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番外編

小旅行に行きましょう②

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 翌週、十月の第二金曜日。
 天気は晴れ。降水確率はゼロパーセント。日帰り旅行に出かけるには最適の日和だ。
 
「茜、準備できましたか?」
「はーい……!」
 
 出かける支度を終え戸締まりや火の元も確認した夏癸が玄関から声をかけると、廊下か
 らパタパタと足音が聞こえてくる。
 茜は普段学校に行くときは三つ編みにしている髪を下ろしてハーフアップにしていた。深紅のリボンをあしらったバレッタを髪に留めている。胸元で細いリボンを蝶々結びにしているブラウスにカーディガン、フレアスカートという服装も可愛らしい。随分とおしゃれをしたようだ。
 
「トイレは行きました?」
「あっ、まだっ」
「慌てなくて大丈夫ですから。ちゃんと済ませてきなさい」
「はぁい……」
 
 恥ずかしそうに少しだけ頬を染めて茜は廊下の奥に足早に歩いていく。夏癸は軽く息をついて、口元に淡い苦笑を浮かべた。

 ***

 中央自動車道に入ってからおよそ三十分。特別に道が混雑しているということもなく、ここまでの路程は順調だった。
 助手席に座る茜の様子を横目でちらりと窺うが、出かける前に酔い止めを飲ませておいたので車酔いを起こしている様子もない。
 窓の外に広がる山ばかりの景色を時折珍しそうに眺めている。
 山梨県に入ってからほどなくしてサービスエリアの案内標識が見えてきた。家を出てからもさほど時間が経っていないため大丈夫だろうとは思うが念のために声をかけてみる。

「この先サービスエリアがありますけど、休憩しますか?」
「んーと、まだ大丈夫です」
 
 応える茜の声は平然としていた。カーナビの示す情報もラジオから聞こえる交通情報もこの先で渋滞が起こっているようなことは伝えてこないので問題はないだろうと判断してサービスエリアを通り過ぎる。
 大月ジャンクションで富士吉田線へ乗り入れ、車を進める。あまり変わり映えのしない景色の中しばらく車を走らせていると、パーキングエリアの案内が見えた。ここを通り過ぎると高速道路は降りてしまうので、目的地に着くまで休憩できるポイントはないかもしれない。
 
「茜、トイレ大丈夫ですか? ここが最後なので、パーキングエリア寄りましょうか?」
「えっと、じゃあ、一応……」
 
 茜の答えを聞いて、パーキングエリアの入り口へ車線変更する。駐車場はあまり広くないが止まっている車は少なかった。手近の空いているスペースに車を入れる。

「トイレ出たところで待ち合わせしましょうか。あの自販機のところで」
「はぁい」
 
 エンジンを切り、車を降りてトイレに向かう。茜の足取りはしっかりしていて焦っている様子もないのでまだ尿意には余裕があるのだろう。茜が女子トイレに入るのを見届けてから夏癸も男子トイレに足を向けた。
 それほど尿意は感じていなかったけれど一応と用を済ませ、トイレから出ると茜の姿はまだなかった。喉の渇きを覚えていたので自販機でホットの緑茶を買う。軽く喉を潤しているとほどなくして茜がトイレから出てきた。

「なにか飲みますか?」
「い、いらないです……」
「あと三十分くらいで着きますから、心配しなくても大丈夫ですよ」
 
 トイレを済ませてきたばかりだというのに、トイレに行きたくなるのを心配して水分摂取を控えようとする茜に思わず苦笑してしまう。
 出発してから一時間以上経っているから少なからず喉は渇いていることだろう。夏癸が小銭を投入して促すと、茜は僅かに逡巡した末に温かいほうじ茶の購入ボタンを押した。
 一口、二口だけ飲んだらキャップを締め、まだ中身のたっぷり残った小さいペットボトルを斜めがけにしたショルダーバッグの中にしまう。
 控えめな飲み方に再び苦笑が浮かびそうになるが、それについては言及せずに車に戻る
 べく踵を返した。
 
