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13.雨降りの帰り道
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連休明けの木曜日。降水確率二十パーセント、天気は晴れ時々曇り。朝の天気予報ではそう言っていて、雨は降らないと思っていたのに。
「もぉ……!!」
茜は誰に怒りをぶつけていいのかわからないまま、下校途中で突然降り始めた雨の中を急いで走っていた。強いて挙げるならいつもは鞄に入れているはずの折り畳み傘を持っていなかった自分に一番腹が立つかもしれない。
信号待ちの横断歩道で足を止める。その間にも雨は容赦なく降り注いでくる。信号が赤から青に変わる僅かな待ち時間。その間じっとしていることすら苦しくて、茜はその場で小さく内腿を擦り合わせた。
(漏れちゃう~~っ)
声には出せない叫びを心の内で叫ぶ。
雨が降りしきる学校からの帰り道。茜は抗いがたい生理的欲求に駆られていた。
学校を出る前からなんとなく尿意は感じていた。柚香は部活のミーティングがあり、なずなは体調不良で早退していたので今日は一人で帰るつもりだったので、帰る前にトイレに寄ろうとはしたのだ。
けれど帰りのホームルームが終わった直後の女子トイレはいつになく混雑していて、どんよりと重い雲が立ち込める空はいまにも雨が降り出しそうだった。
そのとき鞄の中身を確認したら折りたたみ傘を持っていないことに気付いた。トイレには行きたい気がするけれどまだ余裕はあるし、雨が降ってくる前に急いで家に帰ったほうがいいかもしれない。
そう判断した茜はトイレに行く選択肢を放棄して、走って帰宅することを選んだのだが、その選択は誤りだった。
学校を出て五分としないうちに雨は降り始めてしまったし、濡れて冷えた身体は急激に強い尿意を与えてきて、彼女を苦しめていた。
(もう、はやく……っ)
信号が青に変わり、ぱっと駆け出す。
しかし十メートルと走らないうちに、茜は速度を緩めてしまった。
走るのに疲れてしまったというのもあるが、それ以上に走っていると膀胱が刺激されて危うくなってきたのだ。
「どうしよぉ……」
焦った呟きが零れる。
早足で歩きながら、茜は家までの道のりを思い返してみた。あと半分くらいだから、歩いて十分ほど。我慢できるだろうか。不安に襲われる。
帰り道にはスーパーやコンビニ、ファーストフードの店舗もあるのだが、ずぶ濡れになったいまの状態で店内に入るのはどうしても躊躇ってしまう。とにかくできる限り急いで帰るしかない。
そう心に決めて、周囲に人目がないのを見回した茜はこっそりスカートの前を押さえた。
一瞬だけぎゅっと強く押さえつけると尿意の波が少しだけ引いていく。ぱっと手を離して、再び必死に足を進めた。
***
「もっ……だめ、でちゃう……っ」
ほとんど無意識の呟きが唇から漏れる。
家に着くまであと少し。茜は途中で押さえてからもう離せなくなった右手でおしっこの出口をぎゅっと押さえたまま、懸命に足を動かしていた。
雨足は強まる一方で、すっかり全身濡れ鼠だが幸いまだ下着に濡れた感触はない、はずだ。けれど歩くたびにお腹の奥がたぷんと揺れているような気がした。
(おしっこ……はやく……っ)
泣きそうになりながらもようやく家にたどり着いた。玄関に駆け寄り何も考えずに引き戸に手をかけるが、固い戸はびくともしなかった。
「あっ……鍵……!」
いつも玄関には施錠をしていることをすっかり失念していた。
鍵は鞄の中に入っているが、取り出している余裕はない。ばたばたとその場で地団駄を踏みながら慌ててインターホンを押す。数秒ののちに夏癸の声が聞こえた。
『……はい』
「夏癸さん、鍵あけて、はやくっ」
『茜……!?』
驚いた声が聞こえたかと思うと、すぐにぱたぱたと足早に廊下を歩いてくる音が聞こえてきた。
ガチャリと鍵を開ける重い音が聞こえて思わず安心した瞬間、じわ……と下着が濡れるのを感じた。
「やだ、やっ……!」
ぎゅうっと押さえる手に力を込める。我慢しているつもりなのに、じんじんと痺れるような感覚がしてよくわからなくなる。冷えのせいだけでなく身体が小刻みに震えてくる。
がらがらと玄関の引き戸が開かれた。
「どうし――」
「ごめんなさい、トイレ……!!」
