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12.夕方の訪問者
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大型連休の初日。茜が図書館から帰ってくると、玄関に夏癸のものではない男物の靴があった。
夏癸の家には、時折、出版社の人が訪ねてくる。そういうとき茜は邪魔にならないように自分の部屋にいるようにしていた。
静かに居間の前を通り過ぎようとするが、室内から聞こえてくる声に覚えがあり思わず足を止めた。間髪入れずに襖が開く。
「あ、やっぱり、茜ちゃんだ。おかえりー」
顔を覗かせた男性には面識があった。
「豊さん! こんにちはっ」
見知った顔に緊張していた顔がほころぶ。来訪していたのは夏癸の友人で、イラストレーターをしている藤村豊だった。夏癸の本の装画も何作も描いている。
「おかえりなさい。ケーキがありますから、手洗っておいで」
「はぁい」
夏癸に促され、手洗いうがいをしてトイレも済ませてから、自室で普段着に着替えて居間に戻った。
「はい、茜ちゃんどっちがいい?」
腰を下ろすと、座卓を挟んで向かいに座っている豊が小ぶりのケーキボックスを差し出してきた。中に入っていたのは個包装されたロールケーキだった。チョコといちごの二種類ある。
「あっ、ここのケーキおいしいって聞きました」
箱に印刷されている店名には覚えがあった。抹茶スイーツをこよなく愛するなずなが抹茶ロールケーキがおいしかったと以前話していたのを思い出す。
「なずなちゃんが、抹茶のがおいしかったって……」
「あー、なんか五種類くらいあってどれがいいか迷ったんだけど、抹茶がよかった?」
「いいえ、大丈夫ですっ。あ、でも豊さんの分は……?」
「俺は甘いもの食べないから。夏癸もどっちでもいいって、だから茜ちゃん先にどうぞ」
「えーっと……」
チョコもいちごもおいしそうで迷ってしまう。数秒考えた末に、見た目の可愛らしさに惹かれていちごを選んだ。
「豊さん、今日はどうしたんですか?」
淡いピンク色の生地をフォークで小さく切りながら訊ねる。豊が家を訪れるのは久しぶりだった。
「打ち合わせだよ打ち合わせー」
「夕飯をたかりにきただけですよ」
どこかぞんざいにあしらいながらも、夏癸は機嫌が良さそうにケーキを口に運んだ。彼は甘いものが好きなほうだ。そんな姿を思わずじっと見つめていると、彼はふと手を止めてこちらに視線を向けた。
「……一口食べますか?」
「え、あ、そんなつもりじゃ」
物欲しげな視線に見えていたのだろうかと思うと恥ずかしい。けれど夏癸は軽く微笑んで、ケーキを一口分すくったフォークを茜の口元に差し出した。
「どうぞ」
「あ、ぅ、いただきます」
ここまでされて断るわけにもいかず、ぱくっと口に入れてしまう。ココア風味の甘さ控えめな生地と濃厚なチョコクリームの味のバランスが良くておいしい。
「チョコも、おいしいですねっ。じゃあ、わたしのもどうぞ」
「ありがとうございます」
自分だけもらうわけにはいかないので、茜はいちごロールケーキの載った皿を夏癸のほうに向けた。彼のようにフォークを差し出すことはできない。
夏癸は茜の食べかけのケーキの端を少しだけ切って口に入れると、「いちごもおいしいですね」と言って皿を返してくれた。
ふと視線を感じて顔を上げると、豊が微笑ましいものを見るような表情を浮かべていた。急に顔が熱くなってくる。茜は俯いて自分の分のケーキを食べることに集中した。
いちごの風味があるロールケーキの生地はふわふわで、柔らかなホイップクリームは上品な甘さがある。クリームに挟まれたいちごと一緒に口に入れると、ほどよい酸味と甘みが口の中に広がった。チョコもおいしかったけれど、いちごのほうが茜の好みに合う。
