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番外編

小旅行に行きましょう③

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 レストランカフェを出て車に乗り込み、来た道を引き返す。次に訪れるオルゴールの美術館は数百メートルしか離れていない場所にあった。
 駐車場で車から降りると、再び冷たい風が素肌をひやりと撫でた。
 
(タイツ履いてくればよかったかなぁ……)
 
 可愛いからという理由で短いソックスを履いてきたことをほんの少しだけ後悔してしまう茜だ。家を出てくるときはそんなに寒く感じなかったから油断してしまった。
 美術館があるのは道路の向かい側だ。夏癸の隣を歩いて横断歩道を渡る。入り口の手前にあるアーチをくぐり敷地に足を踏み入れると、さっそく秋薔薇が咲き誇る庭園が目に入って胸が弾んだ。素敵な雰囲気だ。
 入館料は夏癸が二人分払ってくれた。エントランスを抜け、目の前に広がる光景に茜は思わず声を上げた。
 
「わあ……!」
 
 なんだか今日は歓声を上げてばかりだ。しかし心が動かされてしまうのだから仕方ない。
 視界いっぱいにヨーロッパの町並みのような風景が広がっていた。ここが日本だということを忘れてしまいそうになるが、美しい庭園風景の向こうにはそびえ立つ富士山の姿が見える。
 十月ということで、館内にはジャック・オー・ランタンなどハロウィンの装飾が施されていた。仮装もお菓子を貰いに行くこともやったことはないけれど、ハロウィンの雰囲気は好きだ。
 
「もうすぐコンサートが始まるみたいですけど、行ってみますか?」

 チケット売り場で渡されたタイムスケジュールを見ていた夏癸が口を開いた。時間を確認すると、あと十分ほどで自動演奏楽器とオペラ歌手のコンサートが始まるみたいだ。

「行ってみたいです!」
「じゃあ、まずはここから行きましょうか」
 
 一番近い場所に位置するホールに足を向ける。
 建物に足を踏み入れると、豪奢なシャンデリアと二階に続く大きな階段が目に入った。まるでお城みたいだ。一階にはいくつものオルゴールや機械仕掛けの人形オートマタなどが展示されている。コンサートが行われるのは二階にあるメインホールのようだ。案内に沿って階段を上がっていく。
 意外に広さのあるホールには既に何人もの客が入っていた。平日だが観光客は少なからず来ているようだ。空いていた席に腰を下ろすと、ほどなくして照明が落とされた。
 ステージに男性が姿を現した。スポットライトに照らされている。
 音楽が流れ始め、伸びやかな歌声がホール内に響き渡った。音楽には詳しくない茜だけれど耳に入ってくる音は心地良い。
 演奏が終わり、客席から拍手が起こる。茜もぱちぱちと両手を叩いた。
 司会の人がやってきて、いま歌声を披露した男性歌手の紹介や使用された自動演奏楽器の説明を始める。
 オーケストラの演奏を自動的に奏でる機械は百年以上昔に作られたものだという。そのうちのひとつは豪華客船タイタニック号に載せられる予定のものだったとのことだ。現在の技術では自動演奏楽器を作ることは難しいらしい。

(すごいなぁ……)
 
 現代でいうオーディオ機器の役割として自動演奏楽器は作られたみたいだ。オーケストラがいなくても屋敷で好きなときに好きな音楽を聴きたいという音楽を愛する人たちの想いがあったのだろう。
 とくにヴァイオリンの自動演奏は技術的にとても難しいものだったらしく、構想から完成に至るまで二百五十年もの歳月がかかったのだという。携わった人たちにもたくさんの物語があったのだろうと考えると感慨深い思いになった。
 解説が終わり、再び演奏が始まる。音楽に耳を傾けていた茜だが、ふいに身体に小さな震えを感じた。
 
(……ちょっと、トイレ行きたいかも)
 
 足が冷えてしまったせいか、それとも先ほど口にした紅茶のせいか。気付けば無視できない程度の尿意を感じていた。
 しかしホール内は暗いうえに、客席に座っている人が何人もいるこの状況では席を立ちづらい。
 
(まだ、我慢できる、よね)
 
