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第2部 名古屋編
ラ・マルセイエーズ
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ヲタクとしてアイドルと出会ってはいけないと前に書いたような記憶があるが、それしか考えつかないというのはある。まさかプロデューサーやら曲を提供するミュージシャンとしての出会いの日がくるわけもないのだから。
いや、待てよ、とレイは思った。ひとつ手はあった。自分でアイドルグループを作ってしまえばいいのだ。
そして、その大切な商品に手を出してしまう敏腕スケベプロデューサーという、お決まりのコースがあった。
ジェットコースターのように猛スピードで突っ走るふたりの恋を誰も止められない。やがて妊娠が発覚し、絵に描いたような転落劇がはじまる。転落するほど成功もしていないだろうが。
だが、やってやれないこともないと思った。それはともかくやはり、ラ・マルセイエーズも相当な人気があるようで、当日券はなかった。
てなわけで、るりちゃんという子の出待ちをすることにした。どうせ暇なのだ。
すると、知った顔が見えた。一緒のバスに乗っていた金髪の女の子みたいな髪をした男子とその彼女だ。
出待ちする列の中に彼らがいるとはほんとうに意外だった。いったい誰のファンなのか? なぜがその時、レイの頭の中でクセナキスが鳴りはじめた。
しかし、出待ちするやつらがこんなにいるなんて、もう地下アイドルとかの域を完璧に超えているとしかレイには思えなかった。
すると、ラ・マルセイエーズなのか対バンのチームのメンバーなのかよくわからないが何人か出て来たところで、ヲタクの小競り合いが起こり見ていると、そこから一人が飛び出してきて、メンバーに体当たりしていき、あっという間にあたりは騒然となった。
レイは、ぶつかりオジという生き物の存在を知ってはいたが、見たのははじめてだった。
倒れたメンバーがいたことを確認したが、あとはもう揉みくちゃになってわけがわからなくなった。誰が押したということではないが、みんな将棋倒しに倒れていった。
レイは、これと同じような場面に出くわしたことがあったことを、まざまざと思い出したし、もっと最悪な殺傷沙汰となった事件をも思い起こしてしまった。
そして、今まさにレイの眼前に現前する出来事もそれだけでは終わらなかった。
一天にわかに掻き曇りという表現があるが、まさにそんな感じでまだ陽は高いのにあたりは一気に暗くなり、土砂降りの雨が降り出した。
みんな逃げ惑うようにして、散り散りになり雨宿りできる場所に移動したが、その中には『みよちゃん』や『ラ・マルセイエーズ』や、もうひとつの対バンのメンバーも混ざっていたのだった。
そして、そこからがいよいよ地獄の始まりだった。
バケツをひっくり返したような土砂降りは、一向に衰えることなく叩きつけるように降り続いていたが、雨足がさらに強まるかに思えたその後、一気に雨は上がり嘘のように叢雲も消えて、青空が顔をのぞかせたその直後なんの前触れもなく、それはやってきた。
直下型というやつだろうか、ドカンと一発下に落ちたと思ったら、立っていられないほどのハンパない横揺れがきた。
🦀
すると、世界はすでに崩壊しはじめていた。
レイは、どこかわけのわからない異世界に飛ばされたらしい。確かに見知った自分が以前住んでいた近所に似てはいた。だが、それは単に似ているに過ぎない。
大通りはぐんにゃりと曲がり、蛇行を繰り返しながら西の空の彼方へと伸びている。まるでアスファルトの部分だけ巨人の手によって地面から引き剥がされたようだった。大きく波打って曲がったアスファルトは、トンネルをいくつも作り出し、そこから向いのひしゃげたビルが見えていた。
レイは剥き出しの黒い地面を踏んでトンネルをくぐりぬけ、よく憶えている馬喰坂(ばくろうざか)という曲がりくねった急坂へと急いだ。だが、もうそのときにはわかっていた。元の世界には二度ともう戻れないかもしれないと……。
それは、ともかくおかしな事だが、レイはこの状況よりも、出待ちしていたラ・マルセイエーズのるりちゃんの事が心配で仕方ないのだった。
まさか、暴漢に襲われたのはるりちゃんではないとは思っているが、一目だけでも顔を見たいと思い、出待ちしていたわけだから、やけに後ろ髪を引かれるような気がした。
この異世界だか並行世界から抜けだせたら、必ずラ・マルセイエーズの現場に行こうとレイは心に決めた。
そう決心してしまうと、なにやら落ち着いた穏やかな気分になったようだった。
ただ、なぜかるりちゃんという女性を自分は既に知っているのではないのかとふと思った。
空を見上げると、微速度撮影された映像のように凄い速度で雲が流れ、太陽が中天に達したかと思うと瞬く間に沈んで夜となり月が昇って……というそのサイクルの速度はみるみる増してゆき、やがて昼と夜を瞬きするように繰り返す、まったくもっておめでたい世界の発狂した日という感じがした。
たしか八百屋を過ぎたあたりから、だらだら坂がはじまるはずだった。
というのも、レイが飛ばされたこの場所は、なぜかレイが以前住んでいた東京の中目黒の辺りに酷似していたからだ。
どの通りもやっぱり尺取虫の背のように波打った状態で固まっている。更に始末の悪いことには、こんにゃくのように柔らかいのだった。実際、道路はレイが足を踏み出す度にぶるぶると震動した。