「どう、おいしい?」
「はい、とっても!」
コーヒーだけを口にしている豊に問われ、笑みを返した。まだ少し頬が熱い。
癖のある明るい茶髪にピアスをいくつも開けている派手な見た目の豊と初めて会ったときは怖い人かと思ってしまったのだが、話してみると優しい人だった。夏癸以外の男性に対しては少し苦手意識があるのだが、彼とはあまり緊張せずに話ができる。
「ケーキ、ありがとうございます」
「お礼なんていいよ。代わりに、夏癸のおいしいごはんをご馳走してもらうから」
「……買い物してきます」
ロールケーキを食べ終えた夏癸は、軽く息をついて立ち上がった。
「手伝おうか?」
「大丈夫です。茜と留守番していてください」
「りょーかい。ちなみに俺は肉が食べたい」
「考えておきます」
自分の皿やカップを片付け、外出する支度をした夏癸は出かける間際にそっと居間を覗いた。
「茜、それの相手が嫌になったら放っておいて部屋にいていいですからね」
「は、はい……」
日頃は誰に対しても丁寧な言動をしている夏癸だが、豊に対してはなんだか辛辣なことが多い気がする。友達、だからなのだと思う。多分。
「あ、あの、豊さん……っ」
夏癸が出かけてから数分。温かいミルクティーを入れたマグカップを両手に抱え、茜はおずおずと切り出した。
「なに?」
「豊さんって、夏癸さんと昔から友達なんですよね?」
「んー、高校のときからだから、だいたい十年くらい? まあ昔って言ったら昔かな?」
「……昔の夏癸さんのこと、教えてもらえませんかっ?」
ほんの少し躊躇いながらも、茜はせがむような視線を豊に向けた。
茜は幼い頃から夏癸と会っていたのだが、まだ保育園児だったり小学校低学年だったりした頃のことはあまり詳しく覚えていない。
夏癸は、小さかった茜の話や茜が覚えていないような父と母の話はよくしてくれるのだが、自分のことに関してはほとんど話してくれなかった。
夏癸さんのことをもっと聞きたい、と思いきって頼んでみてもいつも曖昧にはぐらかされてしまう。友人の豊なら、もしかしたら茜が知らない夏癸の一面を話してくれるのではないかと少しだけ期待していたのだが。
豊は、うーんと少しだけ悩む素振りを見せた。
「どんなこと知りたいの?」
「えっと……、どんな高校生だったのかな、とか」
「いまとあんまり変わらないよ。小説書いてて、いつも敬語で、クールで、なんでも完璧にできて? あー、でもだいぶ柔らかくなったかな。俺には変わらず冷たいけど」
「そう、ですか」
当たり障りのないことしか話してくれないような雰囲気が豊にはあった。少しがっかりしている茜を見て、おもむろに頬杖をつく。
「ほかになにが聞きたい?」
「えっと、は、恥ずかしい話とか!」
とっさに思いついたことを口にしてしまう。
茜はいつも恥ずかしいところを見られてばかりなのに、夏癸のそういうところは何も知らないのはなんとなく不公平だと思う。歳の差とか、性別の違いとか、色々あるのはわかっているけれど。
頬を染める茜を見て、豊は苦笑を浮かべた。
「夏癸の恥ずかしい話かー……勝手に話したら俺が殺されそうだから、嫌かな。ごめんね?」
「えぇー……」
おどけたように言う豊の態度に、思わず唇を尖らせてしまう。
「夏癸が話したくなったら、いつか話してくれるんじゃないかな?」
頬杖をついたまま、豊は小さく笑った。
夏癸は一時間としないうちに、両手に買い物袋を提げて帰ってきた。
昔の夏癸の話こそほとんど聞けなかったものの、豊の話は聞いていて楽しくて、自分の部屋に戻りたいという気持ちには少しもならなかった。
「夏癸さん、おかえりなさい」
「おかえりー夕飯、なに?」
「すき焼きにします」
応える夏癸に豊は、えー、と不満そうな声を上げた。
「もっと手の込んだもん作ってくれないのー」
「嫌なら食べなくていいですよ」
