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27.授賞式の夜
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「――三週間という短い間ではありましたが、とても充実した時間を過ごすことができました。皆さんとともに学んで、僕も自分の夢を叶えるために努力しようと改めて実感しました。皆さんも、これから受験があったり、将来のことで悩んだりすることもたくさんあるかと思いますが、どうか後悔しない道を選んでほしいなと思っています」
教育実習生の葉月真也が作家の葉月マヤだと知った翌週の金曜日。
あっという間に彼の実習最終日がやってきてしまった。放課後のホームルームで、教壇に立った葉月が最後の挨拶をしている。
生徒たちの中には真面目に聞いていない子もいるのかもしれないが、茜は真剣に彼の声に耳を傾けていた。もう葉月に会えないのかと思うと、無性に寂しい気持ちに襲われる。
数回だけ受けた葉月の授業は、時々たどたどしさがありながらも、わかりやすく丁寧に、そして楽しく英語を教えてくれた。もしかしたら彼は教師に向いているのかもしれない。だけど、作家という仕事を続けてほしいという気持ちにも変わりはない。
「実は、皆さんに手紙を書いてきました。いまから渡しにいくので、受け取ってもらえると嬉しいです」
教壇から下りた葉月が、生徒一人一人の机の前を回って順番に手紙を手渡していく。やがて茜の前に立った彼は、可愛らしい花柄の封筒を両手で差し出した。
「椎名茜さん。ありがとうございました」
「ありがとう、ございます……! あの、わたしも、手紙を書いてきました。葉月真也先生に」
彼の手紙を受け取ってから、机の中に入れておいた手紙をそっと取り出す。
以前ファンレターを書いた作家の葉月マヤ宛ではなく、教育実習生として同じ時間を共有した葉月真也に向けて書いた手紙だ。クラス全員で色紙に寄せ書きをして渡したけれど、それだけでは到底書き足りなかった。
葉月は一瞬目を丸くしたが、嬉しそうに手紙を受け取ってくれた。
「ありがとう。あとで大切に読ませてもらいます」
茜と視線を合わせて、葉月は柔らかく目を細めた。
全員に手紙を渡し終えた彼が教壇に戻り、口を開く。
「この藤代第一中学校に教育実習に来られて本当によかったです。ありがとうございました」
彼が頭を下げると、自然と拍手が起きた。拍手が止んでから、挨拶をして、教育実習期間中最後のホームルームが終わる。
ほかの生徒たちが帰り支度をするなかで茜は席を立ち、教室から出ていった葉月を思わず追いかけていた。
「――葉月先生!」
担任の橘と並んで廊下を歩いていた葉月が驚いたように振り返る。同じく振り返った橘も目を丸くしていた。
「橘先生。すぐに職員室に行きますから、先に行っていてください」
「わかったわ」
葉月がそう告げると、橘はひとつ頷いて踵を返した。人気の少ない廊下で向かい合う。茜は言葉に迷いながらも、彼の顔をまっすぐに見上げた。
「あの……また、いつか会えますか?」
「そうだね……何か機会があれば、顔を合わせることがあるかもしれない。でも、確実に会える場所がひとつだけあるよ」
「?」
首を傾げた茜に柔らかい笑みを向けて、葉月が囁いた。
「物語の世界で、また会おう」
――その言葉で、何故だか確信した。きっとまた、彼が書く物語に逢える。次の本や、その次の本だけではなく、もっと先の未来でも。
「……はい!」
大きく頷いて応える。葉月は小さく手を振ると、それ以上は何も告げずに踵を返した。遠ざかっていく葉月の背中を、茜はしばらくその場で見つめていた。
***
その夜は夏癸の授賞式でもあった。教育実習が終わってしまったことに寂しさを感じながらも、帰宅してから急いで身支度を整えた。夏癸が運転する車に乗り、向かったのは都内にある格式高いホテルだったのだが――。
(……わたし、ここにいてはいけない気がする)
ホールの片隅に佇み、茜は一人で震えていた。
天井の高いパーティーホール。会場内には多くの人がいて、談笑する声がいやでも耳に入ってくる。茜でも顔を知っているような大御所の作家にマスコミ関係者、出版関係者などが主なようで、茜のような年頃の子どもは見当たらない。
夏癸は控室にいる。先ほどまでは篠原が傍にいてくれたのだが、上司らしき人に呼ばれて行ってしまった。一人で大丈夫かと訊かれて、大丈夫だと頷いたのは茜だけれど。
ふと視線を下げるとパンプスの爪先が目に入った。ピンクベージュのアンクルストラップパンプス。ヒールは幅が広めで三センチほどなのでこういった靴を履き慣れていなくても歩きやすい。
身に着けているパーティードレスは夏癸が選んでくれたものだ。売り場に並んでいたドレスは種類が多すぎて、自分ではどれを選べばいいのかわからなくて途方に暮れてしまった。
パステルピンクのドレスとベージュのボレロ。ウエストで結んだリボンと裾の広がったスカートが可愛らしい。パンプスとパーティーバッグ、ハーフアップにした髪を留めているバレッタもドレスの雰囲気に合わせて揃えてもらった。
きちんと正装してきたつもりだが、実際に会場に来ると自分の存在がひどく場違いに思えてならなかった。知っている人が誰もいない空間に一人でいることに心細くなってきてしまう。