*** 
 
「わぁ……!」
 
 富士吉田市に入った辺りで茜が小さな歓声を上げた。視界の左手、山影が途切れ富士山が姿を現したためだ。随分と大きく見えるが、これでも実際にはまだ距離があるのだろう。

「すごい、こんな近くで富士山見たの初めて!」
「やっぱり大きいですね」
 
 前を見ている夏癸の視界にも富士山はしっかりと映っていた。新幹線の車窓からなら見たことはあるが、山梨側から近距離で目にするのは初めてだ。
 河口湖インターで一般道へ下り、カーナビの案内表示に従って車を進めていく。指示通りに信号で右折し、国道から県道へ入る。数分ほどで河口湖が見えてきた。湖を見るのも初めての茜は再び小さく声を上げた。
 河口湖大橋を渡り、河口湖の北岸に沿って車を走らせる。道路の左手に目的としていた美術館が見え、カーナビの音声案内が目的地周辺に到着したことを告げる。
 駐車場に車を止めて車外に出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。東京よりも少し肌寒い。夏癸より遅れて車から降りてきた茜は小さく肩を震わせた。

「風、ちょっと冷たいね」
「そうですね。茜、寒くないですか?」
「ちょっと……でも平気ですっ」
 
 膝丈のスカートから伸びる素足に短いソックスを履いただけの足元は見るからに寒そうだが、茜は小さく首を振った。
 
「それより、早く行きましょう!」
 
 茜は高揚した表情で、目の前に広がる童話の中のような光景に目を奪われていた。
 アスファルトの駐車場の先には芝生に囲まれた石畳の道が続いている。道の先には、茜が好きな作品に登場する架空の街の雰囲気が完全に再現されていた。
 可愛らしいファンタジーな世界観の作品は夏癸の趣味ではないため本をちゃんと読んだことはないのだが、茜が読んでいるところを何度も見たため絵には見覚えがある。手前にある建物は物語に登場する博物館を模していて、建物の丸みといい質感といい絵の雰囲気を完全に再現している。
 ファンにはたまらないのだろうなと思い茜を見やると、目を輝かせて建物を見上げていた。感動した様子で見つめていた茜は、突然はっとして夏癸を振り返った。

「夏癸さんっ、写真撮ってきていいですか!?」
「ええ、どうぞ」
 
 茜は日頃のおっとりした様子からは考えられない機敏さでスマートフォンを構えて写真を撮り始めた。パシャパシャ、と何度もシャッターを切り、外観や周りの風景を撮影している。
 若干手持ち無沙汰になった夏癸は自分のスマートフォンを取り出すと、夢中になって撮影している茜の姿を写真に収めた。これはこれで普段はなかなか目にできない姿が見られたのでよし、と一人満足する。
 ひとしきり写真を撮り終え、茜は振り返った。
 
「ごめんなさい、一人で盛り上がっちゃって……」
「いいえ。もういいんですか?」
「うん。中も早く見たいから」
 
 頬を紅潮させている茜とともに入り口へ向かって歩いていく。
 美術館に足を踏み入れると、一階はミュージアムショップになっていて所狭しと商品が並んでいた。
 
「わぁぁ……! あ、あれかわいい! 欲しい、どうしよう……っ」
 
 店内を見渡して、茜は再び目を輝かせた。欲しいものはたくさんあるのだろうが、中学生の所持金には限りがある。ここは保護者の出番だろうと思い口を開く。
 
「欲しいものがあったら買ってあげますよ」
「夏癸さん! そうやってすぐに甘やかすのよくないと思います。ちゃんと自分のお財布と相談して買うから!」
「……すみません」
 
 気軽に買い与えようとしたら逆にたしなめられてしまった。
 そもそも今日出かける前にも、自由に使えるお金があったほうがいいだろうと渡そうとしたら断られてしまった。今月のお小遣いの残りとお年玉を貯めていた分があるから大丈夫だと。
 金銭感覚がしっかりと身についていることは嬉しいが、夏癸としてはもう少し甘えてほしいし甘やかしたい。
 悩ましげに商品の数々を見つめていた茜だが、やがておずおずと振り返った。

「先に、展示のほう見てきていいですか……?」
「ええ、いいですよ」
 
 ショップの二階が展示室になっている。受付で二人分の入館料を払い、階段を上がり歩いていくと、まるで異世界に迷い込んだのではと錯覚してしまうほど真っ赤な壁が目の前に広がっていた。
 額縁に入った絵本の原画がストーリーに沿ってひとつひとつ壁に飾られている。
 繊細な筆致と優しい色使いによって主人公の猫をはじめとした動物のキャラクターたちが生き生きと描かれている。茜は夢中になってひとつひとつの絵に見入っていた。すっかり物語の世界に惹き込まれている茜の様子を微笑ましく眺めながら、静かな展示室をゆっくりと歩いていく。二人以外に客の姿はなかった。
 
