合わせた。
「あ、紫雲君もトイレ?」
「うん」
 心なしか、紫雲の顔に疲れの色が滲んでいる。
「なんか、ごめんね」
 謝る美空に、「何が?」紫雲は小首を傾げた。
「だって、恵令奈が……」
「ああ。別に気にしてないよ。ちょっとびっくりしたけど」
「ならいいんだけど……」
「面白いじゃん。あの人」
「そっか。そりゃ良かった」
 安心した美空は、「じゃ、先行ってるね」と声を掛けると、紫雲の側をすり抜けた。

「オバサンじゃないから」
「えっ?」
 振り返った美空の瞳を、紫雲の真剣な眼差しが捉える。
「美空さんは、オバサンじゃない」
「紫雲……君?」
「それに……」

 少しだけ顔を歪ませると、紫雲は苦しそうに言葉を絞り出した。
「母親だなんて……思ってない……」
「え……? それって、どういう……?」
 慌てて視線を外した紫雲は、くるりと背を向け、足早にトイレへと姿を消した。

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