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11.回想、林間学校④

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「――でね、森の中で血まみれの女の姿を見たんだって!」

 脅かすような語り口に何人かがきゃあっと可愛らしい悲鳴を上げる。
 茜は隣に座る柚香の腕にしがみついて、静かに息を殺していた。

(なんでみんな、怪談とか好きなんだろう……?)

 入浴後の僅かな自由時間。部屋で雑談を楽しんでいた女子たちの話題は、いつの間にか林間学校にまつわる怪談話になっていた。
 同じ部屋になった女子にはあまり会話したことのない子も多いので、話に入りにくい茜は隅のほうで柚香となずなに寄り添っていた。点呼の時間が近いので、苦手な話題に移り変わっても部屋から逃げ出すことはできない。
 恐らく誰かから聞いた噂話や作り話なのだろうが、ホラーやオカルトの類が苦手な茜は片隅で震えているしかなかった。
 先ほどとは別の生徒が、次は私、と片手を上げる。

「私が聞いた話なんだけどね、林間学校に来た生徒が夜眠れないでいたら、廊下から足音が聞こえてきたんだって。見回りの先生かなって思ったんだけど、コツ、コツって妙にゆっくり歩いてて、変だなって思っていたら急にドアがノックされて――」

 コンコン。
 話の内容にシンクロするように扉が叩かれ、ほとんどの生徒が本気の悲鳴を上げる。茜はびくりと震えて息を呑んだ。びっくりしすぎて声も出ない。

「はーい」

 入口に一番近いところに座っていたなずなが、平然とした様子で扉を開けにいく。

「お前たち、なに大騒ぎしてるんだ……」

 廊下に立っていたのは、呆れた顔をしている担任の荻野だった。

「なんだぁ、先生か~」
「びっくりさせないでよ!」
「タイミング良すぎー!」

 先生が就寝前の点呼に来ただけだとわかり、皆はほっとした顔をしながら次々に軽口を叩く。

「もうすぐ消灯だぞ。全員いるか?」
「はーい」
「いまーす」
「早く寝ろよー!」
「はーい」

 室内を軽く見渡して、荻野は次の部屋へ点呼をしに部屋を出ていく。担任が立ち去ると、みんな興をそがれたのか、それぞれ就寝の支度に入った。

「寝よっか」
「そうだね、疲れたしー」

 茜も自分の布団に入ろうとしたが、微かに尿意を覚えて思わず柚香に視線を向けた。あんな怪談を聞いたあとで、一人でトイレになんて行けるわけがない。

「柚香ちゃん、あの……」
「ん、一緒にトイレ行く?」
「うん。……ご、ごめんね」
「べつにいいって。あたしも行きたいし」

 柚香と連れ立ってトイレを済ませ、これで安心して眠れると布団に横になった。

***

(…………眠れない)

 布団に入ってからどのくらい経ったのか。
 身体は疲れているのに妙に目が冴えてしまい、目を閉じていても眠気はまったく訪れなかった。それに加えて。

(うぅ……トイレ行きたくなっちゃった……)

 布団の中でもぞもぞと両脚を擦り合わせる。就寝前にトイレを済ませたにもかかわらず、気が付いたら下腹部に重さを感じていた。
 トイレに行かなければいけない、と思いながらも、思い出してしまうのは寝る前に聞いた怪談の数々。ほとんど作り話だろうとわかってはいても、怖い話を聞いたあとで夜中に一人でトイレに行く勇気が茜にはなかった。
 柚香かなずなを起こしてついてきてもらおうかと考えたが、両隣の布団で寝ている二人は静かな寝息を立てている。昼間の活動で疲れているだろうし起こすのは忍びない。
 それなら先生に――とも一瞬考えたが、教師の部屋に行ってトイレについてきてほしいと頼むなど、恥ずかしすぎてできるわけがない。茜は小さく頭を振ってその案を打ち消した。

(どうしよぉ……)

