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31.彼の追憶③

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 夏癸が一人暮らしを始めて数週間が経過した。
 初めての家事に苦戦はしたが、すべてを自分の手でやることは新鮮だった。いくつか失敗もしたが、子どもの頃は何についても失敗は絶対に許されないと思っていたから、自分が困るだけで済む程度の失敗はむしろ楽しささえ感じた。
 
 大変だったのは食事の用意だ。片桐に料理の基本は教えてもらったとはいえ、まだ上手とは言えない上に作れるものもとても少ない。一日三食自分で作るのは想像していた以上に手間だった。
 好奇心でコンビニ弁当やカップ麺、レトルト食品、冷凍食品にスーパーの惣菜品、ファミレスやファーストフードにも手を出してみたが、どれも愕然とするほど口に合わなかった。なかにはかろうじて完食できるものもあったが、非常時ならともかく毎日食べるとなると到底無理だ。日頃いかに良いものを食べていたのか実感させられた。
 多少値が張る惣菜品や外食ならそれなりに美味しいと感じられるものもあったが、ひと月の仕送りの額は決められているので食費にばかり割くわけにはいかない。結局、自炊を極めるという選択肢を取るしかなかった。
 
 献立の立て方や食材の選び方、節約する買い物のコツは片桐から教わった。けれど、いざ一人で実践するとなかなか難しい。何せいままでスーパーに足を踏み入れたことすらなかったのだ。
 調理自体も最初は手際が悪く時間がかかりすぎた挙げ句に、焦げたり生焼けだったり味付けが上手くいかなかったりもした。これではレトルトや冷凍食品のほうがまだ食べられる味なのではないかと思うこともあったが、ここで外食などに逃げるのも悔しい。
 何より、それで万が一生活費が足りなくなって父に無心する羽目になることだけは絶対に避けたかった。
 慣れないうちはとにかく、料理本のレシピに忠実に作るしかないと学んだ。食材や調味料の分量は正確に、切り方や火加減もいい加減にしない。思った通りの味に仕上がったときは嬉しかった。次第に慣れてくると手際も良くなり、何度か作ったものはレシピを見ずに作れるようになった。アレンジや時短も覚えて料理は楽しく思えるようになってきた。
 
 一方、新しい高校生活にはなかなか慣れなかった。環境が変われば何かが変わるかと思ったが、十五年間で培われた性格や考え方はそう簡単には変わらない。
 名門私立の一貫校から公立高校に入学してきた夏癸の存在は相当珍しいようで、興味をもたれて質問責めにも遭ったが、詳しい事情を話す気にもなれず適当にかわしていたらあまり人が寄りつかなくなった。
 子どもの頃は向こうから友達になりたいと言ってくる人ばかりが周りにいたので、今更友達の作り方などわからない。そもそもこれまで全く異なる生活環境にいた新しい同級生たちとは話が合わず、友人になりたいとも思えなかった。近くの席の人と時々言葉を交わすことはあったが、夏癸はなんとなく孤立していた。
 
*** 
 
 四月も終わりかけの日曜日。日用品の買い出しついでに駅前の書店を覗いた。発売されたばかりの好きな作家の新刊を見かけて手に取り、レジに向かおうとしたときだった。
 
「……日向くん?」
 
 ふと声をかけてきたのは、クラスの副担任を務めている女性教師だった。現代文担当で、真っ直ぐな長い黒髪と柔和な微笑みを浮かべて自己紹介をしていた姿が印象に残っている。小説を読むことが好きだと話していた。――名前は確か、椎名葵。
 突然声をかけられて驚きと微かな不快感を覚えたものの、顔には出さずに小さく会釈した。プライベートで学校の関係者にはあまり会いたくない。すぐに立ち去りたかったが、葵はにこにこと笑みを浮かべながら話し出した。
 
「この辺に住んでるの? 確か一人暮らしなんだっけ」
「……はい」
「私もね、この近くに住んでるの。ご飯とか自分で作ってるの?」
「……はい」
「偉いわねぇ。あ、それ、しば遼一りょういち先生の新刊!? 小説とか好きなの!?」
「……ええ、まあ」
 