「君、誰かの娘さん? かわいいね、中学生?」
「えっ、あの、わたし……」
突然、見知らぬ男性に声をかけられ、びくりと肩が震える。
どのように対応したらいいのかわからず困惑していると、ふいに背後から聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「ごめんねー。その子、俺の連れなんだ」
「豊さん……!」
振り返るとスーツ姿の豊が立っていた。見知った顔に会えたことに、ほっと胸を撫で下ろす。
「あ、藤村先生! ……もしかして妹さんですか?」
「まあ、そんなところ。あんまりその子にちょっかい出すと、俺怒るよー」
「やだなぁ、そんなこと……」
にこっと笑みを浮かべた豊が、男性に歩み寄る。
「――すみません、ちょっと失礼します」
茜からはよく見えなかったのだけれど、豊の表情を見た途端に男性はそそくさとその場を離れてしまった。よくわからないけれど、助かった。
「あの、ありがとうございました」
「どういたしまして。茜ちゃんも来てたんだね。こんなところ来ると緊張しちゃうでしょ?」
「は、はい……。でも、どうして豊さんがここに?」
「あの本、俺が表紙描いたから。招待されたんだ」
それからは豊が傍にいてくれることになったので少し安心した。
「そのドレス自分で選んだの? 色の組み合わせがいいね」
「夏癸さんが選んでくれました。わたし、こういうの着るの初めてだから、なにを選べばいいか全然わからなくて」
「なるほどねぇ。よく似合ってるよ」
ぽつぽつと話をしつつ授賞式が始まるのを待つ。
パーティードレスを着る機会など滅多にないのだからレンタルのものでもいいかもしれないと茜は思ったのだが、夏癸がせっかくだからと一式買ってくれたのだ。申し訳ない気もしたが、茜に似合うドレスを選んでもらえたのは嬉しかった。
やがて授賞式が始まりしばらくすると、傍らに立つ豊がそっと囁いた。
「あ、ほら、夏癸のスピーチ始まるよ」
フォーマルスーツを身に纏い、胸に徽章をつけた夏癸が姿を現す。盛大な拍手が巻き起こった。視界には大勢の人がいて、夏癸との距離はとても遠い。背の低い茜からは人の隙間からかろうじてその姿が見える程度だった。
壇上に立った夏癸の声がマイクを通して聞こえてくる。会場に集まった人に向けて謝辞を述べ、受賞した作品がどのようなコンセプトで書かれたものだとかを話しているが、内容がまったく耳に入らなかった。
毎日顔を合わせているのに、壇上にいる夏癸はなんだか知らない人のように見えてしまう。
やはり、自分がここにいることは場違いに思えてならなかった。
夏癸は大きな賞を取るような有名な小説家で、茜は何の取り柄もない中学生。
たまたま父が編集者で、夏癸の担当編集だったから。
たまたま彼が母の教え子だったから。
たまたま家が近所だったから。
いくつもの偶然が重ならなければ、椎名茜が日向夏癸と出逢うことなどありえなかったのだ。
こうして遠くから夏癸の姿を眺めているのが本来の距離――いや、違う。そもそも茜がただの読者だったのなら、このように授賞式に参加することさえできなかった。
これ以上、壇上に立つ夏癸の姿を見ていたくない。何故だかそう感じてしまい、茜はそっと踵を返そうとした。
「茜ちゃん?」
「すみません……えっと、お、お手洗いに」
「場所わかる? 一緒に行こうか?」
「大丈夫ですっ」
心配そうな豊に断りを入れ、茜は逃げるように会場をあとにした。
慣れないヒールで静かな通路を歩いていき、婦人用の化粧室に足を踏み入れる。
本当にトイレに行きたいわけではなかったけれど、個室に入って用を足す。会場に入る前に夏癸にトイレの場所を教えてもらって済ませていたので、ほんの少ししか出なかった。
個室を出て手を洗いながら、ふと視線を上げて鏡を見る。
淡いピンク色のドレス。可愛いけれど、茜が着ると少し可愛らしすぎるような気がする。――つまりは、子どもっぽい。
鏡に映る自分の姿を見て、茜は複雑な気持ちになった。
百五十センチに満たない平均より低い身長。色付きのリップクリームを塗っただけの化粧っ気のない幼い顔立ち。私服で歩いていると時々小学生に間違われることもある。
夏癸が選んでくれたドレスは茜の好みにも合うものでとても嬉しかったはずなのに。彼から自分はこのように見えているのかと思うと、なんだか悔しかった。
――いまの茜では、自信を持って夏癸の隣に並んで立つことなど決してできない。
すぐには会場に戻りたくなくて、少し時間が経ってからゆっくりと戻った。
もう夏癸のスピーチは終わったようで、壇上には誰も立っていない。どうやら授賞式は終わり、続けて懇親パーティーが始まっているようだ。
きょろきょろと会場内を見渡すと、何人もの人に囲まれている夏癸の姿が目に入った。とてもじゃないが近付けそうにない。――それに、茜が傍に行ったらきっと迷惑をかけてしまうだろう。夏癸が彼女とともに暮らしていることは公にはされていないのだから。
「あ、茜ちゃん。いたいた」
豊が足早に歩み寄ってきて、思わず肩を竦める。
「大丈夫? なかなか戻ってこないから心配したよ」