彼女の姿を見て目を瞠った夏癸が口を開くより早く、茜は彼の脇をすり抜けた。
慌てて靴を脱ぎ捨てて、鞄も玄関に放った。廊下に水滴が滴り落ちるのも構わずに足を急がせるが、その間にも押さえた手のひらがじわじわと温かく濡れていく。
「ぁっ……!」
トイレのドアを目の前にして、突然、濡れた靴下が滑って尻もちをついてしまった。
「~~~~っ」
臀部に痛みが走る。同時に膀胱が収縮するのを感じた。とっさに両手で内股の間を押さえつけるものの、もはや抵抗に意味はなく、溢れた水流が手のひらに熱を広げるだけだった。
ぴちゃぴちゃ、と小さな水音が床を叩く。
押さえた指の隙間から流れた温かな液体がお尻の下に水溜まりを作っていく。溢れ出したものは止まらない。
(おしっこ……でちゃったぁ……)
やっちゃった。でも、温かい。気持ちいい。
我慢の末に得た解放感に、茜は背筋を震わせた。
水音が鳴り止むと、茜はほとんど無意識に息を吐き出した。ぶるりと全身を大きく震わせる。
頬を紅潮させて茫然としていた茜だったが、足元の惨状を目の当たりにしてさあっと血の気が引いた。温かいと思った液体はすでに冷え切ってしまい、下肢にまとわりついて不快感だけを与えてくる。
「……っ」
鼻をつく独特のにおいに、堪えきれず茜は泣き出してしまった。
「茜、大丈夫……じゃ、ないみたいですね……」
駆け寄ってきた夏癸が語尾を濁らせる。茜は顔をくしゃくしゃにして嗚咽を漏らした。
「ご、ごめ、なさ……」
へたり込んだまま泣いている茜の横を夏癸は素通りしていく。
――もしかして、呆れられてしまった?
彼の行動を見て不安に押し潰されそうになっていると、すぐに戻ってきた夏癸は茜の頭の上からバスタオルを被せた。濡れた髪をわしゃわしゃと拭かれる。
「まったく、ずぶ濡れじゃないですか」
頭上から降ってきた声。呆れたような声音にはそれでも優しさが感じられる。
「立てますか?」
茜は俯いたまま小さく頷いた。けれど身体に力が入らない。夏癸はタオル越しに頭をひと撫ですると、後ろから両脇の下に腕を差し入れて抱き上げるように茜を立たせてくれた。
ぐっしょりと濡れたスカートからぼたぼたと雫が滴り落ちる。濡れた靴下を脱ぐように言われ、茜は促されるまま水分を吸った白いハイソックをその場で脱いだ。
そのままバスタオルで濡れた全身を拭われる。すっかり冷え切った身体を彼に預けてされるがままになっていた。
「お風呂入って、温まっておいで」
とん、と優しく背中を押されて促される。けれど茜は小さく首を振った。
「わたし、掃除します」
「私が片付けておきますから。大丈夫ですよ」
「でも……」
「だめですよ、こんなに身体が冷えているんですから。風邪をひきますよ」
たしなめるような声色に、それ以上は何も言えなくなってしまう。茜は渋々と頷いた。
夏癸は怒っているわけではなく彼女を気遣ってくれているのだということはちゃんとわかっているから。
茜は重い足取りでとぼとぼと浴室に歩いていった。
***
三つ編みにしていた髪をほどいて、濡れて肌に張り付いたセーラー服をのろのろと脱ぐ。制服を汚してしまったのは随分と久しぶりだ。ずんと胸の奥が重たくなる。家で洗濯をしても問題ない制服なので、畳んでネットに入れてから洗濯機に入れる。
(……びしょびしょ)
水気を吸って重くなったスカートのファスナーを下ろす。おしっこで汚してしまったスカートをそのまま洗濯機に入れるわけにはいかない。下着も脱いでスカートとともに腕に抱える。
風呂場に足を踏み入れると浴槽にお湯を張る太い水音が耳に入った。先ほど夏癸が準備しておいてくれたのだろう。お湯は半分よりちょっと少ないくらいに溜まっていた。
お湯をいったん止めて、シャワーから出したぬるい水でスカートの汚れをしっかり洗い流す。両手で軽く押し付けるようにして水気を絞ってから、下着も手洗いする。再びお湯を溜めている間に脱衣所を兼ねている洗面所に戻った。
洗濯ネットに入れたスカートを洗濯機に放り込み、洗った下着は小さめの物干しハンガーに干しておく。裸のままそんなことをしているとぶるっと肩が震えた。早く身体を温めようと再び風呂場に足を踏み入れる。
洗面器でお湯を汲んで足にかける。ちょっと熱かったけれど、その熱いお湯の感触のおかげで少しだけ気持ちを切り替えることができた。