遠くから爆弾が投下されたかのような重々しい音が響いてくる。少し間をおいてから地面が揺れ動き、通りの両側の建物は地面のなかへ沈み込んでいく。
すぐ八百屋の看板らしきものが目に入った。建物自体は殆ど土のなかにめり込んで埋もれ、そこから『八百』とまで読める看板が、斜めに突き出ている。
ミサイルが渋谷の街にでも撃ち込まれているのか、またあの重い地鳴りのような音が鼓膜を震わせると、看板はゆっくりと地面に呑みこまれてゆく。
その光景を目尻に捉えながらレイはスニカーの靴底を道路に擦るようにして進んでいく。道はすぐ先で二股に分かれ、一方は中目黒駅方面へと伸びてゆき、もう一方は中目黒5丁目へとつづく急坂、通称馬喰坂となっているはずだった。
しかし、その急坂が忽然と消えていた。驚いたレイは駆け出してこんにゃく道路に足をとられ、まえのめりに倒れこんだ。そして、我が目を疑った。急な上り坂であるはずの馬喰坂が、なんと逆に谷底への急な下り坂となっている。どうやら中目黒5丁目全体が陥没しているようだった。
すり鉢状に陥没した谷底は、はっきり見分けがつかぬほど遥か下に霞んでいる。レイはその光景を腹這いのまま覗きこんで、ぞっとした。
そのレイの顔を谷底からの生温かい風がなぶってゆく。地獄にまっすぐ伸びてゆくかのような馬喰坂は、無気味な静けさを湛えながら今まさにレイの侵入を待ち受けて、まるでそれ自体が生き物のように鈍く冷たい光芒を放っていた。
レイは、コブのように隆起したアスファルトに腰掛けて溜め息をついた。
わけのわからないこの状況に軽く途方に暮れているのではなかった。自分のしょうもない女好きで、DDの性分が情けなかった。
レイは生まれてこのかたモテ期が来たためしはないのだから、女にだらしなく、二股三股は当たり前のいけ好かない奴なんて一度くらい誰かに言われてみたいものだったが、モテないからDDなのだと思いたくはなかった。
ミズキに関して補足すると、幼なじみであっていちおう付き合っているつもりでいたのは、レイだけで、有り体に言うと、可愛い幼なじみに悪い虫がつかないように常に目を光らせていたオブザーバーというのが、レイの役どころだったのかもしれない。
それにしても、気が多いのはいかがなものかとレイは自分でも、そう思ったりするのだが、そのお陰で生きていられるようなものなのだから、仕方がない。
物販の時にチラチラと見ただけなので、断定は出来ないが、みよちゃんのミウも危ないのではないかとレイは感じていた。目が虚ろなジュネのように心ここに在らずというところまではいっていないが、ヤバい感じはしたのだった。
レイは、そのこともあって、ラ・マルセイエーズのるりちゃんが心配なのだった。
つまり、アイドル狩りは始まっているのだ。アイドルを先ずワヤにしてそのヲタクたちも腑抜けにし、自在に操るつもりではないか。
レイは身を起こし、ゆくっりとした足取りで馬喰坂をおりはじめる。しかし、なにかが変だった。妙に足が重い。下り坂なのだから、ころばぬように踏ん張りはしてもただ足を繰り出すだけでいい筈なのに、逆に坂を上っているかのような感覚に戸惑っていた。
足許にころがっている石をひとつ拾い上げ、谷底めがけて投げ下ろしてみた。だが、小石は谷底に向け加速度的にスピードを増しながら落下してはいかず、ブレーキがかかったようにスピードが緩んだかと思うと一瞬中空に停止した後、なんと逆にこちらに飛び戻って来たのだった。
レイには、足許に再びころがった小石をもう一度投げ下ろしてみる勇気はなかった。
どうやらとんでもないことになりそうだった。それでもレイはこの訳のわからない世界を支配している力に抗いながら再び坂を下りはじめたが、ひと足ごとに増してゆくその力を身体に感じつつ、外部からの侵入の拒絶を意味しているかのようなこの力を不快とは思わないばかりか、地の底へと降りてゆくには海底めざして潜水してゆくダイバーのように水圧が増してゆくのがあたりまえだと考えていた。
まさしくここは降りてゆくにしたがって徐徐に光りは薄らいでゆき、物音ひとつさえ聞こえてはこない海の底のようだった。あたりはまったく変りばえのしない景色がつづいてゆく。
見渡す限りビルの倒壊した跡なのか、瓦礫の山が散在するばかりで人気はまったくない。
下り勾配が徐徐に緩やかになってゆくと遥か前方に縦長の巨大な岩岩が見えはじめた。その灰色の岩の根元は霧にすっぽりと覆われ、頭の部分だけが見えているのだった。まず荘厳な眺めといっていい。
レイはその眺望に気をとられ、暫し歩くことを忘れるほどだった。が、やはり変だった。さっきまでは見えていなかった岩が不意に地中からにょっきりと姿を現わしたのだろうか。
上から見下ろしたときにはなぜまた見えなかったのか。あるいは蜃気楼ってやつなのだろうか。そんな考えに捉われながら進んでゆくうちにとんでもない場所に出てしまった。
アスファルトに導かれるまま歩いて来たが、ここに至ってレイは途方に暮れてしまった。眼前の地面がぱっくりと割れ、切り立った断崖絶壁のように向こう岸とこちらをまっぷたつに切り裂いて行く手を阻んでいたからだ。
羽が生えてでもいないと向こう岸にはとても行けそうにない。それでも大きく迂回すれば亀裂のないところへと出られるのではないのかと思ったが、左右どちら側を見ても見える範囲以内では溝は果てしなくつづいている。
だが、右側に走る溝は、大きく曲線を描いて瓦礫の山の向こう側に消えていた。そこでレイは右に進むことにした。瓦礫の山の向こう側で溝が終わっていることを祈りながら。