 さっきタイムスケジュールをちらっと目にしたが、一回の公演時間は三十分もなかったはずだ。もう少ししたら終わるはず。それからトイレに行ってもまだ間に合うと思える程度の余裕はある。
 大丈夫だ、と自分に言い聞かせ、茜は下腹部の重さから意識を逸らして演奏に耳を澄ませた。
 曲が止み、余韻に包まれた客席で拍手が起こる。茜も手を叩きながら、こっそりと膝を擦り合わせた。端から見てトイレを我慢していると知られてしまうと恥ずかしいから、おおっぴらな仕草はできない。
 司会者が公演の終わりを告げ、よろしければ近くで自動演奏楽器をご覧ください、と案内する。興味を持った客が席を立ってステージに近づいていったり他の客はホールから立ち去っていったりする。茜は隣に座っていた夏癸の袖をそっと引いた。
 
「茜?」
「夏癸さん、あの、おトイレ行っていいですか……?」
 
 こっそりと耳打ちする。身内のような存在であるというのに、夏癸の前でトイレに行きたいと告げるのはいまだに恥ずかしくて頬を染めてしまう。
 けれど楽しい旅行でこれ以上に恥ずかしい思いはしたくないし、失敗して夏癸に迷惑をかけたくない。
 今日は無理にトイレを我慢しないぞ、と茜は密かに自分の中で決まり事を作っていた。
 
「ええ。一階にありましたから、行きましょうか」
 
 夏癸は穏やかに口元を緩めて席を立った。
 トイレを済ませてから、再び二階に上がりアンティークオルゴールやオートマタが展示されている展示室を軽く見学した。どれも貴重なものらしいが、知識がないため軽く眺めるだけに留めてしまう。ひとつひとつじっくりと見ていたら時間がいくらあっても足りないかもしれない。
 
「夏癸さんはこういうの詳しいの?」
「いえ、あんまり。興味深いとは思いますけど。クラシックやオペラには昔少し触れていましたけど、そのときはあまり興味が持てなかったんですよね……」
 
 夏癸はそれ以上言葉を続けることはなく、ふいと展示品に視線を移した。彼の言葉が少し気になったけれど、それを訊ねることはできなかった。
 
(昔、かあ……わたし、夏癸さんの昔のことって全然知らない。もっと大人になったら……ちゃんと、教えてもらえるかな)
 
 いまの茜はまだまだ子どもだからなにも教えてもらえないのかもしれない。もっと成長して、色々なことを受け入れられるようになったら夏癸の話をしっかり聞きたい。彼のこともをちゃんと知りたい。知って、受け止めたい。
 いつかそんな日が来るのかなと考えながら、茜は展示品を見るそぶりで夏癸の横顔をそっと盗み見た。

 ***

 昼食時になり、空腹も感じていたのでレストランに足を向けた。案内された席に着くと、広い窓からは美しい景色が見渡せた。澄んだ秋の空に富士山と庭園の風景がよく映える。
 頼んだのはこの時期限定のハロウィンランチだ。
 美術館について下調べをしたときに見つけて「お昼はこれにしませんか?」と提案してきたのは夏癸だった。ランチで三千五百円という値段は中学生の茜からしたら随分と贅沢に思えてしまったが、彼は平然としていた。
 サーモンとアボカドのディップにスープ、鮮魚のベニエ、ローストポークにパン、デザートのケーキ。全部食べ切れるか不安だったけれど、なんとか残さず食べられた。
 食後に温かい紅茶を啜り、茜は小さく息を吐いた。
 
「おいしかったぁ……でももうおなかいっぱい」
「このあとどうしましょうか。もう少しゆっくり見て回りますか?」
「うん。あの、わたしサンドアート見てみたいです。あとお土産も、柚香ちゃんとかに買っていこうかなって」
「ええ。いいですよ」
 
 応えて、コーヒーを口にする夏癸の表情はにこやかだった。
 ゆっくりしてからレストランを出たが、サンドアートパフォーマンスが始まるまでにはまだ少し時間があった。先にお土産を見ることも考えたが荷物になるかもしれないので後回しにし、庭園をぶらつく。
 小さなヨーロッパと言われている異国感のある風景の中をただ歩いているだけでも楽しい。風は少し冷たいけれど、天気はいいし、しっかりと手入れされた庭には薔薇やコスモス、ベゴニアなど秋の花々が咲き誇っていて美しい。写真も何枚も撮った。
 普段は写真を撮る機会などあまりないから、夏癸と一緒に何枚か撮影できたのもすごく嬉しい。