風呂椅子に腰を落ち着けて、ボディタオルに石鹸を泡立てる。清潔感のある優しい香りが鼻先をくすぐった。身体を洗っているとちょうどいい具合にお湯が溜まっていた。
手を入れて温度を確認する。浸かるにはちょっと熱い気がしたので、少しだけ水で薄めて温度を調整する。ちょうどいい温度になったのを確認し、湿った髪をヘアゴムで軽くひとつにまとめて湯船に入った。
温かな心地良さにほうっと息をつく。
気持ちが落ち着くのと同時にじわじわと恥ずかしさに襲われてきて、茜はお湯の中で膝を抱え込んだ。
(うぅ……また、やっちゃった……)
身体が温まって血行が良くなってきたことだけが理由ではなく頬が熱を持つ。
膝頭に額を押し付けてしばらくの間うううと唸っていた茜だが、軽く頭を振って顔を上げた。髪を洗って気分を変えよう、と浴槽から立ち上がる。
頭からシャワーを浴びて、濡らした髪にシャンプーを泡立てる。しっかりと泡を流したらトリートメントを染み込ませた。ぬるま湯で洗い流した髪を頭上でまとめて再び湯船にゆっくりと浸かる。
身体の芯まで温まってくると、ふいにお腹の奥がむずむずした。
「……ん」
どうしよう。困った。おしっこがしたくなってしまった。普段なら入浴前にトイレを済ませておくのに今日はあんなことがあったから失念していた。
(だめ、だめ、我慢しないと。上がったらすぐに行こう)
もう少し身体を温めたらすぐにトイレに向かおうと思い、肩まで身体を沈める。
けれど一分も経たないうちに茜はざばっと湯船から上がった。
(む、無理……我慢できない……!)
急に込み上げてきた尿意に困惑しながらも、滑らないよう足元に気を付けて脱衣所へ向かう。急いで身体を拭こうとしたが、浴室との温度差のせいかぞくぞくと身体が震えた。
だめだ。身体を拭いて、服を着てトイレに、なんてとても我慢できそうにない。
このままタオルだけ巻いて行ったとしても、また間に合わなくて廊下を汚してしまうかもしれない。それは絶対に嫌だ。
茜はちらりと浴室に視線を向けた。
タイル張りの床。汚してしまっても、すぐに洗い流せる。本当はいけないことだとわかっている。だけど。
茜はおずおずと洗い場に足を踏み入れた。なるべく汚さないようにと排水溝の上にしゃがむ。
(ごめんなさい……!!)
腰を落とした瞬間、しょろっと薄黄色の液体が弧を描いた。ぱちゃぱちゃと音を立てて、排水溝に流れ落ちていく。
「……っ」
誰に見られているわけでもないのに羞恥に頰が染まる。
ものの数秒で排尿は終わり、茜は真っ赤な顔で下肢を洗うと念入りに風呂場の床を掃除した。
「くしゅっ」
小さなくしゃみが出る。せっかく温まった身体がまた冷えてしまった。
もう一度身体を温めようとお湯に浸かるが、なんだか落ち着いて入っていられずすぐに上がってしまった。
身体を拭いて楽なパーカーの部屋着に着替える。すぐに髪を乾かす気にはなれず、とりあえず頭からタオルを被っておいた。
軽く息をついて、茜はタオルを被ったまま廊下に出た。トイレの前を通りがかると、汚してしまった床は綺麗に片付けられていた。
重い足取りで廊下を歩いていき、居間の襖を開ける。
座卓に座った夏癸が真剣な表情でノートパソコンに向かっていた。仕事の邪魔をしてしまったんだ、とずうんと胸が重くなる。
茜が部屋に入ってきたことに気付いた夏癸はすぐに顔を上げた。彼女の姿を目にして眉をひそめる。
「こら、髪濡れたままじゃないですか。ちゃんと乾かさないと」
小言を言いながら立ち上がる。部屋を出ようとした夏癸は、すれ違いざまにふと茜の顔を覗き込んだ。
「のぼせてしまいました?」
優しく問われた声にぶんぶんと首を振る。けれどその顔が紅潮していることは自分でもよくわかる。
のぼせたわけではないので理由は言えない。
夏癸は僅かに首を傾げつつも、廊下へ出ていく。茜はのろのろと足を進めて、畳の上にぺたんと腰を下ろした。
***
洗面所にドライヤーを取りに行った夏癸は、居間に戻ると壁際にあるコンセントにプラグを挿した。
「茜、こっちにおいで」
髪を濡らしたまま座卓の前に座っていた茜に手招きする。茜はおもむろに立ち上がると彼に背を向けて両膝をついた。
元気がない。急いで帰って来たのに間に合わなかったことがショックだったろうから無理もないだろう。