「だ、大丈夫です。すみません、ちょっと、戻ってくるときに迷っちゃって……」
「そう? それならいいけど……。なにか食べる? 美味しそうなもの色々あるよ」
彼に促されて料理が並んだテーブルを見に行く。野菜とシーフードのマリネや蟹のテリーヌ、ローストビーフなど並んでいる料理はどれも美味しそうだったけれど、いまは喉を通りそうになかった。家を出る前に夏癸が用意してくれていたサンドイッチを軽くつまんできたのであまりお腹も空いていない。
「どうしたの。食べたいものない?」
肉料理を中心に皿に取っていた豊が、何も載っていない茜の皿を見て軽く首を傾げた。
「ごめんなさい、あんまりお腹空いてなくて……」
「そう? まあ無理に食べなくてもいいけど。あっちにフルーツとかケーキもあったから、よかったら見ておいで」
「あ、じゃあ、ちょっと見てきます」
別のテーブルに行くと、色とりどりのケーキやムース、フルーツが並んでいた。どれも見た目が可愛らしい。普段ならどれを選ぶか迷うのも楽しいところだが、いまはあまり気分が上がらなかった。それでもせっかく豊が勧めてくれたので、無理なく食べられそうなフルーツやプチケーキを少しだけ皿に取る。
「茜ちゃん、こっちのテーブル空いてるよ」
豊に手招きされて、近くのテーブルに足を向けた。立食形式というのも初めてなのでなんだか落ち着かない。小さなケーキにフォークを差し入れてちまちまと食べ進める。皿に取った以上に何かを食べる気にはなれなくて、あとはソフトドリンクにのみ口をつけた。
それから閉会までずっと豊の近くで過ごした。夏癸のことはなるべく視界に入れないようにして。
時折、茜の知らない大人が豊に話しかけにきたが、傍にいる彼女には話が向けられないようにさりげなく庇ってくれた。下手に夏癸との関係を口にするわけにはいかないので助かる。
「……もしかして、夏癸と喧嘩でもした?」
「えっ、してないですよ……!?」
ふと豊に問われ、慌てて首を振った。
「そう? 全然あいつのこと見ようとしないから、なにかあったのかと思った」
「ええと……なんだか、夏癸さんが知らない人みたいに見えちゃって。わたし、ここにいていいのかなって……」
目を伏せて、思わず、不安な気持ちをぽつりと零してしまう。
豊は何も言いはしなかった。下手に慰めるような言葉も口にしない。むしろそのほうがありがたかった。
***
「――茜ちゃん! ごめんね、一人にしちゃって」
懇親パーティーが終わりに近付いた頃、篠原が少しだけ足早に近付いてきた。
「あ、よかった、藤村先生と一緒にいたのね。日向先生が呼んでいるから行きましょうか」
「は、はい。豊さん、ありがとうございました」
「うん。またね」
何事もなかったかのように笑顔で手を振る豊に会釈をして、迎えに来た篠原のあとをついていく。人気のない通路で夏癸は一人佇んでいた。
「日向先生、連れてきましたよ」
「ありがとうございます。では私はこれで。茜、帰りましょう」
「えっ、あっ……」
夏癸に手を引かれて歩いていく。握られた手首が、少しだけ痛い。
「夏癸さん、もう帰っちゃっていいんですかっ?」
「ええ、必要な挨拶は済ませましたし。茜も、慣れない場所で疲れてしまったでしょう?」
「は、はい……」
小さく頷いて、足早に歩を進める彼に必死についていく。夏癸の様子がなんだか普段と違う。会場に着いたときまではいつも通りだったのに、いまは余裕がなさそうに見えた。――なんとなく、怖いと、思ってしまう。
(あ……)
トイレの前を通り過ぎてしまう。下腹には少しだけ重さを感じていて、できれば車に乗る前に済ませておきたいと思っていたのだが、口を開くことはできなかった。
(おうちまで我慢できるかな……で、できる、よね。大丈夫。うん)
自分に言い聞かせるように小さく頷く。
駐車場に着き、夏癸の車の助手席に乗り込んだ。
篠原がハイヤーを手配するつもりだったようだが、慣れない車に乗ると酔いやすい茜のために夏癸自ら車を出してくれたのだ。気を遣わせてしまったことを今更のように申し訳なく思う。
座席に腰を下ろすとやっぱりトイレのことが気になったが、車に乗ったいまになって言い出すことは余計にできなかった。
(来るときは一時間もかからなかったし……きっと大丈夫だよね)
なんとか家まで我慢できるだろうと思い、シートベルトを締める。
夏癸はエンジンをかけると、無言で車を発進させた。
***
(……どうしよう。気持ち悪い、かも)
車が走り出してからしばらくして、茜は軽いめまいと吐き気に襲われていた。
そういえば、車に乗る前に酔い止めを飲むのをすっかり忘れていた。夏癸の車は乗り慣れているので薬を飲まなくても車酔いを起こすことなどほとんどないのだが、今日は慣れないことばかりで普段とは状況が違う。
いつも飲んでいる薬は水なしで飲める上に、酔ってからでも効くと書いてあったはずだ。
いまからでも飲もうと、膝の上に載せていたバッグをそっと開ける。けれど。
(……ない!)
バッグに入れたと思っていた酔い止め薬は入っていなかった。
家を出る前に飲んだあと、入れたつもりになって忘れていたのかもしれない。よく確認するべきだった。
薬を飲めないとなると余計に気持ち悪さが増してきた気がする。
――それに加えて。
(おしっこもしたい……!)