ミサイルの直撃を食らったのか、はたまた地震による倒壊なのか山をなす瓦礫の塊は、だいぶ大きなビルであったであろうことを窺わせた。
砕け散ったコンクリートが堆く積もり、その上にトッピングとして錆びた鉄線やらワイヤー、ぐんにゃりと折れ曲がった鉄筋などがぶちまけられていた。
レイはそこを大きく廻り込んでいったが、瓦礫の山は延延とつづいており、仕方なく瓦礫のなかへと足を踏み入れ少しでも高みへと登ってみたものの、地形自体が落ち窪んでいるためか溝全体を見渡すことは叶わなかった。
ただただ見えるものは陸続と山を成す瓦礫また瓦礫の紛うかたなき文明の墓場、『廃墟』そのものだった。
この支離滅裂な変化にレイの脳は思考停止を余儀なくされた。
というか、何も考えたくはなかった。善因善果。悪因悪果。歴然とした因果関係はあるのかもしれないが、悲しいかな、レイにはなにもわからない。
突き詰めて考えていったら途方もないことになりそうで、正気を保つためには思考停止がいちばんだった。
そして、レイは、快感を生む記憶と音楽に身を委ねる。知らぬ間にみよちゃんの曲が頭の中でループしていた。
はじめてホンモノのミウを間近で見た感激をレイは、決して忘れないだろうと思った。
ミウの本来のキャラをレイは知らないから、ちょっと元気がなさそうに見えたのは、ただのはにかみで心が侵食されかけているなどと考えるのは、杞憂に過ぎないのかもしれない。
レイは再び地面に降り立ち歩きはじめる。
左に高くなったり低くなったり瓦礫の山々がつづいてゆく。右手にはただただ広漠とした砂の世界が地の果てまでつづくかのように広がっている。
遥か彼方に渦を巻きながら天にまで伸びている白っぽい柱が、1本、2本、3本互いに近付いたり離れたりしながら地平線に向かって進んでゆくのが見えた。
ここにあるこれらの瓦礫もあの竜巻が運んで来たのだとレイは思った。瓦礫はひとところに留まることなく永遠にこの砂漠を旅しつづけるのだ。
長く緩やかなスロープを上りきると、風紋が織り成す雄大な砂の芸術が姿を現わした。その侵しがたい美しさにレイは圧倒されその場に立ち尽くした。
ふと目を左に転ずると瓦礫の山の切れ目からぱっくりと暗黒の口を開けた溝の切れ端が見えていた。
そして更に見晴らしの良い所へとでると、その大地の裂け目は狭まることなく地平線の彼方へと伸びているのがはっきりと見えたのだった。
レイの印象に強く残っている馬喰坂を求めてこんなところまで来てしまったが、レイはもうどうでもいいとさえ思った。
再び砂漠に向き直り、風紋と対峙する。綾なす砂のタペストリーが眼前に浮かび上がる。二条の静かに走るさざなみは、徐徐にクレッシェンドしてゆき大きくうねる奔流となりながら抜いたり抜かれたりを繰り返し駆け巡り、ある時を境にぱっと袂を分って大きく孤を描きつつ一気に遠くへと離れてゆく。
そうして互いに小刻みにリズムを刻みながら気紛れにスタッカートを入れたり、不意にシンコペーションを加えたり勝手気ままに踊りまくり、大胆に身をくねらせながら仲間を増やしてゆき白い波頭を震わせて怒濤の如く押し寄せ、中央で再びぶつかり合い飛沫を上げて砕け散る。
そんなめくるめく砂の音符を追ってゆくうちにレイの視界の端をさっと何かが掠め過ぎた。
レイは両手を使ってカメラを構えているような仕種をする。片目を瞑ってファインダーを覗きこみながら、ゆっくりとパンしてゆく。
......何もない。もう一度更にゆっくり天部と地部に注意しながら逆に振ってみる。
見つけた!
そいつはフレームの左上から現われた。中心に据え、ピントを合わせる。よくこんなものに気付いたものだと思った。
近そうにも見えるが、幾層にも折り重なった砂の山のずっと奥の方でちょこんと頭だけのぞかせ、何かそこだけ不自然な光りが取り巻いているように見える。
レイは気が急いたが、走ってしまうともう二度と見つからないような気がした。まっすぐにそれを見据えながら風紋の織り成す雄大なシンフォニーをひとつひとつ切り崩していった。
それは、忘れ去られた卒塔婆のように斜めに砂の襞に突き刺さっていた。あるいは斜めに砂の襞から突き出していた。腐りかけたただの角材のようにも見えた。
更に近づいてみると殆ど消えかかってはいたが何かの文字が書き付けてあったらしい。
レイは小首を傾げる。どこかで見たことがあるような……。
すると、不意に懐かしいという想いが雷のように胸を貫いた。デジャ・ヴがざわざわと突き上げてくる。
……もうもうと舞い上がる砂煙の向こうに渋谷の街がちかちかと瞬いている。足許には確かな感触のアスファルト。
それが急勾配で下へとまっすぐ伸びている。ここは馬喰坂に外ならなかった。
レイは一歩一歩馬喰坂を踏みしめながら、急坂をおりてゆく。だが実際はただ砂に足をとられ、ころげただけだった。
起き上がり、再び角柱に面と向かうと確かに馬喰坂の名と、その由来の書き付けられた柱である気がした。
竜巻でここまで運ばれてきたのだろうか。それとも馬喰坂自体が意志をもって移動しているのだろうか。そうだとしたなら馬喰坂に再び巡り合えるのは砂漠のなかから一粒の砂金を見つけだすようなものだ。
レイはこの『さまよえる馬喰坂』というイメージが気にいったが、あるいはこの世界全体が馬喰坂そのものなのかもしれないと考えもするのだった。次いで上っても上っても終わりのない馬喰坂を思い浮かべた。