傘を持っていないのなら学校から連絡をくれたら車で迎えに行ってあげられたのだが、そこまでは頭が回らなかったのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えつつドライヤーの電源を入れ、彼女の髪をタオルで拭きながら温風で乾かす。茜はおとなしい様子でじっと座っていた。背中まで届く茜の髪が完璧に乾いたのを確認してドライヤーを止める。
「なにか温かいもの飲みますか?」
プラグを抜きながら訊ねると、小さな頷きが返ってきた。
ドライヤーを片付けてくると言う彼女を見送り台所に立つ。
戸棚からティーバッグの紅茶を取り出す。茜が最近気に入っているフルーツのフレーバーティーだ。熱湯を注いで規定の時間を待つと、苺の甘い香りがふわりと広がった。
甘くしたほうがいいだろうと蜂蜜を入れて、紅茶を淹れたマグカップを持っていく。
居間に戻っていた茜は座卓の傍らで膝を抱えていた。目の前にコトン、とカップを置く。
「……ありがとうございます」
茜は口元を緩めて手を伸ばした。両手でマグカップを抱えて、ふうふうと息を吹きかける。
夏癸は再びパソコンの前に腰を下ろした。自分のカップに入れていた少し冷めた緑茶に口をつける。
カップを傾けてこくんと喉を鳴らす茜を見るともなしに眺めていたが、なんとなく彼女の顔色があまり良くないことが気にかかった。
「茜、大丈夫ですか。気分でも悪いんですか?」
心配になって口を開く。茜はぴたりと動きを止めると、何か言いたげに唇をもごもごと動かして目を伏せた。マグカップを持つ両手が小さく震えている。
「あ、あの……」
「ん?」
「夏癸さん、ごめんなさい。あの、わたし、あの……」
突然、ぼろぼろと泣き出した茜にぎょっとする。
「ちょっと、茜? どうしたんですか?」
夏癸は慌てて立ち上がると、彼女の傍らに膝をついた。
何の脈絡もなく泣き出した茜にさすがの夏癸も困惑していた。戸惑いながらも、とにかく落ち着かせようと腕を伸ばす。背中を撫でようとして、水面を揺らしているマグカップを茜の手からそっと取り上げた。零すといけないので座卓の上に置いておく。
改めて背中をさすると、茜は腕の中で嗚咽を漏らした。ひっくひっくと泣きじゃくりながら、言いづらそうに唇を開く。
「あの……お、お風呂で、おしっこしちゃいました……ごめんなさい……」
消え入りそうな声で茜は途切れ途切れに告げた。恥ずかしいのか、耳まで真っ赤に染めて。
「……え?」
「さ、さっき……お風呂、入ってたら、我慢、できなくって、ごめん、なさっ……」
予想外の告白をされて呆気に取られていた夏癸だが、声を詰まらせた茜が静かにしゃくり上げているのを見て慌てて我に返った。
震えている彼女の髪を優しい手つきでそっと撫でる。
「そんなに泣かないでください。その……あまりしていいことではないですけど、我慢できなかったのなら仕方ないですよ」
というか黙っていれば自分は何も知らなかったのに……と夏癸は内心苦笑する。
けれど彼女は罪悪感を覚えて黙っていられなかったのだろうと察する。そんな律儀なところがまたかわいらしくて愛おしい。泣き続けている茜をよしよしと慰める。
「トイレまで間に合わなくて、廊下を汚してしまうのが嫌でしたか?」
問いかけてみると、茜はうっと押し黙った。沈黙ののちにこくんと頷く。
「べつに汚してしまってもいいですよ、うちの中ではね。でも、外ではなるべく気を付けましょうね?」
「わかってるもん……」
拗ねたような茜の声につい苦笑してしまう。
「そうですね、すみません」
そうだ。彼女はいつも家の外ではとくにトイレに気を付けているのに、何かのタイミングが悪いと今日のように酷い我慢の末に失敗をしてしまう。
そんな茜の粗相を夏癸が怒ったことは一度もない。場合によってはたしなめることはするものの、頭ごなしに叱りつけるようなことはおもらし以外の事柄に関してもほとんどしたことがなかった。
真っ赤な顔で涙を零す茜を見ていて怒る気などしないというのが一番の理由だが、そもそも茜は引き取った頃にはしっかりと物事の分別がつけられる子だったので、怒らなければならないような事態に陥ったことがほとんどない。
叱責して萎縮させたくない。優しくしてやりたい。甘えさせてあげたい。――そう考えてしまうのは、もしかしたら保護者としては間違っているかもしれない。
けれども、茜が安心できる居場所になることが自分の役目だと、夏癸は考えている。
――それが、彼女の母親から託された『お願い』だ。
