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34.彼の追憶⑥

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「夏癸、頼みがあるんだ」
 
 書きかけの原稿をプリントアウトして病室を訪れた時のことだった。
 手元の紙の束から顔を上げて、隆文はベッドの傍らに座る夏癸に穏やかな表情を向けた。膝の上で広げていたノートパソコンの画面から目を離し、彼の視線をしっかり受け止める。
 ――いま書いている小説が出版されるまで、彼が生きていられるかどうかはわからない。せめて書けたところまででいいから読ませてほしいという希望を汲み取り、現在の担当編集である篠原の許可も取って、数日に一度、執筆した原稿を持って彼のもとへ通っていた。
 
 物語の進行はまだ半分程度。実際の締め切りまではまだまだ時間があるが、少しでも早く完成に近づけて隆文に読んでもらいたい。彼はいつも読み終えたところまでの感想を話すのも楽しみにしていたので、原稿に目を通してもらっている間に少しでも書き進めようとキーボードを叩いていた。
 だが、頼みがあると真剣な声で言われては、手を止めるしかない。おそるおそる、声が震えないように気を付けて問い返す。
 
「……なんですか?」
「これ。料理のレシピとかまとめてあるんだ。本当に時々でいいから、よかったら葵と茜に作ってあげてほしい。……葵は、多分、上手く作れなくて落ち込んじゃうだろうからさ」
 
 隆文が差し出したのは一冊のノートだった。軽く中を見ると、切り抜きを貼ったものや手書きで書いたもの、多くの料理のレシピが載っている。随分と使い込んだノートに見えるので、以前から使っていたものなのだろう。
 隆文の料理は本当に美味しくて夏癸も好きだった。煮込みハンバーグや卵焼きなどいくつかの料理は作り方を教わったことがあるが、こうしてレシピとして渡されるのは初めてだった。――もう、彼の手で作られた料理は食べられないのだと、今更ながらはっきりと実感する。
 
「甘やかしてないで、もっとちゃんと料理を教えてあげるべきだったかなぁ……」
 
 静かに呟く隆文の声には後悔が滲んでいた。
 自分がいなくなったあとの妻と娘の生活を心配している。何よりも大切な存在なのだから当然だろう。夏癸は彼らの家族ではないけれど、自分にこのノートを託してくれた隆文の気持ちには報いたかった。
 
「ごめんな。本当は高校生のお前にこんなこと頼むべきじゃないんだろうけど」
「いいえ。俺なんかでよければ、なんでもやります。料理でも、なんでも」
「ありがとう。……お願いするよ」

 目を細めた隆文に、夏癸はしっかりと頷きを返した。

 ***

 大学に入学して間もない頃のことだ。椎名家のアパートを訪れ夕飯をともにした。メインの料理は唐揚げ。記憶に残っている隆文の唐揚げと全く同じ味に作れるようになるまで一人で何度か練習したが、その甲斐あってか二人からは好評だった。
 
「あれ、夏癸くん、ピアス開けたの?」
 
 夕食後に食器を洗っていると、隣に立って食器を拭いていた葵が、左耳にひとつだけ開けたピアスに目敏く気付いた。
 
「はい。……だめですか?」
「だめじゃないわよー、もう高校生じゃないんだし」
 
 からからと笑う葵の耳には、結婚記念日に隆文から貰ったというダイヤのピアスが小さく煌めいていた。
 

「誕生日おめでとう」
 
 十九歳の誕生日に、葵からシルバーピアスをプレゼントされた。事前に誕生日に何が欲しいかと訊ねられたときに、何もいらないと答えたのにもかかわらず、だ。
 夏癸が望んだことはただ葵と茜と一緒に夕食を食べることだけだった。もちろん献立を考えたのも作ったのも彼自身だけれど。
 スペアリブにスパニッシュオムレツ、マグロとアボカドのカルパッチョ風と単純にそのとき食べたかったものと作ってみたかったものを用意しただけだが、二人とも美味しいと言って食べてくれたのでそれだけで満足だった。
 ちなみにケーキはスポンジケーキよりタルトを食べたい気分だったのでフルーツタルトを買ってきた。可愛らしい見た目に茜が喜んでくれたので何よりだ。
 
「そんな、プレゼントなんてべつに……」
「だって、いつもご飯作ってもらってばかりで悪いんだもの。お礼よ、お礼」
「材料費はもらっているし構いませんよ。一人分だけ作るより作り甲斐ありますし」
「いいの! 返品は受け付けませんよー、だ。気に入らなかったら使わなくてもいいけど」
 
 葵はふて腐れたような声で言うが、シンプルなデザインは彼の好みに合っていた。
 
「大事に使います。……このブランド結構しますよね?」
「あっこら、そういうこと気にしないの! 大学生に心配されるほど金遣い荒くはないんだからっ」
 
 単純に家計への負担を心配しただけなのだが、子どものように拗ねる葵の様子に思わず笑みが零れる。ちなみに茜からは押し花を使った手作りの栞を貰った。それは何の心配もせず素直に受け取ることができた上、自分のために丁寧に作ってくれたことが何より嬉しかった。
 
 
 二十歳の誕生日も二人と一緒に過ごした。実家に顔を出すようなことは当然しない。
 節目の誕生日くらいは準備も片付けもせずに盛大に祝わせてほしいという葵の言葉に甘えて、アパートにお邪魔して出前の寿司をご馳走になった。ケーキの希望も事前に聞かれたのでモンブランをリクエストしたところ、有名店のものを取り寄せてくれていた。どちらも文句のつけようがない味だった。
 流石に全てを奢ってもらうわけにはいかないので自分の分は払わせてほしいと頼んだが、葵は頑としてお金を受け取ろうとはしなかった。仕方がないので、今度葵たちの誕生日を祝うときには豪勢な料理を用意しようと心の内で決める。
 平日な上に葵も定時退勤は難しかったようで、ケーキまで食べ終えると二十時近くになっていた。葵は茜に早くお風呂に入って寝る支度をするようにと促した。夏癸もお暇しようとしたところで、誕生日プレゼントにと彼女が取り出したのは白ワインのボトルだった。
 
「このワイン、隆文さんが好きだったの。せっかくだから一杯だけ、飲んでいかない?」
 
 嬉しそうに言う彼女の顔を見たら断ることはできなかった。葵はいそいそとワイングラスを二つ持ってくると、まずは夏癸の分にゆっくりと注いでくれた。静かに乾杯をしてから、そっとグラスに口をつける。
 ワインどころかアルコールを口にするのは初めてだったが、口当たりがよく飲みやすかった。
 
「夏癸くんとお酒飲める日がこんなに早く来るなんてね。時間が経つのってあっという間ね……」
 
 どこか寂しそうに呟く葵に、小さく頷きを返す。
 隆文が亡くなってからはまだ二年と経っていない。表面上は明るく振る舞っていても、彼女はまだ悲しみの中にいるのかもしれない。
 あのときは高校生だった夏癸も年齢だけは一応大人になった。――少しくらいは、葵に頼ってもらえるような人間になれているだろうか。
 そうであってほしいと願いながら、夏癸は再びグラスに口をつけた。
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