 煩わしく思いながらも頷いた瞬間、葵の目が輝いた、ような気がした。
 
「ね、ね、だったら文芸部に入らない? 文芸部! 興味ない?」
「はい?」
 
 突然、何を言い出すのかと思った。勢いに気圧されながらも首を傾げる。
 
「……文芸部?」
「そう! 私ね、やっと念願の文芸部顧問になれたんだけど、新入部員が全然来てくれなくて困っているの! 日向くん、よかったら入らない?」
 
 知るか、そんなこと。そう思いつつも態度には出さない。下手に教師と揉め事は起こしたくはない。
 
「部活とか、あまり興味がないので……」
「そうなの? 文芸部楽しいわよ。べつに毎日来なくても大丈夫だし、部室で本読んでるだけでも」
「あの、すみません。このあと用事があるので失礼します」
「あ、そうよね。引き留めてごめんね。部活のこと、よかったら考えておいてね」
 
 放っておいたらいつまでも部活への勧誘を続けそうな葵の言葉を無理矢理遮り、夏癸はその場から足早に離れた。レジに足を向けながらちら、と後ろを省みると、相変わらずにこにこと笑みを浮かべた葵が小さく手を振っていた。
 
(公立の学校って変な先生がいるんだな……)
 
 そんなことを考えながらも、その出来事はすぐに頭の片隅に追いやった――はずだった。
 
 
「お願い! 文芸部に入って!」
 
 翌日から、学校で葵と顔を合わせるたびにしつこく文芸部に誘われた。他の生徒には執拗に勧誘している様子はなく、なぜか夏癸だけが付き纏われている。
 
「先生からの一生のお願い! このままだと廃部になっちゃうかもしれないの! だから文芸部入って!」
「知りませんよそんなこと! 俺は部活とか入りたくないんです、他の人誘ってください!」
 
 そもそも部活の勧誘など生徒がやることで、顧問が口を出すことではないんじゃないかと疑問を持ちながら、夏癸は彼女から逃げ回っていた。
 
「日向くん! 菱川出版の本で読みたいものはない!? 雑誌でもなんでもいいわよ!」
「え……?」
 
 ある日、葵はまた突拍子もないことを言い出した。夏癸は僅かな逡巡ののち思わず要望を口にしてしまった。
 
「じゃあ、『小説イブキ十三号』で……」
「オッケー、任せて!」
 
 得意げに笑みを浮かべる葵を胡乱げに見つめていたが、翌日の放課後、ホームルームのあとに彼女に呼び止められた。空き教室に連れて行かれ、やや警戒していたところに件の雑誌を見せられて、流石の夏癸も目を丸くした。数年前に廃刊になった雑誌のバックナンバーだというのに。
 
「どうしたんですかこれ!? 古本屋にも、ネットで探してもなくて……」
「はははー、どうだすごいだろー! 読みたい? 読みたいわよね? 文芸部に入ってくれるならなんとタダであげちゃうわよ!」
「……わかりました。入ればいいんでしょう」
 
 その雑誌には好きな作家の単行本未収録の短編が掲載されている。教師の行いとしてどうなのかと疑問を持ったが、活字の欲求には抗えず、夏癸は渋々頷いた。
 本に釣られる形で入部した文芸部に一年生の部員は他におらず、三年生の男女二人、二年生の女子二人に夏癸が加わり、部員は計五人となった。
 年一回文化祭で部誌を発行する以外、日々の活動内容は自由。何とも緩い部活だった。夏癸は週に一、二回、気が向いたときに部室に足を運んでは図書室で借りた本を読んだり宿題を済ませたりしていた。文芸部らしい活動は何もしなかったが、とくに咎められることはなかった。
 葵は時折部室に顔を出してはお勧めの本を紹介したり、小説を書いているらしい女生徒に文章のアドバイスをしていたりした。ときには教師らしく現代文の質問にも答えている。――それは部活中にすることなのだろうかと疑問に思ったが、口にはしなかった。
 
 葵は生徒たちに懐かれていた。夏癸にも気さくに話しかけてくるが、教師と親交を深める気はないので適当にあしらっていた。
 最初の自己紹介以外、夏癸に話しかけてくる生徒はいなかった。おとなしい女子の比率が高い部室で、不愛想な新入生男子の存在は異質だったのだろう。それまで楽しそうにお喋りする声が聞こえていたのに、夏癸が顔を出すと途端に声を潜める場面も何度かあった。
 なんとなく怖がられているのは察していた。夏癸自身はとくに気にしていなかったが、孤立している彼を見兼ねたのか、あるいは先輩としての気遣いか、入部して三週間ほど経った頃に部長を務めている三年生の男子――槙原まきはらさとるが話しかけてきた。
 温厚な彼は人が好く、好きな作家も被っていたので話してみると意外に楽しかった。誰かと好きな本の話をするのは初めてだった。
 
 部長と交流を深めていると、他の女子生徒も少しずつ話しかけてくるようになった。夏癸の家柄や容姿に対する興味ではなく、純粋に本や小説が好きで話しかけてくる彼女たちと会話をするのは悪いものではなかった。部活に馴染むとクラスの同級生ともなんとなく以前よりは話せるようになってきた。頻繁に声をかけてくる葵のことも、煩わしく感じることは少なくなってきていた。
 
 ***

 文芸部に顔を出す頻度は増え、高校生活は思っていた以上に楽しくなっていた。家族と連絡を取ることはほとんどなかったが、片桐とは月に何度か連絡を取っていた。
 高校生ともなれば授業参観に親が来ないことも珍しくなく、夏癸も日程を知らせはしなかったが、どこからか聞きつけたのか参観許可を乞われ渋々と承諾した。三者面談にもいままでと同じように彼が来てくれた。現在の彼の職務は父・譲の秘書らしいが、夏癸の世話係という名目も続いているようだ。
 
 文芸部員とはそれなりに仲良くなったが、夏癸が家で小説のようなものを書いていることだけは誰にも言わなかったし言うつもりもなかった。
 夏癸にとって物語を書くという行為は日記を書くのと同じようなものだったから、誰かに読ませたいという気持ちはなかったのだ。
 夏休みを迎え、義母にどうしても顔が見たいと乞われ、父親からも命じられるように呼び出され渋々とお盆の数日間だけ実家に帰った。だが、やはり居心地の良いものではなかった。
 それ以外はずっと家の中で過ごしていた。誰と遊ぶわけでもないが、課題を済ませ、一人で家事をこなし、作ったことのない料理に挑戦してみたり、本を読んだり、物語を書いたりする生活はいままでの夏休みで一番充実していた。
 
 夏も終わり、十月上旬に行われる文化祭にはほぼ参加しないつもりでいたのだが、葵に半ば脅されるようにして部誌用にと短い小説を書いた。人に読ませるために書いたのは初めてだった。
 掲載前には内容に問題がないか顧問が確認するということだったので葵に提出したが、原稿を読んだ彼女は目の色を変えた。
 
「日向くん、明日、うちで夕飯食べない?」
「なんなんですか、突然……」
「いいからいいから! 毎日自分でご飯用意するの大変でしょ? うちの旦那の料理おいしいし、ね、一生のお願いだから!」
「……わかりました」
 
 理由はわからないが強引な彼女の誘いを断るのも面倒になり、仕方なく頷いた。
 翌日、学校帰りに最寄り駅で待ち合わせて彼女に連れて行かれたのは、自宅から数分の距離にあるアパートだった。まさかこんなに近所に住んでいるとは思わなかった。
 
「ただいまぁ」
「お邪魔します……」
 
 親戚付き合い以外で知り合いの家を訪れることなど初めてだ。狭く短い廊下を通ってドアを開けると、香ばしい肉汁の香りが鼻先をくすぐった。
 室内を見て夏癸は一瞬目を丸くした。リビングダイニングキッチンがひとつの空間にあるという部屋の存在は知ってはいたが、この目で見たのは初めてだ。一部屋が夏癸の住んでいる家の居間や実家の自室よりも狭い。
 手狭なキッチンスペースに立って調理している男性が二人に穏やかな笑みを向けた。
 
「おかえり。日向くんだっけ、いらっしゃい。椎名隆文です」
「初めまして、日向夏癸です。お邪魔、します」
「もう少しかかるから、散らかってるけどゆっくりしてて」
「はい……」
「ママ、おかえりなさいっ」
 
 夏癸が所在なさげに立ち尽くしていると、突然小さな女の子が隣に立つ葵の脚に抱き着いてきた。娘だろうか。夏癸は驚いて呆然としたが、葵はとくに動じることなく相好を崩し、しゃがんで視線を合わせながら女の子の頭を撫でた。
 
「ただいま、茜。いい子にしてた?」
「うんっ。きょうね、パパがおむかえきて、おかいものいったよ! ……おにいちゃん、だあれ?」
 
 夏癸の存在に気付いた女の子が、耳の上でふたつに結んだ髪を揺らして視線を向けてくる。たじろぐ夏癸をよそに、にこにこと笑みを浮かべながら葵が応えた。
 
「ママの学校の生徒さん。茜、ご挨拶できる?」
「はじめまして、あかね、ですっ」
 
 葵の脚にしがみつき、恥ずかしそうに隠れるようにしながらも茜はしっかりと挨拶をしてくれた。自分も名乗るべきだろうとは思いながらも、葵のようにしゃがんで視線を合わせるべきかそのままでいるか僅かに悩み、結局中途半端に腰を折り視線を下げて口を開いた。
 
「日向夏癸です。……初めまして」
「夏癸お兄ちゃんって呼んでね」
「ちょっと、なに勝手に」
「なつきおにいちゃん?」
「……はい」
 
 つぶらな瞳で見つめられ、否定する気持ちが思わず失せる。
 
「日向くん、座って座って。麦茶でいい?」
「ああ、はい……」
 
 促されるまま移動し、ラグを敷いたローテーブルの前に腰を下ろした。すぐ隣に茜もちょこんと座る。テーブルの上にはカラフルに色を塗ったぬり絵とクレヨンが広がっていた。
 
「着替えてくるからちょっとだけ茜のこと見ててね」
「えっ、ちょっと、」
 
 麦茶の入ったグラスを目の前に置き、こともなげに言ってくる葵に文句を言う間もなく、隣の和室へ消えてしまった。子どもの相手の仕方などわからない。思わず渋面になり、出された麦茶をすする。ちら、と隣を見ると茜はクレヨンを握ってぬり絵の続きをしていた。
 べつに会話をする必要はないのだろうかと考えていると、突然、茜はくるりとこちらに顔を向けた。
 
「なつきおにいちゃんは、なにしにきたのー?」
「ええと、晩ご飯に誘われて」
「ごはん、いっしょにたべるの?」
「はい……」
「パパのごはん、おいしいよっ。きょうね、ハンバーグだって!」
「そう、なんですか」
 
 会話の仕方がわからず幼児相手だというのになぜか敬語になってしまう。しかし茜は気にした様子もなくにこにこと楽しそうにしていた。最初は緊張しているように見えたが、あまり人見知りしない子なのだろうか。夏癸はというと他人の家を訪れて子どもと喋っているという経験したことのない場面に内心緊張しっ放しでいた。
 だが、戸惑いはするものの、茜のことはかわいいと思えた。女の子だからだろうか。自分の弟に対しては、少しもかわいいなどと思ったことはなかったのに。
 
「あら、さっそく仲良くなった?」
 
 いつの間にか、ラフなシャツとパンツに着替えた葵が襖から顔を出していた。助けを求めるように彼女に顔を向け、首を横に振る。
 
「いえ、子どもの相手なんて、わからなくて」
「そんなに気構えなくても大丈夫よ。どう、うちの、かわいいでしょ」
「……そうですね。いくつですか?」
「みっつー」
 
 葵に訊いたつもりだったのだが、答えたのは茜だった。指を三本立てている姿がかわいらしくて、思わず、少しだけ頬が緩んだ。
 
「さ、ご飯できたよ。みんな手洗っておいで」
 
 台拭きで食卓を拭きながら隆文が声をかけた。気が付けば食欲をそそる匂いが部屋に漂っている。
 
「はーい。洗面所、廊下出て右のドアね。茜は先にお片付けしようねー」
「はぁい」
 
 茜は素直に母の言うことを聞き、散らかったテーブルの上を片付け始めた。手を洗って戻り、促されるまま食卓につく。煮込みハンバーグ、マカロニサラダ、具だくさんの味噌汁に白いご飯。ごく普通の家庭料理が並べられた食卓はなんだか新鮮に感じた。
 全員が食卓につき、いただきますと手を合わせた。夏癸も一瞬遅れて手を合わせる。ここ数カ月はずっと一人で食事をしていたから、手を合わせることなんて久しくしていなかった。
 ハンバーグをひとくち口に入れると、トマトベースのソースと肉汁の旨味が口の中に広がった。ハンバーグもサラダも味噌汁も、凝った料理とは違い、素朴な家庭料理といった味がする。けれど、いままでに食べたどんな高級な料理よりも、あたたかくて、おいしく感じられた。
 
「どうかな。口に合えばいいんだけど」
「おいしいです」
 
 どこか不安そうに訊ねてくる隆文に、社交辞令ではなく答える。
 
「それならよかった。おかわりあるから、遠慮しないでたくさん食べな」
 
 穏やかに口元を緩ませる隆文の表情に、なぜだか胸の奥が温かくなる。こんな風に和やかな雰囲気で誰かと食事をするのは生まれて初めてだった。
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