車に乗る前から感じていた尿意は時間の経過とともに増していた。こっそりと膝を擦り合わせる。まだ漏れそうなほどではないけれど、トイレに行きたいことに変わりはない。
夏癸に告げようかとそっと横顔を窺うが、運転に集中している彼に声をかけるのは躊躇われた。その上、いまは首都高を走っているので車を止めることもできない。こんなことを言っても困らせてしまう。我慢しないと。
(うぅ……どうしよう……)
しばらくはじっと我慢していられた。けれどいくら我慢していても生理的な欲求は解消されない。気を紛らわそうとしても気持ち悪さも消えてはくれない。シートベルトの締め付けさえきつく感じる。
おまけに軽い渋滞に巻き込まれているのか、車が進む速度はいつの間にか緩やかになっていた。前方にはずらっと車が並んでいる。こんな状況ではますます言い出しづらい。
じっと前を見つめている夏癸は茜の窮状には気付いてくれそうになかった。
どうして会場を出るときにちゃんとトイレを済ませておかなかったのだろう。
一言、トイレに寄りたい、と言えばきっと夏癸は足を止めてくれただろうに。
下腹部が重たい。苦しい。気持ち悪い。おしっこしたい。
静かに唾を飲み込む。太腿をきつく寄せて、サテン生地の上から脚の付け根をぎゅっと押さえる。指先が冷たい。早く、夏癸に言って、どうにかしないと。わかっているのに。閉じた口を開くことができない。
吐き気と尿意によって茜は限界ぎりぎりまで追い詰められていた。
(あ……だめ、吐きそう)
小さく身じろぐと、口の中に唾液が溢れてきた。もう我慢できない。慌てて助手席側のドアポケットに入っているビニール袋を一枚取り出す。胃の中身が迫り上がってくるのと袋を広げて口元に当てるのはほぼ同時だった。
「ぅ、ぇ……」
「茜っ……!?」
えずく声に気付いたのか、夏癸が慌てたように声を上げた。けれど運転中の彼には成す術がない。あまり食べていなかったこともあり、吐き出したものの量は少なかった。酸っぱい臭いが鼻先を掠める。袋で受け止めきれたのでドレスや車内は汚さずに済んだ。――けれど。
お腹に力が加わったせいか、じわりと下着が温かく濡れた。だめ、我慢しないといけないのに。両手が塞がっていて押さえられない。膀胱は勝手に収縮してしまい、じわじわと下着の中に熱が広がっていく。
(おしっこ……でちゃった……)
くぐもった水音が耳に入る。きっと夏癸にも聞こえているだろう。
溢れ出した温かな水が下着とドレスを突き抜け、お尻の下を濡らす。ストッキングに包まれた脚を伝って足元まで汚していく。ぴちゃぴちゃと、小さな音が床を叩く。早く終わってほしいのに、水音はなかなか止んでくれなかった。
先ほどまで張り詰めていた下腹部がすっかり軽くなっていく。やがて水音が止み、茜は浅い息を吐き出した。
座席のシートも、せっかく夏癸が買ってくれた綺麗なドレスもぐしょぐしょに濡れている。すっきりしたけれど気分は最悪だった。
「……ごめんなさい」
「いえ、私も気付かなくて、すみません」
嘔吐してしまった袋の口を縛ってから、泣きそうな声で小さく謝罪の言葉を呟く。俯いた顔は上げられない。夏癸の声もなんだか気まずそうだった。
「もう気分は悪くないですか?」
「はい……」
「でも、どこかで少し休みましょうか」
彼の提案に小さく頷く。吐き気は治まったけれど口の中は気持ち悪い。濡れた下半身も冷たくて、彼女の失敗をいやというほど突き付けてきた。
しばらく進むと渋滞を抜けたが、夏癸は手近な出口から一般道へ下りた。数分走ると駐車場のあるコンビニが見えたので車を入れる。「すぐに戻ってきますね」と言い、夏癸は店内に入っていった。
外の空気を吸いたいけれど濡れた恰好では車から出られない。少しだけ窓を開けて待っていると、夏癸は言葉通りすぐに戻ってきてくれた。
「とりあえず、口をゆすぎましょうか」
蓋を開けたペットボトルの水を手渡され、口を広げたビニール袋を差し出される。口の中をゆすいで袋の中に水を吐き出す。何度か繰り返すとようやく口の中がすっきりした。
「もう大丈夫ですか?」
「うん。……汚しちゃって、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ。それより、我慢させてしまってすみませんでした。言い出しづらかったですよね」
夏癸はペットボトルを受け取ってから、茜の頭を軽く撫でた。優しい声音も手つきもいつも通りの彼で、どうして先ほどは怖いなどと思ってしまったのか、不思議になってくる。
「着替えありますから、後ろで着替えましょうか」
「……持ってきてたんですか?」
「一応、念のために。勝手に持ってきてしまってすみません」
「ううん。ありがとう、ございます」
もしかして粗相することを想定されていたのかと思うと、たまらなく恥ずかしい。
でも濡れた服のままでいるのは嫌だったので正直助かる。後部座席に移動して、夏癸がトランクから出した着替えの入ったトートバッグを受け取る。
ペットボトルの水で濡らしたタオルも渡された。濡れた下着とストッキングを脱ぎ、冷たいのは少し我慢して汚れた下肢を拭く。下着を穿き替えて、バッグに入っていたワンピースに手早く着替えるとようやく気持ちが落ち着いた。
***
「茜、着きましたよ」
家の敷地に車を入れて、エンジンを止める。けれど、後部座席に座っている茜は動く気配がなかった。
「……茜?」
「夏癸さん、あの、お、おトイレ……っ」
肩越しに振り返ると、泣きそうな表情を浮かべた彼女と目が合った。