「ありがたく食べさせていただきます」
「あっ手伝います」
台所に入る夏癸のあとをついていき、手を洗ってエプロンをつける。
「じゃあ野菜切ってもらえますか?」
「はぁい」
「俺もなんか手伝う?」
「邪魔なので座っててください」
「はーい」
適当にあしらわれたことを気にする様子もなく、豊は平然としていた。
いつも優しくしてくれる夏癸のことはもちろん好きなのだが、豊が来ると普段とは少し雰囲気の違う夏癸が見られることが実は嬉しい茜だ。
白菜を水で洗ってざくざくと切り分ける。しいたけの石づきを取り、しらたき、豆腐と順番に切っていった茜は、まだ手をつけていない野菜をちらっと見て眉をひそめた。
「……ネギ、入れるの?」
「入れますよ。……無理に食べなくていいですから」
鉄鍋を出し、割り下の準備をしていた夏癸が苦笑しつつ応えた。
「そのかわり春菊は買ってきていませんから」
「はぁい……」
茜は小さく頷くと、長ネギに手を伸ばした。適当な大きさに斜め切りにする。
好き嫌いは少ないほうだと思うのだが、ネギや春菊は独特の香りや食感が苦手でほとんど食べられないのだ。同じ野菜でもピーマンやほうれん草などは普通に食べられるのだけれど。
下準備を終えて、カセットコンロと鉄鍋を居間の座卓へ運んだ。
熱した鉄鍋に牛脂を溶かし、ネギと牛肉を焼く。肉に焼き色がついたところで割り下を回し入れ、豆腐や野菜を投入する。ぐつぐつと音を立てる鍋に、夏癸が菜箸を入れた。
「茜、お肉どうぞ。白滝と白菜も」
「ありがとう。いただきます」
「俺にもちょうだいー」
「自分でどうぞ」
茜の取り皿と自分の取り皿に具材を取り分けたのちに豊に菜箸を差し出す。
いつもは二人きりで静かな食卓が、一人増えただけで随分と賑やかに感じられた。たまにはこういうのも、楽しくていいなと思う。
「…………」
しばらくはおとなしく食べていた茜だが、途中から正座した足をもぞもぞと小さく動かすようになった。気付かれないように、こっそりと。
(どうしよう、トイレ行きたいかも……)
帰宅してすぐにトイレに立ってから一度も行っていないので、気が付けば茜の膀胱は強い尿意を訴えるようになっていた。夕飯の準備をしている最中はさほど気にならなかったのだが、食べ始める前に行っておけばよかったと今更のように後悔してしまう。
自宅にいるのだから気兼ねせずに席を外せばいいのではと思うのだが、一応は客人である豊がいる前だし、食事の途中で手洗いに立つのは行儀が悪いように感じてしまう。
食べ終わるまで、我慢、できるかな。
もじもじしながら箸を口に運んでいると、ふいに夏癸と視線がかち合った。
「……茜、我慢しないで行ってきなさい」
「あっ、ぅ、はい……」
気付かれたことに顔が赤くなる。箸を置いた茜は、膀胱を刺激しないようにそっと立ち上がって廊下に出ると、ぱたぱたと小走りにトイレに向かった。
なんとか失敗することなく無事に間に合い、居間に戻った茜は真っ赤な顔で席についた。
次からは食事の前にちゃんと済ませておこうと思いながら。
***
「お、なんかいいもんがある」
戸棚から取り出した貰い物のアイリッシュウイスキーと食器棚の奥にしまっていたロックグラスを二つ掴んで居間へ戻る。ちょうど風呂から上がったらしい豊が食卓に出した皿に手を伸ばしていた。クラッカーに生ハムやチーズ、スモークサーモンを載せて作ったカナッペだ。
「夏癸んち来るといい酒飲めるから好き。つまみも美味いし」
「……それはどうも」
生ハムのカナッペをつまんだ豊は上機嫌で呟いた。彼の前に置いたグラスに氷を入れ、静かにウイスキーを注ぐ。
豊の斜め前に腰を下ろし、夏癸は自分のグラスを傾けた。琥珀色の液体を舐めるように口に含む。芳醇な香りが舌の上に広がった。
「それで、結局なにしに来たんですか」
夕食目的、というだけではなく、着替えを持参してきた豊は最初から泊まっていく気満々だったようだ。