「大丈夫ですよ、そんなことで茜を嫌いになったりしませんから」
茜が泣き止むまで、夏癸は優しく彼女の頭を撫でていた。
「もぉ……!!」
茜は誰に怒りをぶつけていいのかわからないまま、下校途中で突然降り始めた雨の中を急いで走っていた。強いて挙げるならいつもは鞄に入れているはずの折り畳み傘を持っていなかった自分に一番腹が立つかもしれない。
信号待ちの横断歩道で足を止める。その間にも雨は容赦なく降り注いでくる。信号が赤から青に変わる僅かな待ち時間。その間じっとしていることすら苦しくて、茜はその場で小さく内腿を擦り合わせた。
(漏れちゃう~~っ)
声には出せない叫びを心の内で叫ぶ。
雨が降りしきる学校からの帰り道。茜は抗いがたい生理的欲求に駆られていた。
学校を出る前からなんとなく尿意は感じていた。柚香は部活のミーティングがあり、なずなは体調不良で早退していたので今日は一人で帰るつもりだったので、帰る前にトイレに寄ろうとはしたのだ。
けれど帰りのホームルームが終わった直後の女子トイレはいつになく混雑していて、どんよりと重い雲が立ち込める空はいまにも雨が降り出しそうだった。
そのとき鞄の中身を確認したら折りたたみ傘を持っていないことに気付いた。トイレには行きたい気がするけれどまだ余裕はあるし、雨が降ってくる前に急いで家に帰ったほうがいいかもしれない。
そう判断した茜はトイレに行く選択肢を放棄して、走って帰宅することを選んだのだが、その選択は誤りだった。
学校を出て五分としないうちに雨は降り始めてしまったし、濡れて冷えた身体は急激に強い尿意を与えてきて、彼女を苦しめていた。
(もう、はやく……っ)
信号が青に変わり、ぱっと駆け出す。
しかし十メートルと走らないうちに、茜は速度を緩めてしまった。
走るのに疲れてしまったというのもあるが、それ以上に走っていると膀胱が刺激されて危うくなってきたのだ。
「どうしよぉ……」
焦った呟きが零れる。
早足で歩きながら、茜は家までの道のりを思い返してみた。あと半分くらいだから、歩いて十分ほど。我慢できるだろうか。不安に襲われる。
帰り道にはスーパーやコンビニ、ファーストフードの店舗もあるのだが、ずぶ濡れになったいまの状態で店内に入るのはどうしても躊躇ってしまう。とにかくできる限り急いで帰るしかない。
そう心に決めて、周囲に人目がないのを見回した茜はこっそりスカートの前を押さえた。
一瞬だけぎゅっと強く押さえつけると尿意の波が少しだけ引いていく。ぱっと手を離して、再び必死に足を進めた。
***
「もっ……だめ、でちゃう……っ」
ほとんど無意識の呟きが唇から漏れる。
家に着くまであと少し。茜は途中で押さえてからもう離せなくなった右手でおしっこの出口をぎゅっと押さえたまま、懸命に足を動かしていた。
雨足は強まる一方で、すっかり全身濡れ鼠だが幸いまだ下着に濡れた感触はない、はずだ。けれど歩くたびにお腹の奥がたぷんと揺れているような気がした。
(おしっこ……はやく……っ)
泣きそうになりながらもようやく家にたどり着いた。玄関に駆け寄り何も考えずに引き戸に手をかけるが、固い戸はびくともしなかった。
「あっ……鍵……!」
いつも玄関には施錠をしていることをすっかり失念していた。
鍵は鞄の中に入っているが、取り出している余裕はない。ばたばたとその場で地団駄を踏みながら慌ててインターホンを押す。数秒ののちに夏癸の声が聞こえた。
『……はい』
「夏癸さん、鍵あけて、はやくっ」
『茜……!?』
驚いた声が聞こえたかと思うと、すぐにぱたぱたと足早に廊下を歩いてくる音が聞こえてきた。
ガチャリと鍵を開ける重い音が聞こえて思わず安心した瞬間、じわ……と下着が濡れるのを感じた。
「やだ、やっ……!」
ぎゅうっと押さえる手に力を込める。我慢しているつもりなのに、じんじんと痺れるような感覚がしてよくわからなくなる。冷えのせいだけでなく身体が小刻みに震えてくる。
がらがらと玄関の引き戸が開かれた。
「どうし――」
「ごめんなさい、トイレ……!!」
彼女の姿を見て目を瞠った夏癸が口を開くより早く、茜は彼の脇をすり抜けた。
慌てて靴を脱ぎ捨てて、鞄も玄関に放った。廊下に水滴が滴り落ちるのも構わずに足を急がせるが、その間にも押さえた手のひらがじわじわと温かく濡れていく。
「ぁっ……!」