座席に座っている茜はワンピースの前を両手でぎゅっと押さえつけて、もじもじと膝を擦り合わせていた。途中立ち寄ったコンビニでトイレは借りたのだが、どうやら再び催して切羽詰まっているようだった。きっと立とうとすると危ういのだろう。
「ちょっとだけ、待っててくださいね」
急いで運転席を降り、まずは玄関を開けておく。それから後部座席のドアを開け、シートベルトを外してから茜をそっと抱き寄せるように車から降ろした。
「もう少しだけ頑張ってくださいね」
優しく声をかけつつ横抱きにした茜を急いでトイレまで連れていく。トイレの前で降ろしてドアを開けてやると、茜は慌てた様子で中に駆け込んだ。
ばたんとドアを閉め、ほどなくして便器を叩く水音が聞こえてきたので今度は間に合ったのだろう。
――よかった。これ以上、彼女を落ち込ませるようなことはしたくない。
「……はぁ」
授賞式後の己の態度を思い出して、思わずため息が零れた。
人前に立つことに対する緊張だとか煩わしさで、きっと自分で自覚している以上に不機嫌になっていた。――久々にあのような場に顔を出したことで、思い出したくない記憶が蘇ってしまったことも原因のひとつだろう。
強すぎる感受性がこんなときには嫌になる。
茜にも申し訳ないことをしてしまった。一緒に行きたいという彼女の意思を尊重したつもりだったが、慣れない場で緊張しただろうし、もしかしたら好奇の目に晒してしまったかもしれない。
帰り道でも可哀相なことをしてしまった。トイレに行きたいことも、具合が悪いことも言い出せないような雰囲気を自分は醸し出していたのだろう。今回の彼女の粗相は完全に自分のせいだ。
――大切にしたいと思っているのに、なかなかうまくいかない。
自分の不器用さを歯がゆく感じながら、夏癸はもう一度小さく息をついた。
教育実習生の葉月真也が作家の葉月マヤだと知った翌週の金曜日。
あっという間に彼の実習最終日がやってきてしまった。放課後のホームルームで、教壇に立った葉月が最後の挨拶をしている。
生徒たちの中には真面目に聞いていない子もいるのかもしれないが、茜は真剣に彼の声に耳を傾けていた。もう葉月に会えないのかと思うと、無性に寂しい気持ちに襲われる。
数回だけ受けた葉月の授業は、時々たどたどしさがありながらも、わかりやすく丁寧に、そして楽しく英語を教えてくれた。もしかしたら彼は教師に向いているのかもしれない。だけど、作家という仕事を続けてほしいという気持ちにも変わりはない。
「実は、皆さんに手紙を書いてきました。いまから渡しにいくので、受け取ってもらえると嬉しいです」
教壇から下りた葉月が、生徒一人一人の机の前を回って順番に手紙を手渡していく。やがて茜の前に立った彼は、可愛らしい花柄の封筒を両手で差し出した。
「椎名茜さん。ありがとうございました」
「ありがとう、ございます……! あの、わたしも、手紙を書いてきました。葉月真也先生に」
彼の手紙を受け取ってから、机の中に入れておいた手紙をそっと取り出す。
以前ファンレターを書いた作家の葉月マヤ宛ではなく、教育実習生として同じ時間を共有した葉月真也に向けて書いた手紙だ。クラス全員で色紙に寄せ書きをして渡したけれど、それだけでは到底書き足りなかった。
葉月は一瞬目を丸くしたが、嬉しそうに手紙を受け取ってくれた。
「ありがとう。あとで大切に読ませてもらいます」
茜と視線を合わせて、葉月は柔らかく目を細めた。
全員に手紙を渡し終えた彼が教壇に戻り、口を開く。
「この藤代第一中学校に教育実習に来られて本当によかったです。ありがとうございました」
彼が頭を下げると、自然と拍手が起きた。拍手が止んでから、挨拶をして、教育実習期間中最後のホームルームが終わる。
ほかの生徒たちが帰り支度をするなかで茜は席を立ち、教室から出ていった葉月を思わず追いかけていた。
「――葉月先生!」
担任の橘と並んで廊下を歩いていた葉月が驚いたように振り返る。同じく振り返った橘も目を丸くしていた。
「橘先生。すぐに職員室に行きますから、先に行っていてください」
「わかったわ」
葉月がそう告げると、橘はひとつ頷いて踵を返した。人気の少ない廊下で向かい合う。茜は言葉に迷いながらも、彼の顔をまっすぐに見上げた。
「あの……また、いつか会えますか?」
「そうだね……何か機会があれば、顔を合わせることがあるかもしれない。でも、確実に会える場所がひとつだけあるよ」
「?」
首を傾げた茜に柔らかい笑みを向けて、葉月が囁いた。
「物語の世界で、また会おう」
――その言葉で、何故だか確信した。きっとまた、彼が書く物語に逢える。次の本や、その次の本だけではなく、もっと先の未来でも。
「……はい!」
大きく頷いて応える。葉月は小さく手を振ると、それ以上は何も告げずに踵を返した。遠ざかっていく葉月の背中を、茜はしばらくその場で見つめていた。
***
その夜は夏癸の授賞式でもあった。教育実習が終わってしまったことに寂しさを感じながらも、帰宅してから急いで身支度を整えた。夏癸が運転する車に乗り、向かったのは都内にある格式高いホテルだったのだが――。
(……わたし、ここにいてはいけない気がする)
ホールの片隅に佇み、茜は一人で震えていた。
天井の高いパーティーホール。会場内には多くの人がいて、談笑する声がいやでも耳に入ってくる。茜でも顔を知っているような大御所の作家にマスコミ関係者、出版関係者などが主なようで、茜のような年頃の子どもは見当たらない。
夏癸は控室にいる。先ほどまでは篠原が傍にいてくれたのだが、上司らしき人に呼ばれて行ってしまった。一人で大丈夫かと訊かれて、大丈夫だと頷いたのは茜だけれど。