 まだ余裕はあるけれど、このまま布団にいてはいずれ限界を迎えてしまうだろう。
 尿意を抱えたままでは寝付けないし、万が一眠れたとしても今度はおねしょの心配がある。林間学校で布団を濡らしてしまうことだけは絶対に避けたい。
 自宅ならば恥ずかしくても最終的には夏癸に頼ることができるのだが、いまは一人で解決しなければいけない。
 ただ勇気を出してトイレに向かえばいいだけなのだが、それが簡単にできれば苦労はしない。怖くて布団から出られないからこんなにも思い悩んでいるのだ。
 じっと身体を丸めて、考えを巡らす。そもそもどうしてトイレに行きたくなってしまったのだろうか。寝る前の自分の行動を思い返す。

(……お風呂のあと、喉乾いて結構水飲んじゃったからかな。あ、そういえばカフェオレも飲んじゃった……)

 入浴時間の前にあった一日を振り返るクラスの反省会の時間で、生徒全員に紙パックの飲み物が配られたのだ。数種類の中から好きなものを選べたのだけれど、もたもたしていた茜は争奪戦に出遅れて残っていたのはカフェオレしかなかった。
 コーヒーは苦いから好きではないのだけれど、小さな紙パックだったし味も甘かったので問題なく飲み切れた。が、もしかしたらコーヒーに含まれるカフェインがてきめんに効果を表してしまったのかもしれない。眠れないのも、尿意を催してしまったのも。

(もう……なにやってるんだろう……)

 気を付けようと思っていたのに、今日の出来事を思い返すとなんだかままならないことばかりだ。
 登山のときは、登っている最中に我慢できなくなって野外で用を足してしまった。
 それ以降は気を付けてトイレに行くタイミングを逃さないようにしていたけれど、キャンプファイアーのときはなずなに連れ出してもらわなかったら本当におもらしの危機だったかもしれない。
 そして、いま。うっかり水分を摂り過ぎてしまったせいで夜中に尿意に襲われている。

「……っ」

 ふいに強い波に襲われて、茜は眉根を寄せた。そっと下腹に手を載せると、重みが増しているのがわかる。太腿をきつく寄せて、衝動に耐える。

(だめ、おしっこしたい……、トイレ行かなきゃ……っ)

 もじもじと身体を揺らして我慢を続けているが、尿意を覚え始めてから時間が経ち、だんだんと強まってきた。このまま布団の中にいると本当に粗相をしてしまうかもしれない。
 意を決して、茜は布団から抜け出した。
 お腹に余計な力が入らないようにそっと立ち上がり、足音を殺して廊下に出るための扉に向かう。おずおずと扉を開ける。消灯した室内と同じく真っ暗だろうと予想していた廊下は、予想に反して明るかった。これならそこまで怖くはない。

「もっと早く行けばよかった……」

 後悔が小さな呟きになる。
 急いでトイレに行きたいけれど、あんまり早く歩こうとすると決壊してしまいそうで、もじもじと膝を擦り合わせながら小さく足を動かす。
 部屋からトイレまでは意外に距離がある。

「まだだめ、まだだめだよ……っ」

 一刻も早い解放を要求してくる膀胱に言い聞かせるように、小さな声で囁く。
 時折足を止めそうになりながらも、茜は必死に足を進めた。
 あと少し。あと少しだけ、我慢。
 何度も何度も心の中で言い聞かせて廊下を歩いていく。
 トイレの入口が見えたところで、ぞわぞわと背筋に寒気が走り思わず足を止めてしまった。

「だめ……!」

 強い尿意を感じて、とっさに両手で股間を押さえてしまう。しゃがみ込みたい衝動に駆られたけれど、しゃがんだら絶対に立ち上がれなくなることが目に見えていた。
 寝間着代わりのジャージの前をぎゅっと強く押さえたまま、前かがみになって慎重に足を進める。こんなところを誰かに見られたら恥ずかしくて死んでしまいそうだけど、おもらししてしまった姿を見られるほうがもっと嫌なので、ひたすら耐えるしかない。