それは、坂の上から次から次へとベルトコンベアのようにアスファルトが繰り出されてくる。レイが歩調を早めると繰り出されるアスファルトも速度を増し、いっかな前に進めない。
あるいは、上りしかない馬喰坂。
レイが坂を上りはじめるとともに世界が反転しはじめ、坂を上り切る頃世界の反転は終了し結局坂の裏側にレイは立っていることになる。
振り返るレイの眼前には再び上り坂が待ち受けるばかりである。つまり、レイが坂を上り出すや周りの景色がこちら側に倒れこんでくるように迫ってくる。
坂のはじめをa点、終わりをb点とすると確かにレイはa点からb点へと移動するのだが、周りの世界が反転してしまうため、結局はa点からa点裏側へと移動しただけとなる。
そしてレイは再び坂の裏側を上りはじめるというわけだが、同じ一本の線でありながら、a点を起点にする場合とb点を起点する場合とで上り下りの別が生じてくる坂というものが、今のレイにとってはとても面白く思えた。
坂なのだからあたりまえの話しではあるのだけれど、この坂(a~b)を単にノート上に引っ張った一本の線、a点とb点を結ぶ一本の線と考えると、abは上り坂であったのにbaは下り坂となるということは、a点とb点を結んだ一本の線は、ふたつの異なる内容、あるいは条件を内包しているわけだ。
同じものであるにもかかわらず、まったく異なるもの。鏡に映った自分の姿をレイは思い浮かべてみる。
それは自分に違いないが左右が異なっている。自分に酷似してはいるけれど、それはまったく異なる存在なのだ。
レイは鏡の前に立ち、abという線を引いてみる。その鏡に映るbaという線は、abという線が鏡に映ったものであり、鏡のなかの世界は自分たちの認識外である想像を絶する世界なのであって、まったくの裏の世界であると思う。
たとえば、カストロのような髭を生やした人物とレイが面と向かい合って話をしている。
そのとき、レイにとっての右側は、髭の人物にとっては左側となる。なぜこのようなことが起こるのか。同じひとつの時間と空間を共有していながら、右と左の差異が生じる。
再びレイは鏡の前で点aから点bへとゆっくり曲線を描いてゆくと、鏡のなかでも曲線が同時にゆっくり伸びてゆき最終的に曲線が点bへと至ると鏡とこちら側とで半円同士が交わってひとつの円を形作った。
これはつまり、この世界が異なる二つのもので構成されているからではないか。そしてそれらまったく異なる二つのものが結び合って一つのものを構成しているからではないか。それが即ちこの世界なのであって、つまり世界は線ではなく円なのだとレイは思った。
abとい直線は、baという直線即ち、右と左が逆になるということは、世界が円であるということの証左なのであって、円には右も左も存在しないからである。それは、円というものが、abという一本の線のみで描き切れるものだからなのだとレイは思った。
レイはいつまでもいとおしそうに馬喰坂の卒塔婆のような棒杭……もとは角材のように角があったのだろうけれど、砂と風に削られ丸みを帯びたのではないか……に、手を掛けたままどこまでもつづく砂漠の果てしなさのなかで途方に暮れるほかなかった。
と、その広漠たる死の世界の一角に何やら変化が生じた。まるで間欠泉のように、砂上に水が噴出しはじめた。巨大な水柱が幾本も立ち上がり、膨大な水が滝のように頭上から落ちてくる。
そして、その水のアーチのなかを何者かがレイの方へと近づいてくる。
それは、ひとりの少女だった。
少女は、クマのぬいぐるみをずるずると引きずりながら、こちらへと近づいてくる。
そして少女は、いった。
「あなたが来ることは、わかっていました」
レイは、驚いて目を瞠いた。
「ジュネ? もしかしてジュネじゃないの?」
レイは、自分でもよくわからないが、ジュネの名前が咄嗟に口をついて出てきてしまったのだった。
すると、クマのぬいぐるみを持つ少女は言った。
「ジュネ? そう。わたしです。わたしは、ここに幽閉されているんです」
すると、突然、直下型というやつだろうか、ドカンと一発下に落ちたと思ったら、立っていられないほどのハンパない横揺れがきた。
そして、後はもう、ただひたすら下へ下へと落ちていく感覚に囚われ、やがて胃がせり上がってきて、胃の中の内容物が逆流し口から溢れ出すに任せるしかなかった。
そして何も嘔吐するものがなくなってしまっても、ヌラみたいなものをレイは吐き続けた。
そのフリーフォールの落ちていくという例えようもない恐怖の中でレイは、一瞬だけ光を見た。
だが、その一瞬は永遠ともいえた。刹那は永遠であり、永遠は刹那でもある。
そして、レイはまた見た。大通りはぐんにゃりと曲がり、蛇行を繰り返しながら西の空の彼方へと伸びている。まるでアスファルトの部分だけ巨人の手によって地面から引き剥がされたようだった。
大きく波打って曲がったアスファルトは、トンネルをいくつも作り出し、そこから向いのひしゃげたビルが見えていた。
とどのつまりレイは、また振り出しに戻ってきただけに過ぎなかった。
どこかにまた転送されるのかと思ったが、どうやら無限ループ地獄にはまってしまったようだ。いや、そうにちがいないとレイは感じた。
レイは剥き出しの黒い地面を踏んでトンネルをくぐりぬけ、馬喰坂へと急いだ。
そして、前にも感じ取ったように、元の世界には二度ともう戻れないのかもしれないという恐怖に襲われた。
爺さんになるまで、この馬喰坂のループ地獄から抜け出せないのかもしれない。
