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35.彼の追憶⑦

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 職場での飲み会の類をほとんど断っていた葵だが、久々に参加することになった。たまには息抜きも必要だろうと同僚に誘われたらしい。その間、茜を預かってほしいという頼みを夏癸は快く引き受けた。
 小学三年生になった茜は積極的に家事を手伝うようになっていた。料理を教えてほしいと頼まれたので、日によってはアパートではなく夏癸の家で夕飯を食べることも増えていた。アパートのキッチンスペースは手狭なので二人で立つと少し動きにくい。
 自宅の台所で、茜に手伝ってもらいながら調理するのは楽しかった。初めは包丁を使う手つきがおっかなびっくりだった茜だが、使い方をしっかりと教えるとゆっくりとだが危なげなく包丁を扱えるようになった。茜は素直に言うことを聞き、飲み込みも早かった。
 
 その日の夕食は茜の希望でクリームシチューを作ることに決めた。できるだけ一人でやってみたいと茜に頼まれたので、夏癸はなるべく手を出さないことにする。
 小さな手で包丁を握り真剣な表情でじゃがいもやにんじんを切っている姿も、焦がさないように気を付けて一生懸命具材を炒めている姿も多少はらはらしながら見守る。
 
「そろそろ良さそうですね。一旦火を止めましょうか」
「うん」
 
 夏癸はシチュールウを使わない派なので、一度火を止めてから薄力粉を加える。ダマにならないように粉っぽさがなくなるまでよくかき混ぜるのだが、茜は少しかき混ぜただけで手を止めてしまった。
 
「もう牛乳入れていい?」
「いえ、もう少し、よくかき混ぜてからにしましょうか」
「……はぁい」
 
 横から手を出したくなるのを堪えて、口頭で指示する。粉っぽさがなくなるまでかき混ぜたのを確認してから、牛乳と水、コンソメを加えて再び火にかけた。
 あとはしばらく煮込むだけ、という段階で茜がもじもじと身体を揺すりながら膝を擦り合わせていることに気付いた。どうやらトイレに行きたいらしい。
 
「茜ちゃん、トイレなら行っておいで」
 
 そっと声をかけると、茜は頬を染めて困ったような視線を向けてきた。
 
「でも、まだ途中……」
「見ているから大丈夫ですよ。早く行っておいで」
「はぁい」
 
 茜はエプロンを外して近くの椅子にかけると、ぱたぱたと廊下を走っていった。
 かなり我慢していたのかもしれない。早く言ってくれればいいのにと思うが、茜はどうやらトイレに行きたいと言い出すのが苦手なようだ。
 夏癸の家に来ているときにも、葵に促されてトイレに向かう姿をたびたび目にしている。もっと気兼ねなく過ごしてほしいのだが、女の子なのもあって気恥ずかしいのかもしれない。
 夏癸も幼少期に大人たちばかりの集まりに参加させられていたときには、なかなかトイレを申告できなかった覚えがある。話の途中で口を挟んではいけないと思っていたのかもしれない。そういえば、我慢をしているときにはいつも片桐がさりげなく理由をつけて席を外させてくれていた気がする。そのおかげなのか、物心がついてから粗相をしたような記憶は残っていない。
 鍋の様子を見つつ、そんなことをつらつらと思い出していると、ふいに茜が廊下の向こうからそっと顔を覗かせた。
 
「夏癸おにいちゃん……」
「ん?」
「あ、あの、あのね……」
 
 茜はもごもごと口を動かしたかと思うと、そのまま黙り込んでしまった。火を止めて、彼女に歩み寄る。
 もしかして間に合わなかったのだろうかと思ったが、身につけているスカートが汚れているようには見えない。
 
「茜ちゃん? なにか困っているなら、教えてくれないとわかりませんよ」
 
 しゃがんで視線を合わせ、優しく問いかける。茜はしばらく躊躇う様子を見せたが、やがてそっと口を開いた。目が少し潤んでいる。
 
「あ、あのね……おトイレの床、ちょっとだけ、汚しちゃって……ごめんなさい」
「そうだったんですね。掃除すればいいだけですから、心配しなくて大丈夫ですよ。ちゃんと教えてくれてありがとうございます。服とかは汚れていませんか?」
「…………ちょっとだけ、濡らしちゃった」
 