「だめ、あとちょっと、だから……っ」

 目元に生理的な涙がにじむ。廊下で粗相するわけにはいかない。
 じわじわと下着が濡れてくるのを感じながら、茜はトイレに足を踏み入れた。

「ゃっ……!」

 膀胱が収縮するのを感じて、慌てて一番手前の個室に飛び込む。
 扉を閉めた瞬間が限界だった。

「あ、あっ、や、だめっ」

 なんとかジャージを脱ごうと片手を離したけれど、押さえていたもう片方の手が温かく濡れる。指の間をすり抜けた水流が、小さな水音を立てた。
 しぃぃぃぃぃ。ぴちゃぴちゃ。
 床を叩く水音は止まらない。足元に水溜まりが広がっていく。

「……っ」

 息を吸うと、微かな嗚咽が零れた。
 水音が止むまで、茜はただ呆然と立ち尽くしていることしかできなかった――。


「……ぅっ」

 ぐすっと嗚咽を漏らす。
 やってしまった。下肢がびちゃびちゃに濡れて気持ち悪い。
 早く汚した床を片付けて、着替えないといけない。けれどこんな恰好では部屋まで戻れない。

(どうしよう……)

 頭の中が真っ白になってしまい、何も考えられない。茜はただ狭い個室の中で泣きじゃくることしかできなかった。
 泣いていたってどうしようもないのに、涙が止まらない。個室に閉じこもったまま嗚咽を漏らしていると、ふと、トイレに近付いてくる足音が聞こえてきた。
 びくり、と肩が震える。怪談を思い出して恐怖に襲われかけるが、お化けなんているわけがない、普通に誰かがトイレに来ただけだと思い直す。だが、その誰かにおもらしがばれてしまうかもしれないと別の不安に駆られた。
 声を殺そうとするが、泣きすぎたせいで嗚咽の止め方がわからない。トイレに入ってきた足音は、入口付近で止まった。

「……だ、誰かいるの……?」

 ほんの少し震えた声が聞こえる。その声には聞き覚えがあった。

「柚香ちゃん……?」
「えっ、茜!? どうしたの!?」
「うぅ……」

 問いかけに応える言葉が見つからなくて、泣き声で応えてしまう。

「どうしたの? 大丈夫?」

 柚香は扉の前まで歩み寄って、気遣う声をかけてくれる。その優しい声色に、彼女に頼るほかないと心を決めた。

「あの、ね……間に合わなくて……」

 おずおずと呟いた声は情けないほどに震えていた。だが彼女にはしっかり伝わったようだ。

「あー……えっと、保健の先生とか呼んでくる?」
「……それは、ちょっと……。着替えあるから、わたしの荷物持ってきてもらってもいい?」
「ん、いいよ。でもちょっとだけ待って、あたしもトイレしたい」

 柚香だって用を足すために来たのだろう。茜が頷くと、彼女はひとつ間を空けて個室に入っていった。とくに音消しはせず、ちょろちょろという水音が耳に入ってくる。

(……うっ)

 茜はこっそり膝を擦り合わせた。さっき全部出なかったのか、水音に誘われてしまった。柚香はトイレを済ませると、「じゃあ持ってくるね! 待ってて!」と声をかけてトイレから出ていった。
 彼女の足音が遠ざかる。茜は濡れて肌に張り付いたジャージを慌てて脱ぎ、急いで用を足した。

(あんなに漏らしちゃったのに、またしたくなっちゃうなんて……)

 なぜだか恥ずかしさを感じてしまい、頬が熱くなる。
 柚香が戻ってくる前にと、慌てて水を流してジャージを履き直す。濡れたままのものをそのまま履いたので、湿った布地の感触が気持ち悪い。

「茜、お待たせー」

 さほど待つことなく、柚香は戻ってきてくれた。きっと急いでくれたのだろう。
 茜はおずおずと扉を開けた。濡れた姿を見られて恥ずかしいけれど、着替えを持ってきてもらえたのは本当に有難い。