或いは、死ぬことも出来ないまま、ひしゃげた道路から始まって、ジュネのアバターみたいな少女に会うまでの長い道程と、わけのわからない考察を、何千万回、何億万回とループし続けるのだ。
いや、待てよ、とレイは思った。ひとつ手はあった。自分でアイドルグループを作ってしまえばいいのだ。
そして、その大切な商品に手を出してしまう敏腕スケベプロデューサーという、お決まりのコースがあった。
ジェットコースターのように猛スピードで突っ走るふたりの恋を誰も止められない。やがて妊娠が発覚し、絵に描いたような転落劇がはじまる。転落するほど成功もしていないだろうが。
だが、やってやれないこともないと思った。それはともかくやはり、ラ・マルセイエーズも相当な人気があるようで、当日券はなかった。
てなわけで、るりちゃんという子の出待ちをすることにした。どうせ暇なのだ。
すると、知った顔が見えた。一緒のバスに乗っていた金髪の女の子みたいな髪をした男子とその彼女だ。
出待ちする列の中に彼らがいるとはほんとうに意外だった。いったい誰のファンなのか? なぜがその時、レイの頭の中でクセナキスが鳴りはじめた。
しかし、出待ちするやつらがこんなにいるなんて、もう地下アイドルとかの域を完璧に超えているとしかレイには思えなかった。
すると、ラ・マルセイエーズなのか対バンのチームのメンバーなのかよくわからないが何人か出て来たところで、ヲタクの小競り合いが起こり見ていると、そこから一人が飛び出してきて、メンバーに体当たりしていき、あっという間にあたりは騒然となった。
レイは、ぶつかりオジという生き物の存在を知ってはいたが、見たのははじめてだった。
倒れたメンバーがいたことを確認したが、あとはもう揉みくちゃになってわけがわからなくなった。誰が押したということではないが、みんな将棋倒しに倒れていった。
レイは、これと同じような場面に出くわしたことがあったことを、まざまざと思い出したし、もっと最悪な殺傷沙汰となった事件をも思い起こしてしまった。
そして、今まさにレイの眼前に現前する出来事もそれだけでは終わらなかった。
一天にわかに掻き曇りという表現があるが、まさにそんな感じでまだ陽は高いのにあたりは一気に暗くなり、土砂降りの雨が降り出した。
みんな逃げ惑うようにして、散り散りになり雨宿りできる場所に移動したが、その中には『みよちゃん』や『ラ・マルセイエーズ』や、もうひとつの対バンのメンバーも混ざっていたのだった。
そして、そこからがいよいよ地獄の始まりだった。
バケツをひっくり返したような土砂降りは、一向に衰えることなく叩きつけるように降り続いていたが、雨足がさらに強まるかに思えたその後、一気に雨は上がり嘘のように叢雲も消えて、青空が顔をのぞかせたその直後なんの前触れもなく、それはやってきた。
直下型というやつだろうか、ドカンと一発下に落ちたと思ったら、立っていられないほどのハンパない横揺れがきた。
🦀
すると、世界はすでに崩壊しはじめていた。
レイは、どこかわけのわからない異世界に飛ばされたらしい。確かに見知った自分が以前住んでいた近所に似てはいた。だが、それは単に似ているに過ぎない。
大通りはぐんにゃりと曲がり、蛇行を繰り返しながら西の空の彼方へと伸びている。まるでアスファルトの部分だけ巨人の手によって地面から引き剥がされたようだった。大きく波打って曲がったアスファルトは、トンネルをいくつも作り出し、そこから向いのひしゃげたビルが見えていた。
レイは剥き出しの黒い地面を踏んでトンネルをくぐりぬけ、よく憶えている馬喰坂(ばくろうざか)という曲がりくねった急坂へと急いだ。だが、もうそのときにはわかっていた。元の世界には二度ともう戻れないかもしれないと……。
それは、ともかくおかしな事だが、レイはこの状況よりも、出待ちしていたラ・マルセイエーズのるりちゃんの事が心配で仕方ないのだった。
まさか、暴漢に襲われたのはるりちゃんではないとは思っているが、一目だけでも顔を見たいと思い、出待ちしていたわけだから、やけに後ろ髪を引かれるような気がした。
この異世界だか並行世界から抜けだせたら、必ずラ・マルセイエーズの現場に行こうとレイは心に決めた。
そう決心してしまうと、なにやら落ち着いた穏やかな気分になったようだった。
ただ、なぜかるりちゃんという女性を自分は既に知っているのではないのかとふと思った。
空を見上げると、微速度撮影された映像のように凄い速度で雲が流れ、太陽が中天に達したかと思うと瞬く間に沈んで夜となり月が昇って……というそのサイクルの速度はみるみる増してゆき、やがて昼と夜を瞬きするように繰り返す、まったくもっておめでたい世界の発狂した日という感じがした。
たしか八百屋を過ぎたあたりから、だらだら坂がはじまるはずだった。
というのも、レイが飛ばされたこの場所は、なぜかレイが以前住んでいた東京の中目黒の辺りに酷似していたからだ。
どの通りもやっぱり尺取虫の背のように波打った状態で固まっている。更に始末の悪いことには、こんにゃくのように柔らかいのだった。実際、道路はレイが足を踏み出す度にぶるぶると震動した。
遠くから爆弾が投下されたかのような重々しい音が響いてくる。少し間をおいてから地面が揺れ動き、通りの両側の建物は地面のなかへ沈み込んでいく。
すぐ八百屋の看板らしきものが目に入った。建物自体は殆ど土のなかにめり込んで埋もれ、そこから『八百』とまで読める看板が、斜めに突き出ている。