 わずかな沈黙の末に小さく呟いた茜の顔は耳まで真っ赤になっていた。
 主語は省かれているが、察するに下着を濡らしてしまったようだ。
 
「着替えておいで。いまから洗えば、夜には乾きますから。葵さんにはバレませんよ」
「おかあさんに、ないしょにしてくれる……?」
「ええ、約束します」
 
 頷くと、茜はほっとしたように表情を緩ませた。
 
 ***
 
 せっかくなので、着替えのついでに先に茜を風呂に入らせてしまった。今日は葵の帰りが夜遅くなりそうだからと、そのまま二人とも夏癸の家に泊まることになっている。着替えなどの泊まり荷物は昨日のうちに持ってきていて、茜は学校帰りに直接夏癸の家に来ていた。
 汚してしまったというトイレの床はペーパーで拭いたらしく、ほんの少しだけ湿っている程度だった。手早く掃除を済ませる。下着の洗濯も、洗濯機に任せれば乾燥までしてくれるので問題ないだろう。
 
 途中で火を止めてしまったシチューの仕上がりが少し心配ではあったが、きちんと煮込み直して味も調えたので美味しくできあがった。
 風呂上がりですでにパジャマ姿の茜と、予定より少しだけ遅くなってしまった夕食を済ませる。
「トイレに行きたいときは俺になにも言わずに行って大丈夫ですよ」と茜に伝えたので、夕方のちょっとした「失敗」のあとはリラックスして過ごせているようだった。
 夕食のあとは宿題を見てやり、二十一時には客間に敷いた布団に寝かせた。親の目がなくともいつも通りの時間にきちんと布団に入る茜は歳のわりにしっかりしていると思う。
 ――暮らし始めた当初は使いもしなかった客間の押入れには、いまでは客用の布団が二組入っていた。
 
 
 葵が帰ってきたのは日付が変わってからだった。時間が時間なのでタクシーでも使ったのかと思いきや、どうやら駅から歩いてきたようだった。最寄り駅から夏癸の住む家までは歩いて十五分ほどかかる。
 
「いま何時だと思っているんですか!?」
 
 茜を起こさないように配慮しつつ、夏癸は玄関で小さく声を怒らせた。せめて連絡をもらえれば駅まで迎えに行ったというのに。
 
「べつになにもなかったからいいじゃないー」
 
 葵はつんと唇を尖らせて視線を逸らした。日頃はほとんどアルコールを口にしない彼女だが、今日は随分と飲んできたみたいだ。顔が赤く、ひどく酔っているようだった。
 
「ねーもう夏癸くん聞いて!?」
 
 ひとまず居間で座らせ水を出したが、葵はグラスに口をつけることなく喋り始めた。
 
「再婚したらとかうるさいっつーの!! 人の家庭に口出さないでほしい!!」
「なーにがそのほうが子どものためよ!? あたしが愛した人は隆文さんだけなの!! 他の人と結婚する気なんかないに決まってるでしょ!!」
「あーもうやだ最悪!! 余計にストレス溜まった!! やっぱり飲み会とか行かないほうがよかった……」
 
 一方的にまくし立てる葵に口を挟むことはできず、夏癸はちら、と襖に視線を向けた。声を張り上げているわけではないが茜が起きてこないか心配だ。こんなに酔っ払った母親の姿を見せたくはない。
 そもそも彼女が酔うとこんな様子になるとは思いも寄らなかった。
 葵はふいに黙ると、座卓に肘をついて顔を伏せた。小さな呟きが唇から漏れる。
 
「ねぇ、今日の晩ご飯、なに作ったの……?」
「シチューですよ。茜ちゃんもたくさん手伝ってくれました」
「いいなぁ……あたしも食べたかった……飲み直してないで早く帰ってくればよかった」
 
 葵は本気で羨む口調で呟いた。どうやら飲み会で相当嫌な思いをしたらしく、二次会には行かずに一人で飲み直してきたらしい。
 
「葵さんの分も取っておいてありますから。とりあえず水飲んでください」
「……ね、夏癸くんって、どうして彼女とか作らないの?」
 
 伏せていた顔を僅かに上げ、葵は熱の篭った視線を向けてきた。
 
「……いきなりなんですか?」
「だって、どうして、こんなに優しくしてくれるの?」
 
 囁くように、潤んだ声が訊ねる。
 夏癸は応えることができずに押し黙った。――どうして、なのだろうか。
 彼に居場所と仕事をくれた、そのお返しをしたいから。
 存命中の隆文から言外に、二人のことを気にかけてほしいと頼まれたから。
 理由ならいくらでも挙げられる。けれど、彼女がいま訊ねているのはそういったことではないのだろう。
 ――日向夏癸は、椎名葵に対して一体どのような感情を抱いているのか。
 