「あ、ありがとう……」
「どーいたしまして。あたし片付けちゃうから、隣の個室で着替えなよ」
「えっ、いいよ、自分でやるから! 柚香ちゃんは先に戻ってて」
「遠慮しなくていいよ、そのほうが早く寝れるでしょ?」
「う……うん」

 柚香の物言いは多少強引だけれど、ここは素直に甘えておくことにする。
 手を洗ってきてからお泊まり荷物の入ったボストンバッグを受け取る。洗面台でタオルを濡らし、柚香に促されるまま隣の個室に足を踏み入れた。
 ぐっしょりと濡れた下着とジャージを脱ぎ、絞って少しでも水気をなくしてから畳んでビニール袋の中にしまう。汚れた下肢を濡れタオルで拭うと、冷たい感触に軽く鳥肌が立った。もう一度お風呂に入りたくなるが、さすがにそれは我慢するしかない。
 タオルの汚れた面を内側に折り、綺麗な面で何度か脚を拭う。大方満足したところで新しい下着とジャージに足を通した。
 失敗するつもりはなかったけれど念のため、と余分に持ってきておいた下着もジャージも使う羽目になってしまった。ほかに予備はないので、これ以上の失敗は許されない。

(帰ったら、夏癸さんに見つからないように洗濯しないと……)

 粗相してしまったことをわざわざ彼に報告するつもりなどないが、恐らくばれてしまうかもしれないとなんとなく思う。使ったタオルもジャージなどを入れたビニール袋に入れて、口をぎゅっと縛る。においが漏れたりしませんようにと願いながら、バッグの奥に押し込んだ。
 個室を出て隣の個室の様子を窺う。
 水を撒いたみたいで、柚香はモップを持って濡れた床を拭き取っていた。茜はボストンバッグをいったん置いたまま、掃除用具入れにモップを取りに行った。慌てて柚香を手伝う。二人でやると後片付けはすぐに終わった。
 おもらしの痕跡がなくなり、ほっと安堵する。
 安心したせいか、ふわぁ……と欠伸が零れた。夜が深まってきてさすがに眠気に襲われてきた。

「眠いね。もう日付変わってるかも」
「うん。あの、色々ごめんね……ありがとう……」
「別にいいって。部屋戻ろ。トイレもう平気?」
「……一応、もっかい行っとく」
「いってらっしゃい。かばん持ってるよ」

 柚香にボストンバッグを預けて、念のためにともう一度トイレに入る。
 さすがにちょろっとした出なかったけれど、気持ちは安心できた。トイレから出て、柚香と二人ゆったりとした足取りで部屋まで戻っていった。

***

 慣れた手つきでするするとじゃがいもの皮を剥いていく。隣でピーラーを握っていたなずなは、包丁で難なく皮剥きをこなす茜を見て小さな歓声を上げた。

「茜ちゃん上手だねぇ……!」
「家でいつも手伝ってるから……なずなちゃんは料理とか苦手?」

 恥ずかしそうに苦笑を浮かべて、茜は手を動かす。家でよく夏癸の手伝いをするので料理は好きだし得意なほうだと思う。一人ではまだ簡単なものしか作れないけれど。

「んー、あんまりやらないからなぁ……苦手かも……」

 応えながらなずなはピーラーでにんじんの皮を剥いていった。その手つきはゆっくりだが、決して危なげではない。
 林間学校二日目の昼。午前に行われたオリエンテーリングのあと、予定されていた日程は野外炊事だった。メニューは定番のカレーライス。

 七人班の中で茜はなずなとともにカレー係になっていた。三人いるカレー係のうちもう一人は男子の麻倉椋だ。話したことはほとんどないが、黙々と玉ねぎの皮を剥いている。
 ちなみに柚香は班の中でもう一人の女子と一緒にご飯係になっていた。少し離れたところにあるかまどで飯盒を使って米を炊いている。
 皮を剥き終わったじゃがいもを食べやすい大きさに切りながら、茜はこっそりと小さなあくびを漏らした。