ミサイルが渋谷の街にでも撃ち込まれているのか、またあの重い地鳴りのような音が鼓膜を震わせると、看板はゆっくりと地面に呑みこまれてゆく。
その光景を目尻に捉えながらレイはスニカーの靴底を道路に擦るようにして進んでいく。道はすぐ先で二股に分かれ、一方は中目黒駅方面へと伸びてゆき、もう一方は中目黒5丁目へとつづく急坂、通称馬喰坂となっているはずだった。
しかし、その急坂が忽然と消えていた。驚いたレイは駆け出してこんにゃく道路に足をとられ、まえのめりに倒れこんだ。そして、我が目を疑った。急な上り坂であるはずの馬喰坂が、なんと逆に谷底への急な下り坂となっている。どうやら中目黒5丁目全体が陥没しているようだった。
すり鉢状に陥没した谷底は、はっきり見分けがつかぬほど遥か下に霞んでいる。レイはその光景を腹這いのまま覗きこんで、ぞっとした。
そのレイの顔を谷底からの生温かい風がなぶってゆく。地獄にまっすぐ伸びてゆくかのような馬喰坂は、無気味な静けさを湛えながら今まさにレイの侵入を待ち受けて、まるでそれ自体が生き物のように鈍く冷たい光芒を放っていた。
レイは、コブのように隆起したアスファルトに腰掛けて溜め息をついた。
わけのわからないこの状況に軽く途方に暮れているのではなかった。自分のしょうもない女好きで、DDの性分が情けなかった。
レイは生まれてこのかたモテ期が来たためしはないのだから、女にだらしなく、二股三股は当たり前のいけ好かない奴なんて一度くらい誰かに言われてみたいものだったが、モテないからDDなのだと思いたくはなかった。
ミズキに関して補足すると、幼なじみであっていちおう付き合っているつもりでいたのは、レイだけで、有り体に言うと、可愛い幼なじみに悪い虫がつかないように常に目を光らせていたオブザーバーというのが、レイの役どころだったのかもしれない。
それにしても、気が多いのはいかがなものかとレイは自分でも、そう思ったりするのだが、そのお陰で生きていられるようなものなのだから、仕方がない。
物販の時にチラチラと見ただけなので、断定は出来ないが、みよちゃんのミウも危ないのではないかとレイは感じていた。目が虚ろなジュネのように心ここに在らずというところまではいっていないが、ヤバい感じはしたのだった。
レイは、そのこともあって、ラ・マルセイエーズのるりちゃんが心配なのだった。
つまり、アイドル狩りは始まっているのだ。アイドルを先ずワヤにしてそのヲタクたちも腑抜けにし、自在に操るつもりではないか。
レイは身を起こし、ゆくっりとした足取りで馬喰坂をおりはじめる。しかし、なにかが変だった。妙に足が重い。下り坂なのだから、ころばぬように踏ん張りはしてもただ足を繰り出すだけでいい筈なのに、逆に坂を上っているかのような感覚に戸惑っていた。
足許にころがっている石をひとつ拾い上げ、谷底めがけて投げ下ろしてみた。だが、小石は谷底に向け加速度的にスピードを増しながら落下してはいかず、ブレーキがかかったようにスピードが緩んだかと思うと一瞬中空に停止した後、なんと逆にこちらに飛び戻って来たのだった。
レイには、足許に再びころがった小石をもう一度投げ下ろしてみる勇気はなかった。
どうやらとんでもないことになりそうだった。それでもレイはこの訳のわからない世界を支配している力に抗いながら再び坂を下りはじめたが、ひと足ごとに増してゆくその力を身体に感じつつ、外部からの侵入の拒絶を意味しているかのようなこの力を不快とは思わないばかりか、地の底へと降りてゆくには海底めざして潜水してゆくダイバーのように水圧が増してゆくのがあたりまえだと考えていた。
まさしくここは降りてゆくにしたがって徐徐に光りは薄らいでゆき、物音ひとつさえ聞こえてはこない海の底のようだった。あたりはまったく変りばえのしない景色がつづいてゆく。
見渡す限りビルの倒壊した跡なのか、瓦礫の山が散在するばかりで人気はまったくない。
下り勾配が徐徐に緩やかになってゆくと遥か前方に縦長の巨大な岩岩が見えはじめた。その灰色の岩の根元は霧にすっぽりと覆われ、頭の部分だけが見えているのだった。まず荘厳な眺めといっていい。
レイはその眺望に気をとられ、暫し歩くことを忘れるほどだった。が、やはり変だった。さっきまでは見えていなかった岩が不意に地中からにょっきりと姿を現わしたのだろうか。
上から見下ろしたときにはなぜまた見えなかったのか。あるいは蜃気楼ってやつなのだろうか。そんな考えに捉われながら進んでゆくうちにとんでもない場所に出てしまった。
アスファルトに導かれるまま歩いて来たが、ここに至ってレイは途方に暮れてしまった。眼前の地面がぱっくりと割れ、切り立った断崖絶壁のように向こう岸とこちらをまっぷたつに切り裂いて行く手を阻んでいたからだ。
羽が生えてでもいないと向こう岸にはとても行けそうにない。それでも大きく迂回すれば亀裂のないところへと出られるのではないのかと思ったが、左右どちら側を見ても見える範囲以内では溝は果てしなくつづいている。
だが、右側に走る溝は、大きく曲線を描いて瓦礫の山の向こう側に消えていた。そこでレイは右に進むことにした。瓦礫の山の向こう側で溝が終わっていることを祈りながら。
ミサイルの直撃を食らったのか、はたまた地震による倒壊なのか山をなす瓦礫の塊は、だいぶ大きなビルであったであろうことを窺わせた。
砕け散ったコンクリートが堆く積もり、その上にトッピングとして錆びた鉄線やらワイヤー、ぐんにゃりと折れ曲がった鉄筋などがぶちまけられていた。