「そろそろ行きましょうか」
 
 腕時計を見た夏癸が声をかけた。噴水のある広場の柵に軽く寄りかかって景色を眺めていた茜は「はぁい」と頷いて振り返った。
 もうひとつのホールに向かって歩きながら、茜はこっそり膝を擦り合わせた。昼食を摂ってから少し時間が経ったら、トイレに行きたくなってしまった。夏癸に声をかけるか一瞬悩んで、結局口を噤む。

(確か、ホールにトイレあったよね……)
 
 ガイドマップに記されていたトイレの案内図を思い出す。建物に入ったらさりげなくトイレに寄らせてもらおうと心に決めて、夏癸のあとについて歩いていく。まだ切羽詰まっているわけではないし、大丈夫。
 建物に入るとすぐに下り階段があり、降りていくとまるでパーティー会場のような空間が広がっていた。世界最大規模の自動演奏楽器ダンスオルガンがこのホールのメインの展示みたいだが、目の前の壁一面に広がっているものがそうなのだろうか。
 客席となっているいくつもの丸テーブルやソファには既に何人もの人が腰を下ろしている。茜はきょろきょろと室内を見渡した。

(トイレ……どこだろ……?)
 
 軽く見ただけではトイレがある場所を見つけられなくて、もしかしてここにはないのだろうかと不安に襲われてくる。どうしよう、とおろおろしていると夏癸に顔を覗き込まれた。
 
「どうしました? 座りませんか?」
「あ、ぅ、あのっ……」
「茜? ああ、先にお手洗い行っておきますか?」 
 
 さらりと訊かれて、茜は反射的にこくんと頷いた。平静を装っているつもりでいたのにトイレに行きたいことがあっさり見透かされてしまって恥ずかしい。
 夏癸は茜の手を引くと奥にある通路に足を進めた。よく見ると手洗いの案内がちゃんと示されている。
 夏癸に促されて、茜はぱたぱたと小走りに女子トイレへ入っていった。
 無事にトイレを済ませて、安堵した気持ちで夏癸のもとへ戻った。メインホールに戻り、空いていたソファに並んで腰を下ろす。
 
 ほどなくして司会の女性が姿を現し、ダンスオルガンの紹介が始まった。なんと建物そのものがダンスオルガンのために作られたもので、フルートやトランペット、ヴァイオリンなどの音色を出す何百本ものパイプとドラムやシンバル、ベル、鉄琴などが組み込まれていてオーケストラのように音楽を奏でる仕組みになっているらしい。
 ダンスホールに設置されていたからダンスオルガンという名前なのだそうだ。
 壁に取り付けられている人形もただの飾りではなく、手に持っている楽器で実際に音を奏でるのだという。
 さっそく演奏を聴いてみましょう、という声のあと、音楽が鳴り響いた。
 予想以上に大きな音に、びくっと肩が震えた。音楽の知識に乏しいので、紹介された「双頭の鷲の旗の下に」というタイトルにはぴんとこなかったのだけれど、演奏には聞き覚えがあった。運動会の入場行進でよく使われている曲だ。
 
 もう一曲演奏がありダンスオルガンの紹介が終わると、サンドアートパフォーマンスが始まった。スクリーンにパフォーマーの手元が映し出される。
 ヴァイオリンとピアノの生演奏に合わせて、砂で絵を描いていく。物語はヘンゼルとグレーテルだ。指と爪だけで描かれていくストーリーは、音楽に合わせて次々と展開していく。指先で描かれる童話の世界に、目を奪われた。

(すごい……! すごい、すごい……!!)
 