トイレのドアを目の前にして、突然、濡れた靴下が滑って尻もちをついてしまった。
「~~~~っ」
臀部に痛みが走る。同時に膀胱が収縮するのを感じた。とっさに両手で内股の間を押さえつけるものの、もはや抵抗に意味はなく、溢れた水流が手のひらに熱を広げるだけだった。
ぴちゃぴちゃ、と小さな水音が床を叩く。
押さえた指の隙間から流れた温かな液体がお尻の下に水溜まりを作っていく。溢れ出したものは止まらない。
(おしっこ……でちゃったぁ……)
やっちゃった。でも、温かい。気持ちいい。
我慢の末に得た解放感に、茜は背筋を震わせた。
水音が鳴り止むと、茜はほとんど無意識に息を吐き出した。ぶるりと全身を大きく震わせる。
頬を紅潮させて茫然としていた茜だったが、足元の惨状を目の当たりにしてさあっと血の気が引いた。温かいと思った液体はすでに冷え切ってしまい、下肢にまとわりついて不快感だけを与えてくる。
「……っ」
鼻をつく独特のにおいに、堪えきれず茜は泣き出してしまった。
「茜、大丈夫……じゃ、ないみたいですね……」
駆け寄ってきた夏癸が語尾を濁らせる。茜は顔をくしゃくしゃにして嗚咽を漏らした。
「ご、ごめ、なさ……」
へたり込んだまま泣いている茜の横を夏癸は素通りしていく。
――もしかして、呆れられてしまった?
彼の行動を見て不安に押し潰されそうになっていると、すぐに戻ってきた夏癸は茜の頭の上からバスタオルを被せた。濡れた髪をわしゃわしゃと拭かれる。
「まったく、ずぶ濡れじゃないですか」
頭上から降ってきた声。呆れたような声音にはそれでも優しさが感じられる。
「立てますか?」
茜は俯いたまま小さく頷いた。けれど身体に力が入らない。夏癸はタオル越しに頭をひと撫ですると、後ろから両脇の下に腕を差し入れて抱き上げるように茜を立たせてくれた。
ぐっしょりと濡れたスカートからぼたぼたと雫が滴り落ちる。濡れた靴下を脱ぐように言われ、茜は促されるまま水分を吸った白いハイソックをその場で脱いだ。
そのままバスタオルで濡れた全身を拭われる。すっかり冷え切った身体を彼に預けてされるがままになっていた。
「お風呂入って、温まっておいで」
とん、と優しく背中を押されて促される。けれど茜は小さく首を振った。
「わたし、掃除します」
「私が片付けておきますから。大丈夫ですよ」
「でも……」
「だめですよ、こんなに身体が冷えているんですから。風邪をひきますよ」
たしなめるような声色に、それ以上は何も言えなくなってしまう。茜は渋々と頷いた。
夏癸は怒っているわけではなく彼女を気遣ってくれているのだということはちゃんとわかっているから。
茜は重い足取りでとぼとぼと浴室に歩いていった。
***
三つ編みにしていた髪をほどいて、濡れて肌に張り付いたセーラー服をのろのろと脱ぐ。制服を汚してしまったのは随分と久しぶりだ。ずんと胸の奥が重たくなる。家で洗濯をしても問題ない制服なので、畳んでネットに入れてから洗濯機に入れる。
(……びしょびしょ)
水気を吸って重くなったスカートのファスナーを下ろす。おしっこで汚してしまったスカートをそのまま洗濯機に入れるわけにはいかない。下着も脱いでスカートとともに腕に抱える。
風呂場に足を踏み入れると浴槽にお湯を張る太い水音が耳に入った。先ほど夏癸が準備しておいてくれたのだろう。お湯は半分よりちょっと少ないくらいに溜まっていた。
お湯をいったん止めて、シャワーから出したぬるい水でスカートの汚れをしっかり洗い流す。両手で軽く押し付けるようにして水気を絞ってから、下着も手洗いする。再びお湯を溜めている間に脱衣所を兼ねている洗面所に戻った。
洗濯ネットに入れたスカートを洗濯機に放り込み、洗った下着は小さめの物干しハンガーに干しておく。裸のままそんなことをしているとぶるっと肩が震えた。早く身体を温めようと再び風呂場に足を踏み入れる。
洗面器でお湯を汲んで足にかける。ちょっと熱かったけれど、その熱いお湯の感触のおかげで少しだけ気持ちを切り替えることができた。
風呂椅子に腰を落ち着けて、ボディタオルに石鹸を泡立てる。清潔感のある優しい香りが鼻先をくすぐった。身体を洗っているとちょうどいい具合にお湯が溜まっていた。
手を入れて温度を確認する。浸かるにはちょっと熱い気がしたので、少しだけ水で薄めて温度を調整する。ちょうどいい温度になったのを確認し、湿った髪をヘアゴムで軽くひとつにまとめて湯船に入った。