レイはそこを大きく廻り込んでいったが、瓦礫の山は延延とつづいており、仕方なく瓦礫のなかへと足を踏み入れ少しでも高みへと登ってみたものの、地形自体が落ち窪んでいるためか溝全体を見渡すことは叶わなかった。
ただただ見えるものは陸続と山を成す瓦礫また瓦礫の紛うかたなき文明の墓場、『廃墟』そのものだった。
この支離滅裂な変化にレイの脳は思考停止を余儀なくされた。
というか、何も考えたくはなかった。善因善果。悪因悪果。歴然とした因果関係はあるのかもしれないが、悲しいかな、レイにはなにもわからない。
突き詰めて考えていったら途方もないことになりそうで、正気を保つためには思考停止がいちばんだった。
そして、レイは、快感を生む記憶と音楽に身を委ねる。知らぬ間にみよちゃんの曲が頭の中でループしていた。
はじめてホンモノのミウを間近で見た感激をレイは、決して忘れないだろうと思った。
ミウの本来のキャラをレイは知らないから、ちょっと元気がなさそうに見えたのは、ただのはにかみで心が侵食されかけているなどと考えるのは、杞憂に過ぎないのかもしれない。
レイは再び地面に降り立ち歩きはじめる。
左に高くなったり低くなったり瓦礫の山々がつづいてゆく。右手にはただただ広漠とした砂の世界が地の果てまでつづくかのように広がっている。
遥か彼方に渦を巻きながら天にまで伸びている白っぽい柱が、1本、2本、3本互いに近付いたり離れたりしながら地平線に向かって進んでゆくのが見えた。
ここにあるこれらの瓦礫もあの竜巻が運んで来たのだとレイは思った。瓦礫はひとところに留まることなく永遠にこの砂漠を旅しつづけるのだ。
長く緩やかなスロープを上りきると、風紋が織り成す雄大な砂の芸術が姿を現わした。その侵しがたい美しさにレイは圧倒されその場に立ち尽くした。
ふと目を左に転ずると瓦礫の山の切れ目からぱっくりと暗黒の口を開けた溝の切れ端が見えていた。
そして更に見晴らしの良い所へとでると、その大地の裂け目は狭まることなく地平線の彼方へと伸びているのがはっきりと見えたのだった。
レイの印象に強く残っている馬喰坂を求めてこんなところまで来てしまったが、レイはもうどうでもいいとさえ思った。
再び砂漠に向き直り、風紋と対峙する。綾なす砂のタペストリーが眼前に浮かび上がる。二条の静かに走るさざなみは、徐徐にクレッシェンドしてゆき大きくうねる奔流となりながら抜いたり抜かれたりを繰り返し駆け巡り、ある時を境にぱっと袂を分って大きく孤を描きつつ一気に遠くへと離れてゆく。
そうして互いに小刻みにリズムを刻みながら気紛れにスタッカートを入れたり、不意にシンコペーションを加えたり勝手気ままに踊りまくり、大胆に身をくねらせながら仲間を増やしてゆき白い波頭を震わせて怒濤の如く押し寄せ、中央で再びぶつかり合い飛沫を上げて砕け散る。
そんなめくるめく砂の音符を追ってゆくうちにレイの視界の端をさっと何かが掠め過ぎた。
レイは両手を使ってカメラを構えているような仕種をする。片目を瞑ってファインダーを覗きこみながら、ゆっくりとパンしてゆく。
......何もない。もう一度更にゆっくり天部と地部に注意しながら逆に振ってみる。
見つけた!
そいつはフレームの左上から現われた。中心に据え、ピントを合わせる。よくこんなものに気付いたものだと思った。
近そうにも見えるが、幾層にも折り重なった砂の山のずっと奥の方でちょこんと頭だけのぞかせ、何かそこだけ不自然な光りが取り巻いているように見える。
レイは気が急いたが、走ってしまうともう二度と見つからないような気がした。まっすぐにそれを見据えながら風紋の織り成す雄大なシンフォニーをひとつひとつ切り崩していった。
それは、忘れ去られた卒塔婆のように斜めに砂の襞に突き刺さっていた。あるいは斜めに砂の襞から突き出していた。腐りかけたただの角材のようにも見えた。
更に近づいてみると殆ど消えかかってはいたが何かの文字が書き付けてあったらしい。
レイは小首を傾げる。どこかで見たことがあるような……。
すると、不意に懐かしいという想いが雷のように胸を貫いた。デジャ・ヴがざわざわと突き上げてくる。
……もうもうと舞い上がる砂煙の向こうに渋谷の街がちかちかと瞬いている。足許には確かな感触のアスファルト。
それが急勾配で下へとまっすぐ伸びている。ここは馬喰坂に外ならなかった。
レイは一歩一歩馬喰坂を踏みしめながら、急坂をおりてゆく。だが実際はただ砂に足をとられ、ころげただけだった。
起き上がり、再び角柱に面と向かうと確かに馬喰坂の名と、その由来の書き付けられた柱である気がした。
竜巻でここまで運ばれてきたのだろうか。それとも馬喰坂自体が意志をもって移動しているのだろうか。そうだとしたなら馬喰坂に再び巡り合えるのは砂漠のなかから一粒の砂金を見つけだすようなものだ。
レイはこの『さまよえる馬喰坂』というイメージが気にいったが、あるいはこの世界全体が馬喰坂そのものなのかもしれないと考えもするのだった。次いで上っても上っても終わりのない馬喰坂を思い浮かべた。
それは、坂の上から次から次へとベルトコンベアのようにアスファルトが繰り出されてくる。レイが歩調を早めると繰り出されるアスファルトも速度を増し、いっかな前に進めない。
あるいは、上りしかない馬喰坂。
レイが坂を上りはじめるとともに世界が反転しはじめ、坂を上り切る頃世界の反転は終了し結局坂の裏側にレイは立っていることになる。