 初めて目にしたサンドアートに、茜はすっかり感動してしまった。演奏が止み、スクリーンにはfinと文字が描かれる。観客からは大きな拍手が起こり、茜も両手を強く叩いた。

「すごい、すごかったですね! あの、指で、砂に、あんなに描けるなんて!」
「ええ、驚きましたね」
 
 思わず興奮気味にちゃんとした日本語になっていない感想を話してしまうが、夏癸は目を細めて頷いてくれた。
 慣れ親しんだ童話でこんなに感激するものを見られるとは思っていなかった。
 出口は入口とは別方向にあるようで、人々の流れに沿って歩いていく。途中で先ほど入ったトイレを見かけて、急に下腹部の重さを感じた。
 三十分ほど前に済ませたばかりだというのにまた尿意を催してしまったことに戸惑いながらも、隣を歩く夏癸の袖をちょこんと引っ張った。今日の目標は失敗しないこと、だ。

「あの、ごめんなさい、もう一回行ってきていいですか?」
 
 顔を向けてきた夏癸に、ちら、とトイレに視線を投げながら小声で呟く。
 
(うう、さっきも行ったのに恥ずかしいよう……)
 
 また行くのかと呆れられないだろうか。このあと行くショップにもトイレはあるだろうが、あんまり我慢はしたくないし、他のトイレは混んでいるかもしれないからここで済ませておきたい。

「行っておいで。ここで待っていますから、大丈夫ですよ」
 
 夏癸の声は優しくて、呆れている様子もなければ嫌な顔もしてはいなかった。茜は小さく頷いてトイレに足を向けた。
 トイレは空いていて、茜はほっと胸を撫で下ろした。空いている個室に入り下着を下ろす。便座に腰を落ち着けると、しょろしょろと溢れた水流が水音を立てた。

「はぁ……」
 
 ほうっと息を吐く。お腹がすっきりして気持ちが落ち着いた。
 トイレから出ると、夏癸はちゃんと通路のところで待っていてくれた。ほんのりと頬を染めて歩み寄る。

「夏癸さん、お待たせ、しました……」
「そんなに待っていませんよ。じゃあお土産見に行きましょうか」
「うん」
 
 オルゴールやお菓子などを扱っているミュージアムショップに移動する。さほど広くない店内だが様々な商品を扱っていて、つい目移りしてしまう。
 楽器を持った動物のオルゴールやミニチュアサイズのアンティークオルゴールが可愛らしくて目を止めたが、少々値が張る。この場で目を楽しませるだけに留めておいて、茜はお菓子売り場のほうへ足を向けた。
 チーズケーキにクッキー、チョコレート。売り場に並ぶお菓子ひとつひとつに目移りしてしまいどれがいいのか悩んでしまう。
 悩んだ末に、音符の形をしたチョコレートを選んだ。
 ビター、ミルク、ホワイトチョコと三種類の味があり、ここは無難にミルク、と決めて柚香となずなの分を手に取る。自分の分も買おうかな、と迷っていると横から伸びた手が三種類の味が入った少しだけ値段が高いギフトボックスを手に取った。

「これは家用に、私が買いますよ。他に食べたいもの、ありますか?」
 
 そう言って微笑む夏癸に少したじろぐ。今日は自分が欲しいものは自分で買おうと思っ
 ていたのに。もう中学生なんだから、あんまり甘えてはいけないと。
 もちろん今日持ってきている茜のお小遣いだって、本を正すと夏癸からもらったものなのだけれど。

「ええと……でも……」
「お菓子くらい私に買わせてください。遠慮しないで」
「……あの、チーズケーキ、気になってて」
「ああ、これ。私も気になっていました。じゃあこれも買いましょう」
 
 夏癸は躊躇いもせずにチーズケーキを手に取った。「他には?」と問われて首を振る。

「もう大丈夫です!」
「本当に?」
「ほんとに! そんなにお菓子いっぱい買っても困るでしょっ」
「それもそうですね。すみません」
 
 夏癸は淡く苦笑してレジに足を運んだ。茜も自分の分の会計を済ませる。じっくりとショップを見ていたら意外と時間が経ってしまっていた。既に午後二時半を回っている。オルゴールの美術館にはすっかり満足したので残るは山中湖にある絵本みたいなカフェだ。

「三十分くらいで着くと思いますけど、トイレ寄っておきますか?」
「んと、じゃあ一応……」
 
 車での移動になるから心配して声をかけてくれたのだろう。
 いまはそれほど行きたくないけど、途中で行きたくならないようにと念のためエントランス付近のトイレに立ち寄った。
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