ふと視線を下げるとパンプスの爪先が目に入った。ピンクベージュのアンクルストラップパンプス。ヒールは幅が広めで三センチほどなのでこういった靴を履き慣れていなくても歩きやすい。
身に着けているパーティードレスは夏癸が選んでくれたものだ。売り場に並んでいたドレスは種類が多すぎて、自分ではどれを選べばいいのかわからなくて途方に暮れてしまった。
パステルピンクのドレスとベージュのボレロ。ウエストで結んだリボンと裾の広がったスカートが可愛らしい。パンプスとパーティーバッグ、ハーフアップにした髪を留めているバレッタもドレスの雰囲気に合わせて揃えてもらった。
きちんと正装してきたつもりだが、実際に会場に来ると自分の存在がひどく場違いに思えてならなかった。知っている人が誰もいない空間に一人でいることに心細くなってきてしまう。
「君、誰かの娘さん? かわいいね、中学生?」
「えっ、あの、わたし……」
突然、見知らぬ男性に声をかけられ、びくりと肩が震える。
どのように対応したらいいのかわからず困惑していると、ふいに背後から聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「ごめんねー。その子、俺の連れなんだ」
「豊さん……!」
振り返るとスーツ姿の豊が立っていた。見知った顔に会えたことに、ほっと胸を撫で下ろす。
「あ、藤村先生! ……もしかして妹さんですか?」
「まあ、そんなところ。あんまりその子にちょっかい出すと、俺怒るよー」
「やだなぁ、そんなこと……」
にこっと笑みを浮かべた豊が、男性に歩み寄る。
「――すみません、ちょっと失礼します」
茜からはよく見えなかったのだけれど、豊の表情を見た途端に男性はそそくさとその場を離れてしまった。よくわからないけれど、助かった。
「あの、ありがとうございました」
「どういたしまして。茜ちゃんも来てたんだね。こんなところ来ると緊張しちゃうでしょ?」
「は、はい……。でも、どうして豊さんがここに?」
「あの本、俺が表紙描いたから。招待されたんだ」
それからは豊が傍にいてくれることになったので少し安心した。
「そのドレス自分で選んだの? 色の組み合わせがいいね」
「夏癸さんが選んでくれました。わたし、こういうの着るの初めてだから、なにを選べばいいか全然わからなくて」
「なるほどねぇ。よく似合ってるよ」
ぽつぽつと話をしつつ授賞式が始まるのを待つ。
パーティードレスを着る機会など滅多にないのだからレンタルのものでもいいかもしれないと茜は思ったのだが、夏癸がせっかくだからと一式買ってくれたのだ。申し訳ない気もしたが、茜に似合うドレスを選んでもらえたのは嬉しかった。
やがて授賞式が始まりしばらくすると、傍らに立つ豊がそっと囁いた。
「あ、ほら、夏癸のスピーチ始まるよ」
フォーマルスーツを身に纏い、胸に徽章をつけた夏癸が姿を現す。盛大な拍手が巻き起こった。視界には大勢の人がいて、夏癸との距離はとても遠い。背の低い茜からは人の隙間からかろうじてその姿が見える程度だった。
壇上に立った夏癸の声がマイクを通して聞こえてくる。会場に集まった人に向けて謝辞を述べ、受賞した作品がどのようなコンセプトで書かれたものだとかを話しているが、内容がまったく耳に入らなかった。
毎日顔を合わせているのに、壇上にいる夏癸はなんだか知らない人のように見えてしまう。
やはり、自分がここにいることは場違いに思えてならなかった。
夏癸は大きな賞を取るような有名な小説家で、茜は何の取り柄もない中学生。
たまたま父が編集者で、夏癸の担当編集だったから。
たまたま彼が母の教え子だったから。
たまたま家が近所だったから。
いくつもの偶然が重ならなければ、椎名茜が日向夏癸と出逢うことなどありえなかったのだ。
こうして遠くから夏癸の姿を眺めているのが本来の距離――いや、違う。そもそも茜がただの読者だったのなら、このように授賞式に参加することさえできなかった。
これ以上、壇上に立つ夏癸の姿を見ていたくない。何故だかそう感じてしまい、茜はそっと踵を返そうとした。
「茜ちゃん?」
「すみません……えっと、お、お手洗いに」
「場所わかる? 一緒に行こうか?」
「大丈夫ですっ」
心配そうな豊に断りを入れ、茜は逃げるように会場をあとにした。
慣れないヒールで静かな通路を歩いていき、婦人用の化粧室に足を踏み入れる。
本当にトイレに行きたいわけではなかったけれど、個室に入って用を足す。会場に入る前に夏癸にトイレの場所を教えてもらって済ませていたので、ほんの少ししか出なかった。
個室を出て手を洗いながら、ふと視線を上げて鏡を見る。
淡いピンク色のドレス。可愛いけれど、茜が着ると少し可愛らしすぎるような気がする。――つまりは、子どもっぽい。
鏡に映る自分の姿を見て、茜は複雑な気持ちになった。
百五十センチに満たない平均より低い身長。色付きのリップクリームを塗っただけの化粧っ気のない幼い顔立ち。私服で歩いていると時々小学生に間違われることもある。
夏癸が選んでくれたドレスは茜の好みにも合うものでとても嬉しかったはずなのに。彼から自分はこのように見えているのかと思うと、なんだか悔しかった。
――いまの茜では、自信を持って夏癸の隣に並んで立つことなど決してできない。
すぐには会場に戻りたくなくて、少し時間が経ってからゆっくりと戻った。
もう夏癸のスピーチは終わったようで、壇上には誰も立っていない。どうやら授賞式は終わり、続けて懇親パーティーが始まっているようだ。