「んー……、なんか、人恋しくて? 最近仕事漬けで引きこもってたし」
「……そういえば、この前の短編の挿絵、評判いいみたいですよ」
「それは嬉しいね。そういや新刊ちょっとずつ読んでるんだけどさ、あれ結局本当の親は誰なの?」
「最後まで読めばわかりますよ」
取るに足らない話をしながら、ゆっくりと酒を傾ける。
普段家にいるときは一人で飲むことはめったにしないので、時折彼とこうして酒を飲む時間はあまり嫌いではない。
卓上に出しておいたグラスにミネラルウォーターを注いで口をつけた豊は、ふと座卓の端に置いていたスマートフォンに手を伸ばした。
「日向先生と宅飲み、って写真あげていい?」
「帰ってください」
「冗談だよ、怒るなって」
とくに操作をすることなくスマートフォンから手を離し、他のつまみとして出したナッツをつまんだ豊は、ふと何かを思い出したように声を上げた。
「そういえば、夕方茜ちゃんに頼まれたんだけどさー、昔の夏癸の話を聞かせてって」
何気なく呟いたような豊の言葉に、夏癸はひそかに狼狽した。
「……なにを話した」
「都合が悪そうなことはなんにも? 茜ちゃんになにも教えてないの?」
「教えるつもりがないわけじゃない。……ただ、あの子にはまだ話したくないんです。日向の家にも関わらせたくはない」
平然と応えたつもりの夏癸の声は、ほんの僅かだけ震えていた。
ふぅん、と豊は気にした様子もなく相槌を打つ。
「大事にしてるんだね」
「当たり前でしょう」
「まあ、茜ちゃんかわいいもんね」
「……あげませんよ」
「いらないよ。俺ロリコンじゃないし」
飄々と言ってのける豊に、むっと眉を寄せる。
「俺だって違います。ただ、あの子のことは大切にしたいんです」
「……お前、変わったね。昔は他人なんてどうでもいいって感じだったのに」
「…………」
豊の言葉に応えることはせず、夏癸は苦虫を噛み潰したような表情でゆっくりとグラスを傾けた。しばらく無言で酒を口にし、静かな夜は更けていった。
夏癸の家には、時折、出版社の人が訪ねてくる。そういうとき茜は邪魔にならないように自分の部屋にいるようにしていた。
静かに居間の前を通り過ぎようとするが、室内から聞こえてくる声に覚えがあり思わず足を止めた。間髪入れずに襖が開く。
「あ、やっぱり、茜ちゃんだ。おかえりー」
顔を覗かせた男性には面識があった。
「豊さん! こんにちはっ」
見知った顔に緊張していた顔がほころぶ。来訪していたのは夏癸の友人で、イラストレーターをしている藤村豊だった。夏癸の本の装画も何作も描いている。
「おかえりなさい。ケーキがありますから、手洗っておいで」
「はぁい」
夏癸に促され、手洗いうがいをしてトイレも済ませてから、自室で普段着に着替えて居間に戻った。
「はい、茜ちゃんどっちがいい?」
腰を下ろすと、座卓を挟んで向かいに座っている豊が小ぶりのケーキボックスを差し出してきた。中に入っていたのは個包装されたロールケーキだった。チョコといちごの二種類ある。
「あっ、ここのケーキおいしいって聞きました」
箱に印刷されている店名には覚えがあった。抹茶スイーツをこよなく愛するなずなが抹茶ロールケーキがおいしかったと以前話していたのを思い出す。
「なずなちゃんが、抹茶のがおいしかったって……」
「あー、なんか五種類くらいあってどれがいいか迷ったんだけど、抹茶がよかった?」
「いいえ、大丈夫ですっ。あ、でも豊さんの分は……?」
「俺は甘いもの食べないから。夏癸もどっちでもいいって、だから茜ちゃん先にどうぞ」
「えーっと……」
チョコもいちごもおいしそうで迷ってしまう。数秒考えた末に、見た目の可愛らしさに惹かれていちごを選んだ。
「豊さん、今日はどうしたんですか?」
淡いピンク色の生地をフォークで小さく切りながら訊ねる。豊が家を訪れるのは久しぶりだった。