「椎名さん、寝不足? さっきも眠そうだったよね」
「あ、う、うん。あんまり眠れなくて……」

 向かいにいる椋に話しかけられて、曖昧な笑顔で頷く。初めて話しかけられたので少しびっくりした。
 椋はふーんと納得すると、それ以上会話を続けることはなく自分の作業に戻る。あまり追及されなくてよかった、と茜はひそかに胸を撫で下ろした。
 昨夜トイレから戻ったあとはすぐに寝付くことができたけれど、やっぱり睡眠不足みたいで朝から何度もあくびをしてしまっている。同じく寝不足なはずの柚香は平気なようで、午前中のオリエンテーリングのときも元気に動いていた。体力の違いなのだろうか。

 野外で動き回るオリエンテーリングには少なからず不安を抱えていたけれど、なんとか班のみんなに迷惑をかけずについていくことができた。途中で一度トイレ休憩を取ってもらえたのでトイレの心配もなかった。
 野外炊事が終わればあとは帰るだけなので、茜は寝不足ながらも心が軽くなり、楽しんで調理にあたっていた。

「あ、なずなちゃん、にんじん固いから、もうちょっと薄く切ったほうがいいよ」
「そっか……このくらい?」
「うん。そのくらいでいいと思う」
「……ってぇ」

 向かいから聞こえた声に思わず顔を向けると、玉ねぎを切っていた椋が目を真っ赤にしていた。目の痛みに耐えきれなくなったのか、いったん手を止めてぎゅっと瞼を閉じている。

「麻倉くん、よかったら使って」

 エプロンのポケットに入れていたポケットティッシュを差し出す。取りやすいようにフィルムから引き出しておいた一枚を抜き取ると、椋はティッシュを目にあてて軽く息をついた。

「ありがと」
「ううん。あの、わたし玉ねぎ切ろうか?」
「……じゃあ、半分お願い」
「うん」

 自分が担当していたじゃがいもを切り終わっていたのでつい手伝いを申し出てしまったが、椋は僅かな逡巡ののちに任せてくれた。
 三つある玉ねぎのうち、彼が切っているのは一つだけなので、二つはまだ手付かずだ。茜は二つとも自分のまな板に移して切り始めた。半分に切った玉ねぎをざくざくとくし切りにする。
 涙の原因である硫化アリルに刺激されぬよう、鼻で呼吸しないように気を付けて素早く片付けてしまう。おぼつかない手つきの椋が一つを切り終わる間に、茜は二つの玉ねぎを切り終えてしまった。

 かまど係の男子が火をつけてくれたかまどの前に移動する。厚手の鍋にサラダ油を熱し、切った野菜と豚肉を入れて炒める。何の気なしにおたまを握って炒めていた茜だが、はっとして隣で様子を窺っているなずなのほうを向いた。

「あ、ごめん、わたしだけやってて……」
「えっいいよ全然。茜ちゃんおいしく作ってくれそうだし。ねえ?」

 使い終わったまな板や包丁を片付けていた椋に、なずなが同意を求める。彼は小さく首肯した。

「でも、なにか手伝えることある?」
「えーと……じゃあ、お水汲んできてもらっていい?」
「りょーかい」

 耳の下で二つに結んだ髪を翻して、なずなは水道へと向かった。
 野菜や肉が焦げ付かないように気を付けて炒める。そろそろ水を入れても大丈夫だろうと思っていると、ボウルに水を汲んだなずながちょうど戻ってきた。

「お待たせー。水どのくらい入れればいい?」
「野菜がだいたい隠れるくらい。多すぎると水っぽくなっちゃうから……」
「はーい」

 なずなは注意深く鍋に水を注いだ。野菜がひたひたになるくらいで手を止める。

「このくらい?」
「うん。足りなかったらあとで足すから、とりあえず大丈夫」

 沸騰するまで煮て、途中でアクを取る。ちゃんと野菜が煮えているか確認のためにじゃがいもをおたまのふちで二つに割ってみると、しっかり柔らかくなっていた。
 いったん火を止めてからカレールウを入れるところだが、かまどを使っているので火を止めるわけにはいかない。一度鍋を調理台へ運ぶために軍手を取りに行こうと振り返ると、すでに軍手をはめた椋が待っていた。

