5 / 29
甘い血5
しおりを挟む
蝙蝠をけしかけようとしたその時、青年とシスターの背後に一筋の影が走った。
二人は糸が切れたかのように並んで倒れていく。
「何をなされているのですか、お嬢様」
二人を殴打して気絶させたのはジェフリーだ。
「あら、追ってきたの……? 留守番してなさいって言ったのに」
「ぐっ」
言葉に詰まったものの、ジェフリーは咳払い一つで冷静な仮面を被りなおした。
「こんなところで二人も人間を殺めたら、ハンターに目を付けられますよ」
「主人の言いつけを破ったことは無視して小言? ちょっと、おしおきしようと思っただけよ。さすがに殺す気なんてないわ」
そんなことをするほど堕ちてもいない。
かなり本気で腹は立てていたし、うっかり色んなことが頭から抜けかけてはいたけれど。
「どのみち正教会のシスターに見つかったのでは、この街を離れなければいけませんね」
(あ、これは面倒くさいやつだわ)
像から飛び降りてヴィオラはスカートを直した。噴水から遠ざかるため歩きだす。大量の蝙蝠たちは、既に跡形もない。攻撃の意思を解いた瞬間に霧散している。
「お嬢さま、あんな青年を狙うなんて趣味が悪いのではありませんか」
案の定、背中から小言が追ってくる。これは下手したら数日続くかもしれない。お互い吸血鬼になってから日にちの区切りが緩くなったのは良くないところだ。
ヴィオラは無言で足を速めた。十字架のせいでまだ全身がむず痒い。
「十字架で痺れているようですけど、自業自得ですよ、お嬢様。見ず知らずの男から血を飲もうなんて考えるから。まったくはしたない」
振り返らず、足を速める。こうなっては、さっさと家に帰ってベッドに逃げ込むしかない。さすがのジェフリーの小言もベッドまでは追いかけてこないから。一時の仮の家へと急ぐ。
黙ってしばらく歩いていると、背後の足音が止まった。ふと振り返る。
と、ヴィオラの目に映ったのは、俯くジェフリーの姿。薄い金の髪が僅かな月あかりを受けて、きらきら光っている。いつもの渋面が見えないと、途端に頼りなく見える。
「……どしたのよ、ジェフリー。小言の言い過ぎで顎でも痛めた?」
少し可哀そうになったから、ふざけた調子で訊けば、
「ち、がいますよ」
と、上げられた顔はひどく歪んでいた。くしゃくしゃで、今にも泣きそうな、頼りない顔。
「お嬢様……。私より良い男なんてそうそう居ませんからね!!」
「…………え?」
「だっ、だから、私を捨てないで下さい、お嬢様~~」
どうにか泣くのを堪えているのか、凄まじく声が震えている。
見た目も実年齢も結構な年の筈なのに、情けないことこの上ない。
(まるで迷子の犬みたいだわ)
なんて返したらいいものか、戸惑うヴィオラにジェフリーが続ける。
「甘い血がお嫌なら、アスパラも人参もちゃんと食べますから! 紅茶に砂糖を入れるのも我慢しますから!」
そういえば、ヴィオラよりジェフリーの方が甘党なのだった。人には砂糖を控えろと言うくせに。――ジェフリーが甘党なことを知ったのは吸血鬼になってからだった。
「苦味がお望みだと云うなら、焦げたパンだって食べますから!」
ヴィオラは自然と口が笑みの形を作るのを自覚した。
「……馬鹿ね。焦げたパンなんて食べなくていいわよ」
「本当ですか? では、他の人間の血を飲んだりしませんか……?」
「そうねえ、比較は本当に純粋な気持ちでしたかったんだけど――甘いだけなんだから、いいって思うべきかしら……。別に体調が悪いわけじゃないのよね?」
不安げな瞳でジェフリーが頷く。
「そう。じゃあ、いいわよ。不味いとは言ってないんだから」
ただ、ちょっと血が――甘々なだけだ。
そして、その甘さも案外好きなのだから。
吸血鬼にならなければ知らなかった味。
吸血鬼にならなければ、ヴィオラがジェフリーのこんな顔は見ることもなかった。
「ジェフリーはそのままでいいわよ。そのままでいいから――これからも、わたしに血をくれる?」
改めて訊けば、
「お嬢様…!! もちろんで御座います」
完全に執事の仮面がどこかにいった笑顔が返ってきた。
並んで仮の家に帰る途中。路地の真ん中でジェフリーが立ち止まる。
「――ふと思いついたのですが、ほとんど同じものを食べている訳ですから、お嬢様の血も甘いのでは……?」
ヴィオラはぱっと首筋を押さえた。
「あ、あげないわよ! ジェフリーの変態!」
「へっ、へんたい!? 変態とはなんですか、そんなつもりじゃありません!」
「そんなつもりって、何を想像してるのよ、ジェフリーのばかっ」
「しかし、こちらだけ味の批評をされるというのは不公平ですよ! 確認させて下さい。一回!一回でいいですから!」
ヴィオラは返事はせずに逃げ出した。向かう先は同じ場所だけれど、せめてベッドに入れば今日は逃げきれる。
(これは、ちょっと、しでかしてしまった気がするわ……!)