「打ち合わせだよ打ち合わせー」
「夕飯をたかりにきただけですよ」
どこかぞんざいにあしらいながらも、夏癸は機嫌が良さそうにケーキを口に運んだ。彼は甘いものが好きなほうだ。そんな姿を思わずじっと見つめていると、彼はふと手を止めてこちらに視線を向けた。
「……一口食べますか?」
「え、あ、そんなつもりじゃ」
物欲しげな視線に見えていたのだろうかと思うと恥ずかしい。けれど夏癸は軽く微笑んで、ケーキを一口分すくったフォークを茜の口元に差し出した。
「どうぞ」
「あ、ぅ、いただきます」
ここまでされて断るわけにもいかず、ぱくっと口に入れてしまう。ココア風味の甘さ控えめな生地と濃厚なチョコクリームの味のバランスが良くておいしい。
「チョコも、おいしいですねっ。じゃあ、わたしのもどうぞ」
「ありがとうございます」
自分だけもらうわけにはいかないので、茜はいちごロールケーキの載った皿を夏癸のほうに向けた。彼のようにフォークを差し出すことはできない。
夏癸は茜の食べかけのケーキの端を少しだけ切って口に入れると、「いちごもおいしいですね」と言って皿を返してくれた。
ふと視線を感じて顔を上げると、豊が微笑ましいものを見るような表情を浮かべていた。急に顔が熱くなってくる。茜は俯いて自分の分のケーキを食べることに集中した。
いちごの風味があるロールケーキの生地はふわふわで、柔らかなホイップクリームは上品な甘さがある。クリームに挟まれたいちごと一緒に口に入れると、ほどよい酸味と甘みが口の中に広がった。チョコもおいしかったけれど、いちごのほうが茜の好みに合う。
「どう、おいしい?」
「はい、とっても!」
コーヒーだけを口にしている豊に問われ、笑みを返した。まだ少し頬が熱い。
癖のある明るい茶髪にピアスをいくつも開けている派手な見た目の豊と初めて会ったときは怖い人かと思ってしまったのだが、話してみると優しい人だった。夏癸以外の男性に対しては少し苦手意識があるのだが、彼とはあまり緊張せずに話ができる。
「ケーキ、ありがとうございます」
「お礼なんていいよ。代わりに、夏癸のおいしいごはんをご馳走してもらうから」
「……買い物してきます」
ロールケーキを食べ終えた夏癸は、軽く息をついて立ち上がった。
「手伝おうか?」
「大丈夫です。茜と留守番していてください」
「りょーかい。ちなみに俺は肉が食べたい」
「考えておきます」
自分の皿やカップを片付け、外出する支度をした夏癸は出かける間際にそっと居間を覗いた。
「茜、それの相手が嫌になったら放っておいて部屋にいていいですからね」
「は、はい……」
日頃は誰に対しても丁寧な言動をしている夏癸だが、豊に対してはなんだか辛辣なことが多い気がする。友達、だからなのだと思う。多分。
「あ、あの、豊さん……っ」
夏癸が出かけてから数分。温かいミルクティーを入れたマグカップを両手に抱え、茜はおずおずと切り出した。
「なに?」
「豊さんって、夏癸さんと昔から友達なんですよね?」
「んー、高校のときからだから、だいたい十年くらい? まあ昔って言ったら昔かな?」
「……昔の夏癸さんのこと、教えてもらえませんかっ?」
ほんの少し躊躇いながらも、茜はせがむような視線を豊に向けた。
茜は幼い頃から夏癸と会っていたのだが、まだ保育園児だったり小学校低学年だったりした頃のことはあまり詳しく覚えていない。
夏癸は、小さかった茜の話や茜が覚えていないような父と母の話はよくしてくれるのだが、自分のことに関してはほとんど話してくれなかった。
夏癸さんのことをもっと聞きたい、と思いきって頼んでみてもいつも曖昧にはぐらかされてしまう。友人の豊なら、もしかしたら茜が知らない夏癸の一面を話してくれるのではないかと少しだけ期待していたのだが。