温かな心地良さにほうっと息をつく。
気持ちが落ち着くのと同時にじわじわと恥ずかしさに襲われてきて、茜はお湯の中で膝を抱え込んだ。
(うぅ……また、やっちゃった……)
身体が温まって血行が良くなってきたことだけが理由ではなく頬が熱を持つ。
膝頭に額を押し付けてしばらくの間うううと唸っていた茜だが、軽く頭を振って顔を上げた。髪を洗って気分を変えよう、と浴槽から立ち上がる。
頭からシャワーを浴びて、濡らした髪にシャンプーを泡立てる。しっかりと泡を流したらトリートメントを染み込ませた。ぬるま湯で洗い流した髪を頭上でまとめて再び湯船にゆっくりと浸かる。
身体の芯まで温まってくると、ふいにお腹の奥がむずむずした。
「……ん」
どうしよう。困った。おしっこがしたくなってしまった。普段なら入浴前にトイレを済ませておくのに今日はあんなことがあったから失念していた。
(だめ、だめ、我慢しないと。上がったらすぐに行こう)
もう少し身体を温めたらすぐにトイレに向かおうと思い、肩まで身体を沈める。
けれど一分も経たないうちに茜はざばっと湯船から上がった。
(む、無理……我慢できない……!)
急に込み上げてきた尿意に困惑しながらも、滑らないよう足元に気を付けて脱衣所へ向かう。急いで身体を拭こうとしたが、浴室との温度差のせいかぞくぞくと身体が震えた。
だめだ。身体を拭いて、服を着てトイレに、なんてとても我慢できそうにない。
このままタオルだけ巻いて行ったとしても、また間に合わなくて廊下を汚してしまうかもしれない。それは絶対に嫌だ。
茜はちらりと浴室に視線を向けた。
タイル張りの床。汚してしまっても、すぐに洗い流せる。本当はいけないことだとわかっている。だけど。
茜はおずおずと洗い場に足を踏み入れた。なるべく汚さないようにと排水溝の上にしゃがむ。
(ごめんなさい……!!)
腰を落とした瞬間、しょろっと薄黄色の液体が弧を描いた。ぱちゃぱちゃと音を立てて、排水溝に流れ落ちていく。
「……っ」
誰に見られているわけでもないのに羞恥に頰が染まる。
ものの数秒で排尿は終わり、茜は真っ赤な顔で下肢を洗うと念入りに風呂場の床を掃除した。
「くしゅっ」
小さなくしゃみが出る。せっかく温まった身体がまた冷えてしまった。
もう一度身体を温めようとお湯に浸かるが、なんだか落ち着いて入っていられずすぐに上がってしまった。
身体を拭いて楽なパーカーの部屋着に着替える。すぐに髪を乾かす気にはなれず、とりあえず頭からタオルを被っておいた。
軽く息をついて、茜はタオルを被ったまま廊下に出た。トイレの前を通りがかると、汚してしまった床は綺麗に片付けられていた。
重い足取りで廊下を歩いていき、居間の襖を開ける。
座卓に座った夏癸が真剣な表情でノートパソコンに向かっていた。仕事の邪魔をしてしまったんだ、とずうんと胸が重くなる。
茜が部屋に入ってきたことに気付いた夏癸はすぐに顔を上げた。彼女の姿を目にして眉をひそめる。
「こら、髪濡れたままじゃないですか。ちゃんと乾かさないと」
小言を言いながら立ち上がる。部屋を出ようとした夏癸は、すれ違いざまにふと茜の顔を覗き込んだ。
「のぼせてしまいました?」
優しく問われた声にぶんぶんと首を振る。けれどその顔が紅潮していることは自分でもよくわかる。
のぼせたわけではないので理由は言えない。
夏癸は僅かに首を傾げつつも、廊下へ出ていく。茜はのろのろと足を進めて、畳の上にぺたんと腰を下ろした。
***
洗面所にドライヤーを取りに行った夏癸は、居間に戻ると壁際にあるコンセントにプラグを挿した。
「茜、こっちにおいで」
髪を濡らしたまま座卓の前に座っていた茜に手招きする。茜はおもむろに立ち上がると彼に背を向けて両膝をついた。
元気がない。急いで帰って来たのに間に合わなかったことがショックだったろうから無理もないだろう。
傘を持っていないのなら学校から連絡をくれたら車で迎えに行ってあげられたのだが、そこまでは頭が回らなかったのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えつつドライヤーの電源を入れ、彼女の髪をタオルで拭きながら温風で乾かす。茜はおとなしい様子でじっと座っていた。背中まで届く茜の髪が完璧に乾いたのを確認してドライヤーを止める。