きょろきょろと会場内を見渡すと、何人もの人に囲まれている夏癸の姿が目に入った。とてもじゃないが近付けそうにない。――それに、茜が傍に行ったらきっと迷惑をかけてしまうだろう。夏癸が彼女とともに暮らしていることは公にはされていないのだから。
「あ、茜ちゃん。いたいた」
豊が足早に歩み寄ってきて、思わず肩を竦める。
「大丈夫? なかなか戻ってこないから心配したよ」
「だ、大丈夫です。すみません、ちょっと、戻ってくるときに迷っちゃって……」
「そう? それならいいけど……。なにか食べる? 美味しそうなもの色々あるよ」
彼に促されて料理が並んだテーブルを見に行く。野菜とシーフードのマリネや蟹のテリーヌ、ローストビーフなど並んでいる料理はどれも美味しそうだったけれど、いまは喉を通りそうになかった。家を出る前に夏癸が用意してくれていたサンドイッチを軽くつまんできたのであまりお腹も空いていない。
「どうしたの。食べたいものない?」
肉料理を中心に皿に取っていた豊が、何も載っていない茜の皿を見て軽く首を傾げた。
「ごめんなさい、あんまりお腹空いてなくて……」
「そう? まあ無理に食べなくてもいいけど。あっちにフルーツとかケーキもあったから、よかったら見ておいで」
「あ、じゃあ、ちょっと見てきます」
別のテーブルに行くと、色とりどりのケーキやムース、フルーツが並んでいた。どれも見た目が可愛らしい。普段ならどれを選ぶか迷うのも楽しいところだが、いまはあまり気分が上がらなかった。それでもせっかく豊が勧めてくれたので、無理なく食べられそうなフルーツやプチケーキを少しだけ皿に取る。
「茜ちゃん、こっちのテーブル空いてるよ」
豊に手招きされて、近くのテーブルに足を向けた。立食形式というのも初めてなのでなんだか落ち着かない。小さなケーキにフォークを差し入れてちまちまと食べ進める。皿に取った以上に何かを食べる気にはなれなくて、あとはソフトドリンクにのみ口をつけた。
それから閉会までずっと豊の近くで過ごした。夏癸のことはなるべく視界に入れないようにして。
時折、茜の知らない大人が豊に話しかけにきたが、傍にいる彼女には話が向けられないようにさりげなく庇ってくれた。下手に夏癸との関係を口にするわけにはいかないので助かる。
「……もしかして、夏癸と喧嘩でもした?」
「えっ、してないですよ……!?」
ふと豊に問われ、慌てて首を振った。
「そう? 全然あいつのこと見ようとしないから、なにかあったのかと思った」
「ええと……なんだか、夏癸さんが知らない人みたいに見えちゃって。わたし、ここにいていいのかなって……」
目を伏せて、思わず、不安な気持ちをぽつりと零してしまう。
豊は何も言いはしなかった。下手に慰めるような言葉も口にしない。むしろそのほうがありがたかった。
***
「――茜ちゃん! ごめんね、一人にしちゃって」
懇親パーティーが終わりに近付いた頃、篠原が少しだけ足早に近付いてきた。
「あ、よかった、藤村先生と一緒にいたのね。日向先生が呼んでいるから行きましょうか」
「は、はい。豊さん、ありがとうございました」
「うん。またね」
何事もなかったかのように笑顔で手を振る豊に会釈をして、迎えに来た篠原のあとをついていく。人気のない通路で夏癸は一人佇んでいた。
「日向先生、連れてきましたよ」
「ありがとうございます。では私はこれで。茜、帰りましょう」
「えっ、あっ……」
夏癸に手を引かれて歩いていく。握られた手首が、少しだけ痛い。
「夏癸さん、もう帰っちゃっていいんですかっ?」
「ええ、必要な挨拶は済ませましたし。茜も、慣れない場所で疲れてしまったでしょう?」
「は、はい……」
小さく頷いて、足早に歩を進める彼に必死についていく。夏癸の様子がなんだか普段と違う。会場に着いたときまではいつも通りだったのに、いまは余裕がなさそうに見えた。――なんとなく、怖いと、思ってしまう。
(あ……)
トイレの前を通り過ぎてしまう。下腹には少しだけ重さを感じていて、できれば車に乗る前に済ませておきたいと思っていたのだが、口を開くことはできなかった。
(おうちまで我慢できるかな……で、できる、よね。大丈夫。うん)
自分に言い聞かせるように小さく頷く。
駐車場に着き、夏癸の車の助手席に乗り込んだ。
篠原がハイヤーを手配するつもりだったようだが、慣れない車に乗ると酔いやすい茜のために夏癸自ら車を出してくれたのだ。気を遣わせてしまったことを今更のように申し訳なく思う。
座席に腰を下ろすとやっぱりトイレのことが気になったが、車に乗ったいまになって言い出すことは余計にできなかった。
(来るときは一時間もかからなかったし……きっと大丈夫だよね)
なんとか家まで我慢できるだろうと思い、シートベルトを締める。
夏癸はエンジンをかけると、無言で車を発進させた。
***
(……どうしよう。気持ち悪い、かも)
車が走り出してからしばらくして、茜は軽いめまいと吐き気に襲われていた。
そういえば、車に乗る前に酔い止めを飲むのをすっかり忘れていた。夏癸の車は乗り慣れているので薬を飲まなくても車酔いを起こすことなどほとんどないのだが、今日は慣れないことばかりで普段とは状況が違う。
いつも飲んでいる薬は水なしで飲める上に、酔ってからでも効くと書いてあったはずだ。
いまからでも飲もうと、膝の上に載せていたバッグをそっと開ける。けれど。
(……ない!)
バッグに入れたと思っていた酔い止め薬は入っていなかった。
家を出る前に飲んだあと、入れたつもりになって忘れていたのかもしれない。よく確認するべきだった。
薬を飲めないとなると余計に気持ち悪さが増してきた気がする。
――それに加えて。
(おしっこもしたい……!)