豊は、うーんと少しだけ悩む素振りを見せた。
「どんなこと知りたいの?」
「えっと……、どんな高校生だったのかな、とか」
「いまとあんまり変わらないよ。小説書いてて、いつも敬語で、クールで、なんでも完璧にできて? あー、でもだいぶ柔らかくなったかな。俺には変わらず冷たいけど」
「そう、ですか」
当たり障りのないことしか話してくれないような雰囲気が豊にはあった。少しがっかりしている茜を見て、おもむろに頬杖をつく。
「ほかになにが聞きたい?」
「えっと、は、恥ずかしい話とか!」
とっさに思いついたことを口にしてしまう。
茜はいつも恥ずかしいところを見られてばかりなのに、夏癸のそういうところは何も知らないのはなんとなく不公平だと思う。歳の差とか、性別の違いとか、色々あるのはわかっているけれど。
頬を染める茜を見て、豊は苦笑を浮かべた。
「夏癸の恥ずかしい話かー……勝手に話したら俺が殺されそうだから、嫌かな。ごめんね?」
「えぇー……」
おどけたように言う豊の態度に、思わず唇を尖らせてしまう。
「夏癸が話したくなったら、いつか話してくれるんじゃないかな?」
頬杖をついたまま、豊は小さく笑った。
夏癸は一時間としないうちに、両手に買い物袋を提げて帰ってきた。
昔の夏癸の話こそほとんど聞けなかったものの、豊の話は聞いていて楽しくて、自分の部屋に戻りたいという気持ちには少しもならなかった。
「夏癸さん、おかえりなさい」
「おかえりー夕飯、なに?」
「すき焼きにします」
応える夏癸に豊は、えー、と不満そうな声を上げた。
「もっと手の込んだもん作ってくれないのー」
「嫌なら食べなくていいですよ」
「ありがたく食べさせていただきます」
「あっ手伝います」
台所に入る夏癸のあとをついていき、手を洗ってエプロンをつける。
「じゃあ野菜切ってもらえますか?」
「はぁい」
「俺もなんか手伝う?」
「邪魔なので座っててください」
「はーい」
適当にあしらわれたことを気にする様子もなく、豊は平然としていた。
いつも優しくしてくれる夏癸のことはもちろん好きなのだが、豊が来ると普段とは少し雰囲気の違う夏癸が見られることが実は嬉しい茜だ。
白菜を水で洗ってざくざくと切り分ける。しいたけの石づきを取り、しらたき、豆腐と順番に切っていった茜は、まだ手をつけていない野菜をちらっと見て眉をひそめた。
「……ネギ、入れるの?」
「入れますよ。……無理に食べなくていいですから」
鉄鍋を出し、割り下の準備をしていた夏癸が苦笑しつつ応えた。
「そのかわり春菊は買ってきていませんから」
「はぁい……」
茜は小さく頷くと、長ネギに手を伸ばした。適当な大きさに斜め切りにする。
好き嫌いは少ないほうだと思うのだが、ネギや春菊は独特の香りや食感が苦手でほとんど食べられないのだ。同じ野菜でもピーマンやほうれん草などは普通に食べられるのだけれど。
下準備を終えて、カセットコンロと鉄鍋を居間の座卓へ運んだ。
熱した鉄鍋に牛脂を溶かし、ネギと牛肉を焼く。肉に焼き色がついたところで割り下を回し入れ、豆腐や野菜を投入する。ぐつぐつと音を立てる鍋に、夏癸が菜箸を入れた。
「茜、お肉どうぞ。白滝と白菜も」
「ありがとう。いただきます」
「俺にもちょうだいー」
「自分でどうぞ」
茜の取り皿と自分の取り皿に具材を取り分けたのちに豊に菜箸を差し出す。
いつもは二人きりで静かな食卓が、一人増えただけで随分と賑やかに感じられた。たまにはこういうのも、楽しくていいなと思う。
「…………」
しばらくはおとなしく食べていた茜だが、途中から正座した足をもぞもぞと小さく動かすようになった。気付かれないように、こっそりと。
(どうしよう、トイレ行きたいかも……)
帰宅してすぐにトイレに立ってから一度も行っていないので、気が付けば茜の膀胱は強い尿意を訴えるようになっていた。夕飯の準備をしている最中はさほど気にならなかったのだが、食べ始める前に行っておけばよかったと今更のように後悔してしまう。