 次の部屋に移ると壁の色は黄色になっていた。展示している絵の雰囲気によって壁の色を変えているのだろう。順路に沿って歩いているだけなのにまるで迷路のようだ。
 ただ絵が飾られているだけではなく、作品世界のジオラマや作者のアトリエを再現した展示もある。
 茜の後ろをついて歩きながら、夏癸は工夫が凝らされた展示室を興味深く見ていた。この空間は作品のファンならそれはもう楽しめることだろう。前を歩く茜は時折足を止めながら、熱心に展示を眺めていた。
 不思議な空間の展示室を出て、一階のショップへ戻る。茜はすっかり満足した様子だった。
 
「すごい、雰囲気あって、よかったです! 迷路みたいでしたね!」
「ええ。楽しめました?」
「はい、すっごく!」
 
 茜は上機嫌に応えた。楽しめたなら何よりだ。
 そして、再び真剣な表情でグッズの売り場を眺め始めた。しばらく悩んだ末に選んだ商品を手に取り、レジに持って行き支払いを済ませる。夏癸は少し離れたところで一部始終を眺めていた。
 
「なにを買ったんですか?」
「卓上カレンダーと、あとしおりです。ここでしか売ってないみたいだから……これなら使えるし」
 
 ただ飾って楽しむだけのものではなく、普段使いできるものを選んだところが茜らしい。

「気に入ったものが見つかってよかったですね。次の美術館にも行ってみましょうか」
「うんっ」
 
 美術館を出て歩き出そうとしたが、茜がふいに足を止めた。

「茜?」
「……いちご……」
 
 彼女の視線は併設されているレストランカフェに注がれていた。店名に「いちご」と入っているので苺のデザートが名物なのだろうか。カフェの外観もまた可愛らしい。
 昼食は次に行く美術館内のレストランで摂る予定で、お昼の時間にはまだ早い。しかし茜は入りたそうにしている。せっかく来たのだしここは彼女の希望を叶えることにした。

「休憩がてら少しお茶でも飲みましょうか」
「いいの!?」
「ええ。せっかく来ましたしね」
 
 ぱっと顔を輝かせた茜を連れて店内に入る。午前中の時間帯なので客の姿はまばらだった。窓際の席に案内され、メニューを開く。ドリンクメニューもやはり苺を使ったものが目についた。
 
「決まりました?」
「えーと、ストロベリークリームティーがいいです。夏癸さんは?」
「私はこのストロベリーコーヒーにします」
「……どんな味なんですか?」
「さあ? 気になるので頼んでみます」

 普通のコーヒーや紅茶もメニューには載っていたが、見慣れない飲み物に対する好奇心のほうが勝った。オーダーをして、数分ののちに頼んだドリンクが運ばれてくる。
 茜が頼んだストロベリークリームティーは名前の通り可愛らしい見た目の紅茶だった。ティーカップに浮かんだたっぷりのクリームにスライスされた真っ赤な苺が載っている。
 夏癸が頼んだストロベリーコーヒーはというと、グラスに注がれた見た目はいちごミルクだと言われても疑いを持たないほど淡いピンク色をしていた。
 味の想像がいまいちできない。見た目通り甘いのだろうか。
 ほんの少し躊躇いながらも口をつけると、いちごの風味が口の中に広がった。けれどただ甘いだけではなく、喉ごしと後味は確かにコーヒーの苦味を感じる。
 視線を感じて顔を上げると、紅茶に口をつけていた茜が興味津々な視線を注いでいた。

「飲んでみますか?」
「いいの?」
「どうぞ」
 
 グラスを差し出す。茜は手に持っていたカップを置くと、躊躇う様子は見せずにストローに口をつけた。
 
「あ、甘い……けどちょっと苦いですね」

 一口飲んで目を丸くした茜は、後味に少しだけ眉を寄せる。彼女の反応に口元を緩めながら、夏癸は返されたコーヒーを静かに啜った。
 甘みと苦味のバランスが自分にはちょうどいい。ガムシロップもついているが入れる必要は感じなかった。

「パフェも美味しそう。食べたかったなぁ」

 昼食前なのでボリュームのありそうなストロベリーパフェを食べることは諦めた茜だ。次に行く美術館にあるレストランの期間限定ハロウィンランチも楽しみにしていたからここは我慢したのだろう。
 
「またいつか来ましょうか」
「ほんとに?」
「ええ、約束します」
「絶対ですよっ」

 たとえ他愛のない約束だとしても、それが叶わなくなる恐怖を彼女はよく知っている。
 大切なものを失うことを恐れている少女に不安を抱かせないように、夏癸ははっきりと頷いた。
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