その後、言い争うこと三日間。
結局、根負けしたのはヴィオラのだった。
指から血を飲ませる羽目になったのはまだいい、その感想が
『なんですか、これは。お嬢様の血だって砂糖菓子に蜂蜜かけたみたいな甘さじゃないですか。まあ、少量で胸いっぱいになるので構いませんが』
だったのは心外だ。
それが、一体なにを意味するのかを知るのはしばし後のこと――
二人は糸が切れたかのように並んで倒れていく。
「何をなされているのですか、お嬢様」
二人を殴打して気絶させたのはジェフリーだ。
「あら、追ってきたの……? 留守番してなさいって言ったのに」
「ぐっ」
言葉に詰まったものの、ジェフリーは咳払い一つで冷静な仮面を被りなおした。
「こんなところで二人も人間を殺めたら、ハンターに目を付けられますよ」
「主人の言いつけを破ったことは無視して小言? ちょっと、おしおきしようと思っただけよ。さすがに殺す気なんてないわ」
そんなことをするほど堕ちてもいない。
かなり本気で腹は立てていたし、うっかり色んなことが頭から抜けかけてはいたけれど。
「どのみち正教会のシスターに見つかったのでは、この街を離れなければいけませんね」
(あ、これは面倒くさいやつだわ)
像から飛び降りてヴィオラはスカートを直した。噴水から遠ざかるため歩きだす。大量の蝙蝠たちは、既に跡形もない。攻撃の意思を解いた瞬間に霧散している。
「お嬢さま、あんな青年を狙うなんて趣味が悪いのではありませんか」
案の定、背中から小言が追ってくる。これは下手したら数日続くかもしれない。お互い吸血鬼になってから日にちの区切りが緩くなったのは良くないところだ。
ヴィオラは無言で足を速めた。十字架のせいでまだ全身がむず痒い。
「十字架で痺れているようですけど、自業自得ですよ、お嬢様。見ず知らずの男から血を飲もうなんて考えるから。まったくはしたない」
振り返らず、足を速める。こうなっては、さっさと家に帰ってベッドに逃げ込むしかない。さすがのジェフリーの小言もベッドまでは追いかけてこないから。一時の仮の家へと急ぐ。
黙ってしばらく歩いていると、背後の足音が止まった。ふと振り返る。
と、ヴィオラの目に映ったのは、俯くジェフリーの姿。薄い金の髪が僅かな月あかりを受けて、きらきら光っている。いつもの渋面が見えないと、途端に頼りなく見える。
「……どしたのよ、ジェフリー。小言の言い過ぎで顎でも痛めた?」
少し可哀そうになったから、ふざけた調子で訊けば、
「ち、がいますよ」
と、上げられた顔はひどく歪んでいた。くしゃくしゃで、今にも泣きそうな、頼りない顔。
「お嬢様……。私より良い男なんてそうそう居ませんからね!!」
「…………え?」
「だっ、だから、私を捨てないで下さい、お嬢様~~」
どうにか泣くのを堪えているのか、凄まじく声が震えている。
見た目も実年齢も結構な年の筈なのに、情けないことこの上ない。
(まるで迷子の犬みたいだわ)
なんて返したらいいものか、戸惑うヴィオラにジェフリーが続ける。
「甘い血がお嫌なら、アスパラも人参もちゃんと食べますから! 紅茶に砂糖を入れるのも我慢しますから!」
そういえば、ヴィオラよりジェフリーの方が甘党なのだった。人には砂糖を控えろと言うくせに。――ジェフリーが甘党なことを知ったのは吸血鬼になってからだった。
「苦味がお望みだと云うなら、焦げたパンだって食べますから!」
ヴィオラは自然と口が笑みの形を作るのを自覚した。
「……馬鹿ね。焦げたパンなんて食べなくていいわよ」
「本当ですか? では、他の人間の血を飲んだりしませんか……?」
「そうねえ、比較は本当に純粋な気持ちでしたかったんだけど――甘いだけなんだから、いいって思うべきかしら……。別に体調が悪いわけじゃないのよね?」
不安げな瞳でジェフリーが頷く。
「そう。じゃあ、いいわよ。不味いとは言ってないんだから」
ただ、ちょっと血が――甘々なだけだ。
そして、その甘さも案外好きなのだから。
吸血鬼にならなければ知らなかった味。
吸血鬼にならなければ、ヴィオラがジェフリーのこんな顔は見ることもなかった。
「ジェフリーはそのままでいいわよ。そのままでいいから――これからも、わたしに血をくれる?」
改めて訊けば、
「お嬢様…!! もちろんで御座います」
完全に執事の仮面がどこかにいった笑顔が返ってきた。
並んで仮の家に帰る途中。路地の真ん中でジェフリーが立ち止まる。
「――ふと思いついたのですが、ほとんど同じものを食べている訳ですから、お嬢様の血も甘いのでは……?」
ヴィオラはぱっと首筋を押さえた。
「あ、あげないわよ! ジェフリーの変態!」
「へっ、へんたい!? 変態とはなんですか、そんなつもりじゃありません!」
「そんなつもりって、何を想像してるのよ、ジェフリーのばかっ」
「しかし、こちらだけ味の批評をされるというのは不公平ですよ! 確認させて下さい。一回!一回でいいですから!」
ヴィオラは返事はせずに逃げ出した。向かう先は同じ場所だけれど、せめてベッドに入れば今日は逃げきれる。
(これは、ちょっと、しでかしてしまった気がするわ……!)
その後、言い争うこと三日間。
結局、根負けしたのはヴィオラのだった。
指から血を飲ませる羽目になったのはまだいい、その感想が
『なんですか、これは。お嬢様の血だって砂糖菓子に蜂蜜かけたみたいな甘さじゃないですか。まあ、少量で胸いっぱいになるので構いませんが』
だったのは心外だ。
それが、一体なにを意味するのかを知るのはしばし後のこと――
0
お気に入りに追加
65
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる