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30.彼の追憶②

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 夏癸が十歳の誕生日を迎えてからしばらく経った秋の始めに、母親が死んだ。突然だった。――悲しくはなかった。
 病室で弱々しく痩せ細っていく母の姿を見るたび、遠からずこんな日が来るだろうと予想していたから。
 葬儀は慌ただしく過ぎ、家の中の沈鬱とした空気が薄れる頃には夏癸の日常は何も変わらず戻ってきた。
 
 昼間は学校へ行き、放課後は家庭教師や習い事、ときにはパーティーや親族の集まりに連れて行かれ、周囲の人間の期待に応えるような振る舞いをする。自分の感情は表に見せず、誰にも心を開くことはない。
 母がいなくなり、もしかしたら父が自分を見てくれるのではないかと、ほんの少しだけ淡い期待を抱いた。だが期待は外れ、父は以前にも増して仕事に打ち込むようになっていた。
 夏癸の心を癒してくれるのは本の世界だけ。色彩鮮やかな物語の世界に触れることだけを生き甲斐に、灰色の現実を日々生きていた。
 
 ――ある日、自分でも書いてみよう、と思ったのは突然だった。
 寝る前に読み終えた本の結末に納得がいかなかった。ラストシーンに至るまでの展開は面白かったが、最後に主人公が選んだ選択がどうしても腑に落ちなくて、ベッドに入ってからも眠れず悶々としていた。
 真っ暗な部屋の中で眠れない時間を過ごすうちに、ふと、だったら自分で書けばいいという考えが思い浮かんだ。その思いつきはとても魅力的に思えた。夏癸はベッドを飛び出し、デスクライトだけを点けて勉強机に向かった。真新しいノートを開いてシャープペンシルを握る。
 
 物語の主人公は正義感が強いが無鉄砲で、いつも無茶ばかりしていた。彼の傍には幼い頃からともに育った親友がいて、理知的な彼は主人公とは正反対でいつも冷静に物事を判断しては、その知恵で主人公を助けていた。二人は困った人を放っておけない性分で、小さな町でいつも人助けをしていた。
 物語は、町で迷子になっていた少女に道案内をするところから始まる。目的地に辿り着く途中で怪しい男たちに襲われた少女を助けるため、二人の少年は力を合わせてその場を切り抜け、少女を町から連れ出した。
 命を狙われている少女を守るために勢いで行った人助けは、やがて世界の運命を巻き込む大冒険に発展した。主人公は最後に親友の命と引き換えに世界を救った。世界の窮地は救われたが、大切な友を失った主人公の心には空虚さが残るという結末だ。
 
 親友を犠牲にした彼の選択が許せなかった。なにか、きっと他の方法があったはずだ。
 夏癸には友達もいなければ大冒険をすることもできない。現実が苦しく理不尽なのだから、せめて物語の世界には希望と救いが欲しかった。理由などなんでもいい。夏癸は世界も親友も救う物語を考え、ノートに書き連ねた。
 思いついた言葉を、文章を、紙の上に綴っていく。拙くても構わない。作文や小論文と違って誰に読まれることもない。評価を受ける必要のない文章を書くという行為は初めてで、楽しかった。
 
 夢中になって小説を書いているうちに、いつの間にか机に突っ伏して眠ってしまっていた。頬には文字が擦れて薄く跡がついていた。鏡に映る、頬がうっすらと黒くなっている自分の顔が可笑しくて、ちょっとだけ笑った。なにかが可笑しくて笑うなんて生まれて初めての経験だったかもしれない。
 目が覚めてから読み返した自分で書いた物語は、原作の小説には遠く及ばない出来で我ながら酷いものだと思った。それでも書いている間は確かに楽しかった。
 それから、夏癸は読むだけではなく書くことの楽しさにも目覚めた。ノートの上では何にでもなれて、何をするのも自由だった。出版されている小説のように誰かに読ませることを意識する必要もない。そもそも小説と呼べる代物でもなかったかもしれない。
 夏癸はただ自分のために、言葉を綴っていた。
 
 ***
 
  母のかえでが亡くなった翌年の冬に、父親が再婚した。信じられなかった。父のことなど嫌っていたはずなのに、なぜだか裏切られたような気持ちを抱いた。
 相手は外資系企業の社長令嬢で、会社の利益のための結婚であることは明白だった。周囲の反対を押し切ってまで結婚するほど母のことを愛していたのではなかったのか。死に別れたらあっさり他の女と再婚できる程度のものだったのか。父に対する不信感と猜疑心は膨れ上がるばかりだった。
 
 年若い義母――愛梨あいりは優しく接してきたが、夏癸はそれを拒絶した。必要最低限の会話はしたが、それ以上の関わりを持ちたくはなかった。
 一回り以上歳の離れた父親と結婚した女。先妻の子どもに好かれようとしたって無駄だ。愛嬌のある顔立ちに浮かぶ柔らかな笑みが胡散臭く見え、母親だと思うことなどできるわけがなかった。
 更に翌年には弟が生まれた。瑞樹みずきと名付けられた弟は、英国の血を引く愛梨によく似ていた。半分しか血の繋がらない、しかし確実に日向の血を継ぐ弟。自分の存在理由が揺らいだ。
 家のため、会社を継ぐためにと教え込まれてきた教育と理念。それらはすべて夏癸がただ一人の跡継ぎだったからだ。けれど弟が生まれたとなると話が変わってくる。死んだ先妻の息子と後妻の息子。跡継ぎとなるのに相応しいのは一体どちらなのか。
 
 驚いたことに弟が生まれてから、父が育児に協力的になっていた。平日の帰宅時間が早まり、休日も家にいることが多くなった。弟の世話を手伝い、妻に労いの言葉をかけていた。食事も家族揃って摂ることが増えた。けれど、夏癸の孤独感は深まるばかりだった。
 父は厳しい言葉以外も夏癸に投げかけてくるようになったが、今更父親面をされたところで到底受け入れることはできなかった。
 けれど嫌悪感を表に出すことはせずに、表面的なやりとりでただ受け流していた。
 父と義母と弟は正しい家族のかたちに見えた。そこに夏癸が入る隙間はない。広い家の中に自分の居場所はないように感じた。
 
(会社も家も、俺じゃなくて弟が継ぐほうがいいんじゃないか……?)
(俺がこの家にいる意味なんてあるのか……?)
(ずっと言いなりになって勉強ばかりしてきたけど、もっと友達と遊んでもみたかった。でも、今更、どうしていいかわからない……)
(このまま日向の家のために生きなきゃいけないんだろうか……いやだ。自分のために生きてみたい。俺が、本当にやりたいことって、なんだろう……)
 
 中学生になった夏癸は人との関わりを極力避けていた。家柄目的の友人とは呼べない存在の相手をするのも億劫になり、休み時間は一人で本を読んで過ごすことが多くなった。
 勉強が難しくなってきたから集中したいとかなんとか適当な理由をつけて、習い事もやめた。反対はされなかった。一人のほうが集中できるからという言葉も受け入れられ、家庭教師の時間も最低限になった。
 親族の集まりやパーティーにも強制的に連れて行かれることはなくなり、必要最低限なもの以外には顔を出さなくなった。小学生のときに多くの予定を詰め込まれていたのが不思議なくらい自由な時間が増えた。
 しかし読書と小説執筆以外に娯楽もなかったので勉強の手を抜くことはなく、成績は学年一位をずっと維持していた。弟はアニメやゲームもあまり制限されず遊んでいたが、夏癸は今更興味を持てなかった。
 
 一人で本ばかり読んでいる男子生徒など根暗だと嫌われるのではないかと思っていたが、品のある校風のためかいじめに遭うようなことはなかった。遠巻きにされている気配はあったが、むしろ気楽でよかった。
 暗い部屋で本を読むことが多かったせいか、中一の夏休みが終わった頃に急激に視力が下がった。仕方なく眼鏡をかけ始めた途端、なぜか女子生徒からよく言い寄られるようになった。
 告白されて試しに付き合ってみたこともあるが、長続きしたことは一度もない。自分のことを好きだと言ってくる女の子とともに過ごせば何かが満たされるのではないかと思いもしたが、そんなことはあり得なかった。
 
 相手のことを好きになることもできなかった。そもそも他人を好きになるという感覚がよく理解できない。物語で描写される恋愛感情はわからなくもないが、夏癸は人に好かれるようなことをした覚えがない。理由のわからない好意を向けられるのは、正直、気持ちが悪いとも感じた。
 彼女たちは夏癸の外見だけを見て好きだと言い、内面に触れることはなかった。夏癸も踏み込ませはしなかった。
 彼が感情を露わにできるのはノートの上でだけ。寂しさ、苛立ち、苦しさ、空虚感。誰にも言えない気持ちを登場人物に代弁させ、物語として昇華していた。
 
 ***
 
 敷かれたレールの上を歩く人生に嫌気が差した。
 そもそも、敷かれていると思い込んでいたレールは途中で途切れているように見えた。
 弟の瑞樹が成長するにつれ、幼少期の夏癸ほどではないが教養を身につけるための習い事が増えていた。やはり、後継ぎの役目は瑞樹になるのかもしれない。親族には夏癸を後継ぎにと期待する声が大きかったが、そんなことはどうでもよかった。
 
 高等部には進学せず他の生徒は滅多に選ばない外部受験をすることを希望した。担任教師は驚いていたが、ご両親の許可があるならばと当たり障りのない言葉が返ってきた。
 両親の許可。そんなものが必要になることが煩わしい。けれど夏癸はまだ義務教育中の身で、何をするにも親の許しがいることは理解していた。身の回りのものは大人から与えられたものばかりで、夏癸の意志で自由にできるものはほとんど持っていない。
 とにかく、自分の存在が異物のように感じる家から早く出たかった。そのために夏癸が望んだことは外部受験と一人暮らしだった。
 家人にはもちろん反対されたが夏癸の意志は固く、生まれて初めて父と言い合いになった。
 
「俺は家を出ます。会社を継ぐ気もない。地位も財産もいりません」
「夏癸。――逃げるのか」
「逃げてなんかいない。俺は俺の人生を生きます。あんたに振り回されるのはもう真っ平だ」
 
 それまでは不満を抱きながらも父親に従順でいたというのに、そんな言葉が自分の口から出たことに驚いた。不思議と気持ちが楽になった。
 結局、いくつかの条件付きで夏癸の外部受験と一人暮らしは認められた。厳格な父親がそう簡単に許すはずないと覚悟していたのだが、拍子抜けするほどあっさりと言われた。
 好きにしろ、と。
 
「ただし、日向の名を穢す行動は慎むように」
 
 その言葉にはやはり反発を覚えたが、下手に反論はせずに頷いておいた。
 それから父はいくつかの条件を口にした。
 偏差値の高い高校へ行き、優秀な成績を取ること。難関大学に進学すること。仕送りをするので高校卒業まではアルバイト禁止。連絡は必ず取れるようにすること。呼び出したら家に帰ってくること。問題を起こしたらすぐに実家に連れ戻す。――それが一人暮らしを認めるうえで与えられた条件だった。
 随分と甘い制約だった。突然、跡を継ぐ気はないなどと戯れ言を口にしたのだから、もっと突き放されるものかと思っていた。
 学生の本分は学業であり、子どもを養うのは親の義務だからだ、というのが理由らしい。
 
(こんなときだけ父親面かよ……)
 
 反抗する気持ちがなかったと言えば嘘になるが、いままで何もかもを与えられる環境にいたというのに、急に一人で放り出されて生きていけるとは夏癸自身も思ってはいなかった。
 志望した公立の進学校には何の問題もなく合格した。いざ住居を探そうとすると、学校帰りに世話係兼運転手の青年から突然何の変哲もない茶封筒を渡された。父親から預かったというその封筒の中身は、住所の書かれた紙と一本の鍵だった。どうやらここへ住めということらしい。
 
 車で送っていくという世話係――片桐かたぎりかなめの提案は断り、週末に一人で訪れることにした。
 そのとき生まれて初めて一人で電車に乗った。ICカードを購入したので切符の買い方がわからず困るということはなかったが、一度だけ上手くタッチができなくて自動改札に引っかかったことだけは忘れてしまいたい。
 慣れない電車で一時間ほどかけて移動し、多少迷いながらも住所を頼りに訪れた場所には一戸建ての家があった。実家と比べると随分小さく見えるが、家具や家電も一通り揃っていて、一人で暮らすには充分に思えた。高校までは電車でさほど時間をかけずに通える範囲だ。住む家まで用意されているのは癪だったが、また言い合いになるのも面倒なので受け入れた。
 
 防犯対策としてはホームセキュリティを契約することになった。過保護なことだ。家政婦もつけると言われたが、それだけは断固拒否した。他人に頼らずとも一人で生きていけると証明したかった。金銭的に自立することはまだできなくても、せめて生活くらいは成り立たせてみせる。
 中等部の卒業式も同級生との別れにも、何の感慨もなかった。ただ形式的に儀式に参加し、義務的に別れの言葉を述べただけだった。
 
 春休みを迎えるとすぐに引っ越した。業者の手配も荷造りも荷解きも何もかも自分で行うつもりでいたのだが、引っ越しは片桐が手伝いを申し出てきた。
 突っ撥ねることもできたが、「おひとりでは大変でしょう」と諭され渋々受け入れた。
 彼は夏癸が幼少の頃から傍に付き従っていた。授業参観や三者面談などにも多忙な父に代わりたびたび出席したが、親代わりになってくれるようなことはなく、あくまで仕事として淡々と職務をこなしていた。
 いつも寡黙で影のような存在だったが、夏癸は彼にだけは密かに信頼を寄せていた。本人に伝えるようなことはしないけれど。
 
 実家から運んだ荷物はさほど多くはなかったので荷解きはすぐに終わった。役所での手続きもライフラインの使用開始手続きも済ませたので、今日から新しい家で生活することができる。仕事の一環としてだろうが、慣れない手続きをするにあたり世話係が付き添ってきたのは正直助かった。
 ついに念願の一人暮らしが始まるかと思いきや、その日から一週間、片桐とともに生活することになった。さすがに予想外だったが、それも父親からの指示らしい。
 家事を何もしたことがない夏癸にやり方を教えてやるように、とのことだった。
 片桐は住み込みではなく一人暮らしをしてるのだが、料理も掃除も洗濯も驚くほど得意だった。長年傍にいた彼のことを何も知らなかったと思い知らされた。
 家事のいろはを何も知らない夏癸に、ひとつひとつ丁寧にやり方を教えてくれた。
 
「困ったことがありましたら、いつでもご連絡ください」
 
 覚えることだらけの一週間はあっという間に過ぎ、十年近く傍に居た寡黙な青年は感情の篭らない声を残し、去っていった。
 一人きりになり、夏癸は改めて家の中を見渡した。実家とは比べ物にならないくらい狭い家。だが一人で生活するには充分すぎる広さだと感じた。寂しくはない。寂しさなら、あの家にいる間ずっと感じていた。いまはむしろ気楽さと解放感のほうが大きかった。
 これからは掃除も洗濯も食事の用意も、すべて自分でしなければならない。ある程度は覚えてからきっと問題はないはずだ。
 新しい自由な生活に期待を感じ、夏癸は僅かに笑みを浮かべた。 
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