蜂蜜色のみずたまり

志月さら

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縁日にて③

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「え――」

 踏み出しかけた足を戻して振り返る。
 ぴちゃぴちゃ、と。水音が、アスファルトの地面を叩いた。
 早瀬さんは浴衣の布地を両手でくしゃりと握り、呆然としたように立ち尽くしていた。

 縁日の喧騒がまだ耳に届く距離で、静かな水音の方がやけに耳につく。
 しょろしょろ、ぴちゃぴちゃ、と。
 細い水音が断続的に続いていく。早瀬さんはいつの間にか俯いていた。
 いつの日か学校の廊下で見たときと同じように、彼女の足元に水溜まりが広がっていく。

「……ご、めん、なさ」

 長く続いたように感じた水音が止む。早瀬さんの声は震えていた。
 そんな彼女を励ますように、手を取ってぎゅっと握った。

「だ、大丈夫、大丈夫だよ。えっと、僕んちすぐ近くだから、着替えとか貸すよ。今日、親の帰り遅いからうち誰もいないし、気にしなくていいから!」

 慌てふためき、自分でも何を言っているのかよくわからなくなりながら、そう口にする。
 早瀬さんは俯いたままだったけれど、小さく頷いてくれた。
 彼女の手を引いて歩き出す。住宅街に入ると静けさがあった。幸い人通りはなく、通行人とすれ違うことはなかった。
 歩いて数分の距離にある家に着き、鍵を開けて中に入る。

「どうぞ、入って」

 早瀬さんは泣きそうな顔をしながらも「お邪魔します」と律儀に言って家に上がった。
 廊下の電気をつけてから再び鍵をかける。早瀬さんが廊下を歩くと、浴衣の裾からぽたぽたと滴った雫が床に落ちた。

「ごめんなさい、廊下、汚しちゃう……」
「大丈夫、あとで掃除すればいいから。気にしないで」

 根拠のない大丈夫を繰り返しながら、早瀬さんを浴室へ連れていく。
 母さんは仕事で遅くなると言っていたし、妹は縁日に行ったあとそのまま友達の家に泊まると話していた。弟は部活の合宿で昨日から出かけている。
 ――早瀬さんとふたりきりだ。
 静かな家の中に自分と彼女しかいないと意識した途端、変にドキドキしてきた。

「え、ええと、お風呂こっちだから! タオルとか石鹸とか適当に使っていいよ。着替え用意してくるから、シャワー使ってて!」

 棚から取り出したタオルを彼女に押し付けて、慌てて脱衣所を出た。
 自分の部屋へ行き、衣服をしまってある収納ボックスの中を漁る。妹の服では小さいだろうし勝手に漁るわけにもいかない。母のものも同じく。
 女の子に貸す着替えってどれにすればいいんだと悩みながら、Tシャツとジャージを選んだ。下着はどうしようと思ったけれど、洗濯してあるとはいえ自分のボクサーパンツを貸すわけにはいかない。

 コンビニに買いに行くべきか一瞬迷ったが、さすがに女物の下着を買うのは恥ずかしいし早瀬さんを一人にするわけにもいかない。
 着替えを持って脱衣所の扉をノックしてみるけれど、シャワーを浴びていて聞こえないのか返事はなかった。
 そっと扉の隙間を開けて中の様子を窺う。浴室に続く曇りガラスのドアはしっかりと閉じられ、中からシャワーの水音が聞こえていた。着替えを置いてすぐ出ようと思っていると、水音が止まった。万が一鉢合わせしてはいけないと思い、とっさに声を掛ける。

「は、早瀬さん!」
「……っ、はい」
「着替え、洗濯機の上に置いておくね。ごめん、さすがに下着は貸せないんだけど」
「大丈夫、ありがとう。あの、あとでドライヤー借りてもいい?」
「うん。洗面台のとこに置いてあるから、使って!」

 じゃあリビングにいるから、と言い残して、バケツと雑巾を掴んでそそくさと脱衣所を出ていく。彼女が汚してしまった廊下を手早く掃除して、バケツなどの片付けはあとでいいやとキッチンの隅に置いておく。
 気が付くと喉がからからに渇いていた。キッチンの流しで手を洗ってから、冷蔵庫の麦茶をグラスに注いで一気飲みした。そのままリビングに移動して、ソファに身体を沈める。

 はぁ、と息をつく。なんとか気持ちが落ち着いてきた。
 早瀬さんの方は大丈夫だろうか。いやたぶん大丈夫ではないのかもしれないけれど、あまり落ち込まないでほしいなと思う。
 初めてのときも、二回目も、そして今回も。彼女がやむを得ない事情で恥ずかしい思いをするところをつい目にしてしまったけれど、軽蔑などしないし嫌いになることもありえないのだから。

 そんなことを考えていると、廊下を歩く小さな足音が聞こえてきた。
 おずおずと、早瀬さんがリビングに顔を覗かせた。僕の方が少しだけ背が高いだけなので服のサイズは大丈夫そうだった。アップにしていた髪は下ろしている。

「あの、八木くん。着替えとかありがとう。それで、あの、ごめんなさい、なにか袋とか貸してもらえない、かな。浴衣を入れたくて……」
「あ、いま用意するね!」

 気が回っていなかったことを悔やみつつ、慌ててキッチンの棚を物色する。しまいこんであった洋菓子店の紙袋を見つけたので、大きめのビニール袋と一緒に渡す。

「これでいいかな?」
「うん。大丈夫だと思う。ありがとう」
「紙袋だし返さなくていいから」

 袋を受け取った早瀬さんはそそくさと踵を返した。ほどなくして片手に紙袋と元々持っていた小さいかごバッグを持って戻ってくる。
 ソファを勧めて麦茶を出したけれど、早瀬さんは一口グラスに口をつけただけでまた俯いてしまった。
 少しの沈黙が続いたあと、彼女はそっと口を開いた。

「……ごめんね、せっかく誘ってくれたのに、私、迷惑ばかりかけちゃって」
「そんな、迷惑だなんて思ってないよ! 僕こそ、嫌な思いさせちゃってごめん」

 僕が強く言うと早瀬さんは顔を上げてくれたけれど、首を小さく振って曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
 せっかくの、付き合い始めて最初の夏休みだというのに、これだけで終わらせたくはない。思いきって提案する。

「夏休み中、またどこか遊びに行こうよ!」
「……いいの?」

 きょとんとした顔をする彼女に、強く頷く。

「もちろん、早瀬さんさえよければ。どこに行きたいか考えておいて!」
「……うん。ありがとう、八木くん」

 ふわりと。ようやく、早瀬さんはいつものような笑顔を見せてくれた。
 もしかしたら無理をしているのかもしれないけれど、笑ってくれたことに少し安心する。
 それから、ふと時計を見るともうすぐ九時になろうとしていた。

「あんまり帰り遅くなるといけないよね。よかったら、家まで送るよ」
「うん。じゃあ、お願いしてもいい?」

 断られなくてよかったとひそかに安堵する。麦茶を飲み干してから立ち上がった早瀬さんは、リビングを出てからそっと僕の袖を引いた。

「あ、あのね、帰る前にお手洗い借りてもいい?」

 恥ずかしそうにこっそりと告げる早瀬さんに、僕はもちろんと頷いた。

END 
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