振り返るレイの眼前には再び上り坂が待ち受けるばかりである。つまり、レイが坂を上り出すや周りの景色がこちら側に倒れこんでくるように迫ってくる。
坂のはじめをa点、終わりをb点とすると確かにレイはa点からb点へと移動するのだが、周りの世界が反転してしまうため、結局はa点からa点裏側へと移動しただけとなる。
そしてレイは再び坂の裏側を上りはじめるというわけだが、同じ一本の線でありながら、a点を起点にする場合とb点を起点する場合とで上り下りの別が生じてくる坂というものが、今のレイにとってはとても面白く思えた。
坂なのだからあたりまえの話しではあるのだけれど、この坂(a~b)を単にノート上に引っ張った一本の線、a点とb点を結ぶ一本の線と考えると、abは上り坂であったのにbaは下り坂となるということは、a点とb点を結んだ一本の線は、ふたつの異なる内容、あるいは条件を内包しているわけだ。
同じものであるにもかかわらず、まったく異なるもの。鏡に映った自分の姿をレイは思い浮かべてみる。
それは自分に違いないが左右が異なっている。自分に酷似してはいるけれど、それはまったく異なる存在なのだ。
レイは鏡の前に立ち、abという線を引いてみる。その鏡に映るbaという線は、abという線が鏡に映ったものであり、鏡のなかの世界は自分たちの認識外である想像を絶する世界なのであって、まったくの裏の世界であると思う。
たとえば、カストロのような髭を生やした人物とレイが面と向かい合って話をしている。
そのとき、レイにとっての右側は、髭の人物にとっては左側となる。なぜこのようなことが起こるのか。同じひとつの時間と空間を共有していながら、右と左の差異が生じる。
再びレイは鏡の前で点aから点bへとゆっくり曲線を描いてゆくと、鏡のなかでも曲線が同時にゆっくり伸びてゆき最終的に曲線が点bへと至ると鏡とこちら側とで半円同士が交わってひとつの円を形作った。
これはつまり、この世界が異なる二つのもので構成されているからではないか。そしてそれらまったく異なる二つのものが結び合って一つのものを構成しているからではないか。それが即ちこの世界なのであって、つまり世界は線ではなく円なのだとレイは思った。
abとい直線は、baという直線即ち、右と左が逆になるということは、世界が円であるということの証左なのであって、円には右も左も存在しないからである。それは、円というものが、abという一本の線のみで描き切れるものだからなのだとレイは思った。
レイはいつまでもいとおしそうに馬喰坂の卒塔婆のような棒杭……もとは角材のように角があったのだろうけれど、砂と風に削られ丸みを帯びたのではないか……に、手を掛けたままどこまでもつづく砂漠の果てしなさのなかで途方に暮れるほかなかった。
と、その広漠たる死の世界の一角に何やら変化が生じた。まるで間欠泉のように、砂上に水が噴出しはじめた。巨大な水柱が幾本も立ち上がり、膨大な水が滝のように頭上から落ちてくる。
そして、その水のアーチのなかを何者かがレイの方へと近づいてくる。
それは、ひとりの少女だった。
少女は、クマのぬいぐるみをずるずると引きずりながら、こちらへと近づいてくる。
そして少女は、いった。
「あなたが来ることは、わかっていました」
レイは、驚いて目を瞠いた。
「ジュネ? もしかしてジュネじゃないの?」
レイは、自分でもよくわからないが、ジュネの名前が咄嗟に口をついて出てきてしまったのだった。
すると、クマのぬいぐるみを持つ少女は言った。
「ジュネ? そう。わたしです。わたしは、ここに幽閉されているんです」
すると、突然、直下型というやつだろうか、ドカンと一発下に落ちたと思ったら、立っていられないほどのハンパない横揺れがきた。
そして、後はもう、ただひたすら下へ下へと落ちていく感覚に囚われ、やがて胃がせり上がってきて、胃の中の内容物が逆流し口から溢れ出すに任せるしかなかった。
そして何も嘔吐するものがなくなってしまっても、ヌラみたいなものをレイは吐き続けた。
そのフリーフォールの落ちていくという例えようもない恐怖の中でレイは、一瞬だけ光を見た。
だが、その一瞬は永遠ともいえた。刹那は永遠であり、永遠は刹那でもある。
そして、レイはまた見た。大通りはぐんにゃりと曲がり、蛇行を繰り返しながら西の空の彼方へと伸びている。まるでアスファルトの部分だけ巨人の手によって地面から引き剥がされたようだった。
大きく波打って曲がったアスファルトは、トンネルをいくつも作り出し、そこから向いのひしゃげたビルが見えていた。
とどのつまりレイは、また振り出しに戻ってきただけに過ぎなかった。
どこかにまた転送されるのかと思ったが、どうやら無限ループ地獄にはまってしまったようだ。いや、そうにちがいないとレイは感じた。
レイは剥き出しの黒い地面を踏んでトンネルをくぐりぬけ、馬喰坂へと急いだ。
そして、前にも感じ取ったように、元の世界には二度ともう戻れないのかもしれないという恐怖に襲われた。
爺さんになるまで、この馬喰坂のループ地獄から抜け出せないのかもしれない。
或いは、死ぬことも出来ないまま、ひしゃげた道路から始まって、ジュネのアバターみたいな少女に会うまでの長い道程と、わけのわからない考察を、何千万回、何億万回とループし続けるのだ。
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