自宅にいるのだから気兼ねせずに席を外せばいいのではと思うのだが、一応は客人である豊がいる前だし、食事の途中で手洗いに立つのは行儀が悪いように感じてしまう。
食べ終わるまで、我慢、できるかな。
もじもじしながら箸を口に運んでいると、ふいに夏癸と視線がかち合った。
「……茜、我慢しないで行ってきなさい」
「あっ、ぅ、はい……」
気付かれたことに顔が赤くなる。箸を置いた茜は、膀胱を刺激しないようにそっと立ち上がって廊下に出ると、ぱたぱたと小走りにトイレに向かった。
なんとか失敗することなく無事に間に合い、居間に戻った茜は真っ赤な顔で席についた。
次からは食事の前にちゃんと済ませておこうと思いながら。
***
「お、なんかいいもんがある」
戸棚から取り出した貰い物のアイリッシュウイスキーと食器棚の奥にしまっていたロックグラスを二つ掴んで居間へ戻る。ちょうど風呂から上がったらしい豊が食卓に出した皿に手を伸ばしていた。クラッカーに生ハムやチーズ、スモークサーモンを載せて作ったカナッペだ。
「夏癸んち来るといい酒飲めるから好き。つまみも美味いし」
「……それはどうも」
生ハムのカナッペをつまんだ豊は上機嫌で呟いた。彼の前に置いたグラスに氷を入れ、静かにウイスキーを注ぐ。
豊の斜め前に腰を下ろし、夏癸は自分のグラスを傾けた。琥珀色の液体を舐めるように口に含む。芳醇な香りが舌の上に広がった。
「それで、結局なにしに来たんですか」
夕食目的、というだけではなく、着替えを持参してきた豊は最初から泊まっていく気満々だったようだ。
「んー……、なんか、人恋しくて? 最近仕事漬けで引きこもってたし」
「……そういえば、この前の短編の挿絵、評判いいみたいですよ」
「それは嬉しいね。そういや新刊ちょっとずつ読んでるんだけどさ、あれ結局本当の親は誰なの?」
「最後まで読めばわかりますよ」
取るに足らない話をしながら、ゆっくりと酒を傾ける。
普段家にいるときは一人で飲むことはめったにしないので、時折彼とこうして酒を飲む時間はあまり嫌いではない。
卓上に出しておいたグラスにミネラルウォーターを注いで口をつけた豊は、ふと座卓の端に置いていたスマートフォンに手を伸ばした。
「日向先生と宅飲み、って写真あげていい?」
「帰ってください」
「冗談だよ、怒るなって」
とくに操作をすることなくスマートフォンから手を離し、他のつまみとして出したナッツをつまんだ豊は、ふと何かを思い出したように声を上げた。
「そういえば、夕方茜ちゃんに頼まれたんだけどさー、昔の夏癸の話を聞かせてって」
何気なく呟いたような豊の言葉に、夏癸はひそかに狼狽した。
「……なにを話した」
「都合が悪そうなことはなんにも? 茜ちゃんになにも教えてないの?」
「教えるつもりがないわけじゃない。……ただ、あの子にはまだ話したくないんです。日向の家にも関わらせたくはない」
平然と応えたつもりの夏癸の声は、ほんの僅かだけ震えていた。
ふぅん、と豊は気にした様子もなく相槌を打つ。
「大事にしてるんだね」
「当たり前でしょう」
「まあ、茜ちゃんかわいいもんね」
「……あげませんよ」
「いらないよ。俺ロリコンじゃないし」
飄々と言ってのける豊に、むっと眉を寄せる。
「俺だって違います。ただ、あの子のことは大切にしたいんです」
「……お前、変わったね。昔は他人なんてどうでもいいって感じだったのに」
「…………」
豊の言葉に応えることはせず、夏癸は苦虫を噛み潰したような表情でゆっくりとグラスを傾けた。しばらく無言で酒を口にし、静かな夜は更けていった。
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