「なにか温かいもの飲みますか?」
プラグを抜きながら訊ねると、小さな頷きが返ってきた。
ドライヤーを片付けてくると言う彼女を見送り台所に立つ。
戸棚からティーバッグの紅茶を取り出す。茜が最近気に入っているフルーツのフレーバーティーだ。熱湯を注いで規定の時間を待つと、苺の甘い香りがふわりと広がった。
甘くしたほうがいいだろうと蜂蜜を入れて、紅茶を淹れたマグカップを持っていく。
居間に戻っていた茜は座卓の傍らで膝を抱えていた。目の前にコトン、とカップを置く。
「……ありがとうございます」
茜は口元を緩めて手を伸ばした。両手でマグカップを抱えて、ふうふうと息を吹きかける。
夏癸は再びパソコンの前に腰を下ろした。自分のカップに入れていた少し冷めた緑茶に口をつける。
カップを傾けてこくんと喉を鳴らす茜を見るともなしに眺めていたが、なんとなく彼女の顔色があまり良くないことが気にかかった。
「茜、大丈夫ですか。気分でも悪いんですか?」
心配になって口を開く。茜はぴたりと動きを止めると、何か言いたげに唇をもごもごと動かして目を伏せた。マグカップを持つ両手が小さく震えている。
「あ、あの……」
「ん?」
「夏癸さん、ごめんなさい。あの、わたし、あの……」
突然、ぼろぼろと泣き出した茜にぎょっとする。
「ちょっと、茜? どうしたんですか?」
夏癸は慌てて立ち上がると、彼女の傍らに膝をついた。
何の脈絡もなく泣き出した茜にさすがの夏癸も困惑していた。戸惑いながらも、とにかく落ち着かせようと腕を伸ばす。背中を撫でようとして、水面を揺らしているマグカップを茜の手からそっと取り上げた。零すといけないので座卓の上に置いておく。
改めて背中をさすると、茜は腕の中で嗚咽を漏らした。ひっくひっくと泣きじゃくりながら、言いづらそうに唇を開く。
「あの……お、お風呂で、おしっこしちゃいました……ごめんなさい……」
消え入りそうな声で茜は途切れ途切れに告げた。恥ずかしいのか、耳まで真っ赤に染めて。
「……え?」
「さ、さっき……お風呂、入ってたら、我慢、できなくって、ごめん、なさっ……」
予想外の告白をされて呆気に取られていた夏癸だが、声を詰まらせた茜が静かにしゃくり上げているのを見て慌てて我に返った。
震えている彼女の髪を優しい手つきでそっと撫でる。
「そんなに泣かないでください。その……あまりしていいことではないですけど、我慢できなかったのなら仕方ないですよ」
というか黙っていれば自分は何も知らなかったのに……と夏癸は内心苦笑する。
けれど彼女は罪悪感を覚えて黙っていられなかったのだろうと察する。そんな律儀なところがまたかわいらしくて愛おしい。泣き続けている茜をよしよしと慰める。
「トイレまで間に合わなくて、廊下を汚してしまうのが嫌でしたか?」
問いかけてみると、茜はうっと押し黙った。沈黙ののちにこくんと頷く。
「べつに汚してしまってもいいですよ、うちの中ではね。でも、外ではなるべく気を付けましょうね?」
「わかってるもん……」
拗ねたような茜の声につい苦笑してしまう。
「そうですね、すみません」
そうだ。彼女はいつも家の外ではとくにトイレに気を付けているのに、何かのタイミングが悪いと今日のように酷い我慢の末に失敗をしてしまう。
そんな茜の粗相を夏癸が怒ったことは一度もない。場合によってはたしなめることはするものの、頭ごなしに叱りつけるようなことはおもらし以外の事柄に関してもほとんどしたことがなかった。
真っ赤な顔で涙を零す茜を見ていて怒る気などしないというのが一番の理由だが、そもそも茜は引き取った頃にはしっかりと物事の分別がつけられる子だったので、怒らなければならないような事態に陥ったことがほとんどない。
叱責して萎縮させたくない。優しくしてやりたい。甘えさせてあげたい。――そう考えてしまうのは、もしかしたら保護者としては間違っているかもしれない。
けれども、茜が安心できる居場所になることが自分の役目だと、夏癸は考えている。
――それが、彼女の母親から託された『お願い』だ。
「大丈夫ですよ、そんなことで茜を嫌いになったりしませんから」
茜が泣き止むまで、夏癸は優しく彼女の頭を撫でていた。
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