車に乗る前から感じていた尿意は時間の経過とともに増していた。こっそりと膝を擦り合わせる。まだ漏れそうなほどではないけれど、トイレに行きたいことに変わりはない。
夏癸に告げようかとそっと横顔を窺うが、運転に集中している彼に声をかけるのは躊躇われた。その上、いまは首都高を走っているので車を止めることもできない。こんなことを言っても困らせてしまう。我慢しないと。
(うぅ……どうしよう……)
しばらくはじっと我慢していられた。けれどいくら我慢していても生理的な欲求は解消されない。気を紛らわそうとしても気持ち悪さも消えてはくれない。シートベルトの締め付けさえきつく感じる。
おまけに軽い渋滞に巻き込まれているのか、車が進む速度はいつの間にか緩やかになっていた。前方にはずらっと車が並んでいる。こんな状況ではますます言い出しづらい。
じっと前を見つめている夏癸は茜の窮状には気付いてくれそうになかった。
どうして会場を出るときにちゃんとトイレを済ませておかなかったのだろう。
一言、トイレに寄りたい、と言えばきっと夏癸は足を止めてくれただろうに。
下腹部が重たい。苦しい。気持ち悪い。おしっこしたい。
静かに唾を飲み込む。太腿をきつく寄せて、サテン生地の上から脚の付け根をぎゅっと押さえる。指先が冷たい。早く、夏癸に言って、どうにかしないと。わかっているのに。閉じた口を開くことができない。
吐き気と尿意によって茜は限界ぎりぎりまで追い詰められていた。
(あ……だめ、吐きそう)
小さく身じろぐと、口の中に唾液が溢れてきた。もう我慢できない。慌てて助手席側のドアポケットに入っているビニール袋を一枚取り出す。胃の中身が迫り上がってくるのと袋を広げて口元に当てるのはほぼ同時だった。
「ぅ、ぇ……」
「茜っ……!?」
えずく声に気付いたのか、夏癸が慌てたように声を上げた。けれど運転中の彼には成す術がない。あまり食べていなかったこともあり、吐き出したものの量は少なかった。酸っぱい臭いが鼻先を掠める。袋で受け止めきれたのでドレスや車内は汚さずに済んだ。――けれど。
お腹に力が加わったせいか、じわりと下着が温かく濡れた。だめ、我慢しないといけないのに。両手が塞がっていて押さえられない。膀胱は勝手に収縮してしまい、じわじわと下着の中に熱が広がっていく。
(おしっこ……でちゃった……)
くぐもった水音が耳に入る。きっと夏癸にも聞こえているだろう。
溢れ出した温かな水が下着とドレスを突き抜け、お尻の下を濡らす。ストッキングに包まれた脚を伝って足元まで汚していく。ぴちゃぴちゃと、小さな音が床を叩く。早く終わってほしいのに、水音はなかなか止んでくれなかった。
先ほどまで張り詰めていた下腹部がすっかり軽くなっていく。やがて水音が止み、茜は浅い息を吐き出した。
座席のシートも、せっかく夏癸が買ってくれた綺麗なドレスもぐしょぐしょに濡れている。すっきりしたけれど気分は最悪だった。
「……ごめんなさい」
「いえ、私も気付かなくて、すみません」
嘔吐してしまった袋の口を縛ってから、泣きそうな声で小さく謝罪の言葉を呟く。俯いた顔は上げられない。夏癸の声もなんだか気まずそうだった。
「もう気分は悪くないですか?」
「はい……」
「でも、どこかで少し休みましょうか」
彼の提案に小さく頷く。吐き気は治まったけれど口の中は気持ち悪い。濡れた下半身も冷たくて、彼女の失敗をいやというほど突き付けてきた。
しばらく進むと渋滞を抜けたが、夏癸は手近な出口から一般道へ下りた。数分走ると駐車場のあるコンビニが見えたので車を入れる。「すぐに戻ってきますね」と言い、夏癸は店内に入っていった。
外の空気を吸いたいけれど濡れた恰好では車から出られない。少しだけ窓を開けて待っていると、夏癸は言葉通りすぐに戻ってきてくれた。
「とりあえず、口をゆすぎましょうか」
蓋を開けたペットボトルの水を手渡され、口を広げたビニール袋を差し出される。口の中をゆすいで袋の中に水を吐き出す。何度か繰り返すとようやく口の中がすっきりした。
「もう大丈夫ですか?」
「うん。……汚しちゃって、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ。それより、我慢させてしまってすみませんでした。言い出しづらかったですよね」
夏癸はペットボトルを受け取ってから、茜の頭を軽く撫でた。優しい声音も手つきもいつも通りの彼で、どうして先ほどは怖いなどと思ってしまったのか、不思議になってくる。
「着替えありますから、後ろで着替えましょうか」
「……持ってきてたんですか?」
「一応、念のために。勝手に持ってきてしまってすみません」
「ううん。ありがとう、ございます」
もしかして粗相することを想定されていたのかと思うと、たまらなく恥ずかしい。
でも濡れた服のままでいるのは嫌だったので正直助かる。後部座席に移動して、夏癸がトランクから出した着替えの入ったトートバッグを受け取る。
ペットボトルの水で濡らしたタオルも渡された。濡れた下着とストッキングを脱ぎ、冷たいのは少し我慢して汚れた下肢を拭く。下着を穿き替えて、バッグに入っていたワンピースに手早く着替えるとようやく気持ちが落ち着いた。
***
「茜、着きましたよ」
家の敷地に車を入れて、エンジンを止める。けれど、後部座席に座っている茜は動く気配がなかった。
「……茜?」
「夏癸さん、あの、お、おトイレ……っ」
肩越しに振り返ると、泣きそうな表情を浮かべた彼女と目が合った。
座席に座っている茜はワンピースの前を両手でぎゅっと押さえつけて、もじもじと膝を擦り合わせていた。途中立ち寄ったコンビニでトイレは借りたのだが、どうやら再び催して切羽詰まっているようだった。きっと立とうとすると危ういのだろう。
「ちょっとだけ、待っててくださいね」
急いで運転席を降り、まずは玄関を開けておく。それから後部座席のドアを開け、シートベルトを外してから茜をそっと抱き寄せるように車から降ろした。
「もう少しだけ頑張ってくださいね」
優しく声をかけつつ横抱きにした茜を急いでトイレまで連れていく。トイレの前で降ろしてドアを開けてやると、茜は慌てた様子で中に駆け込んだ。
ばたんとドアを閉め、ほどなくして便器を叩く水音が聞こえてきたので今度は間に合ったのだろう。
――よかった。これ以上、彼女を落ち込ませるようなことはしたくない。
「……はぁ」
授賞式後の己の態度を思い出して、思わずため息が零れた。
人前に立つことに対する緊張だとか煩わしさで、きっと自分で自覚している以上に不機嫌になっていた。――久々にあのような場に顔を出したことで、思い出したくない記憶が蘇ってしまったことも原因のひとつだろう。
強すぎる感受性がこんなときには嫌になる。
茜にも申し訳ないことをしてしまった。一緒に行きたいという彼女の意思を尊重したつもりだったが、慣れない場で緊張しただろうし、もしかしたら好奇の目に晒してしまったかもしれない。
帰り道でも可哀相なことをしてしまった。トイレに行きたいことも、具合が悪いことも言い出せないような雰囲気を自分は醸し出していたのだろう。今回の彼女の粗相は完全に自分のせいだ。
――大切にしたいと思っているのに、なかなかうまくいかない。
自分の不器用さを歯がゆく感じながら、夏癸はもう一度小さく息をついた。
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