 その感情にはずっと気付かないふりをしてきた。葵のことも、茜のことも大切にしたい。血の繋がった家族にはなれないけれど、せめて一番近しい存在としてできるだけ力になりたい。一方的に欲望をぶつけるようなことだけはしたくない。葵がいつまでも隆文のことを想っていることはよく理解している。
 ――自分の気持ちを自覚したら、きっと、いままでと全く同じように葵と接することはできなくなる。
 だから、質問に答えることはできなかった。この気持ちには名前をつけずに、蓋をしておくことしかできない。
 
「…………葵さん?」
 
 いつの間にか俯きがちになっていた視線をそっと上げる。躊躇いがちに声をかけると、葵は座卓に頬をつけて寝息を立てていた。
 ――人の気も知らずに、と頭を抱えたくなる。
 潰れた葵をどうするべきかひとしきり悩んだ末に、客間で静かに寝息を立てている茜の隣に布団を敷いて運び込んだ。自分の理性と自制心を誰かに褒めてほしいと思った。
 ちなみに翌朝の葵は昨夜のの言動を何ひとつ覚えてなく、ひどい二日酔いにただ苦しんでいた。

 ***
 
 作家としての仕事は順調だった。新作を出すたびに初版部数が増え、既刊の版が重なり、メディア化の話も次々と舞い込んできた。
 金の使い道はあまりなかったので、預金の数字は増えていくばかりだった。確定申告や税金関係などは、収入が大幅に増え始めてからは先輩作家に紹介してもらった税理士事務所に任せていた。
 大学卒業と同時に父親から家を買い取った。学生時代に支払ってもらっていた学費や固定資産税や何やらの分も全部返した。それを払えるだけの収入も今後払える収入の目処と貯金もあった。資産運用もしている。もしも小説で食べていけなくなったときには他の仕事を探してみせる。
 本当は大学を卒業したら今度こそ自分で部屋を探すつもりでいたが、茜や葵とともに過ごした思い出のある家に愛着が湧いてしまった。それにいまのまま彼女たちの近くに住んでいたい。現在近隣の賃貸に空き部屋はなかった。
 父親との交渉はなぜかあまり苦戦しなかった。手続きを全て済ませたあと、もう実家にはよほどのことがない限り足を踏み入れないと決めた。――二度と、父親と顔を合わせるつもりはなかった。
 

「もしも私になにかあったら、こののことお願いね」

 ――ある日、葵から言われたその言葉を受け入れはしたが、そんな日が永遠に訪れないことを願っていた。
 悪夢のような日が実際に訪れてしまったのは、茜が十歳の誕生日を迎えたばかりの五月下旬のことだった。
 四月に新しい勤務先の高校へ異動になったばかりの葵は連日帰りが遅く、プレゼントも用意できなければ当日も急な生徒指導が入ったとかで夕食に間に合わなかった。夕食は夏癸と二人で食べたが、お母さんが帰ってこないならいい、とケーキだけは食べず、翌朝謝り倒す葵とともに朝食代わりにしていた。
 二日後の土曜日に誕生日プレゼントを買いに行こうとそのとき約束していて、聞き分けのいい茜は不満を口にすることもなく受け入れていた。
 
 夏癸の携帯に着信が入ったのは土曜日の昼下がり。覚えのない番号に訝しみつつも気にかかったので出てみると、聞こえてきたのは泣きじゃくる茜の声だった。
 尋常ではない様子に困惑していると、電話口から聞こえる声が代わった。
 葵が交通事故に遭い、意識不明の重体であるということ。
 病院の職員から告げられた言葉を聞き、全身から血の気が引くのを感じた。震えそうな手で病院名のメモだけを取り、財布を掴んで家を飛び出した。車で向かおうとしたが自分自身が冷静な状態ではないと判断し、急いでタクシーを呼んだ。
 けれど、夏癸が病院に駆け付けたとき、すでに葵は息を引き取っていた。
 現実を受け止めきれなかった。それでも、一人残された茜のことを考えると、ただ落ち込んでいる暇はなかった。――この子だけは、絶対に守ってみせる。そう、心に決めていた。

 ***

「…………」
 
 ぼんやりと目が覚めた。随分と長い夢を見ていたような気がする。夢の内容は、目覚めた瞬間に霧散してしまったのだけれど。
 夏癸は枕元に置いてあるスマートフォンを手に取って時間を確認した。今日は早起きする必要がないのでアラームを切っていたのだが、画面に表示されている時刻は普段の起床時刻と同じだった。自然と目が覚めてしまったようだ。
 二度寝をするか少しだけ悩み、結局そのまま起きることに決める。
 眼鏡をかけ、視界が明瞭になってから夏癸はゆっくりと布団から起き上がった。
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