「俺持ってくよ。重いし」
「あ……ありがとう」

 椋は軽々と鍋を持ち上げると調理台へ運んでくれた。鍋の中にルウを割り入れて溶かす。再びかまどまで運んでもらい、おたまでひたすらかき混ぜる。しばらくするとほどよくとろみがついてきた。食欲をそそる香りが辺りに漂う。
 紙皿にカレーを少量取り分け、スプーンですくって味見をする。ちゃんとおいしい。

「私も味見していい?」
「うん」

 横から顔を覗かせたなずなに紙皿を差し出す。

「スプーン貸して?」

 なずなはとくに回し食いに抵抗がないようで、新しいスプーンを取りには行かない。茜も親しい友人間ならあまり気にならないので、使ったスプーンをそのまま彼女に手渡した。
 カレーを一口舐めたなずなは目を輝かせた。

「おいしい! ちゃんとカレーだ」
「なにそれー? だってカレー作ってるんだよ」

 彼女の物言いにくすくすと笑ってしまう。

「小学校のときは水っぽくなっちゃっておいしくなかったんだよー」

 なずなは僅かに遠い目をした。
 小学校の林間学校のときに彼女たちが作ったカレーは失敗してしまったようだ。茜も小学五年生のときに林間学校で同じくカレーを作ったが、とくに失敗はせずおいしく作れた覚えがある。

「麻倉くんも味見する?」

 手持ち無沙汰にしていた椋になずなが声をかける。彼は小さく頷くと新しいスプーンを持ってきて、紙皿に残っていたカレーをすくい取った。

「うん。おいしいよ」
「よかったぁ……」

 友人以外からも好評をもらえてほっとする。鍋の中身はぐつぐつと煮立っている。そろそろ火から下ろしたほうがよさそうだ。

「これ、もう完成?」
「うん」
「じゃあ運ぶね」

 椋は再び両手に軍手をはめて、カレーの入った鍋を持ち上げた。テーブルへ運んでいく彼のあとを、鍋敷きを掴んで慌てて追いかける。

「あの、麻倉くん、鍋敷き!」
「あ、ごめん。忘れてた」

 テーブルに直接鍋を置こうとしていた彼を制して、鍋敷きを敷く。その上に彼は鍋をどんと置いた。

「ご飯炊けたよー!」

 ちょうどいいタイミングで柚香たちが飯盒を運んできた。蓋を取ると、つやつやのご飯が湯気を立てている。

「わー! カレーおいしそう!」
「ご飯もちゃんと炊けてるねー」
「早く食いてえ~」

 おいしそうに出来上がったことを喜びつつ、紙皿にご飯とカレーを盛り付ける。他の班より一足早く、茜たちの班は食卓が整った。
 いただきます、と全員で手を合わせて食べ始める。
 一口分をすくって食べるとほどよい辛さが口の中に広がった。肉や野菜にもしっかり火が通っていて柔らかい。ご飯の固さもちょうどよかった。

「おいしいねー!」
「うん、うまい」
「五班はスープみたいになってて困ってたよー」
「水入れすぎたんじゃない?」
「うちの班は茜ちゃんが料理上手だからよかったね」
「そんな、レシピ通りに作っただけだよ……!」

 なずなの言葉に照れくさくなってしまい頬を染める。けれど、カレー作りが成功したことは素直に嬉しい。和やかな雰囲気で食事は進んでいった。

***

「茜、起きてー!」
「ん、うぅ……」

 隣に座っていた柚香に肩を揺さぶられ、顔を覗き込まれる。茜はぼんやりと瞼を開けて柚香の顔を見つめ返した。

「……ゆ、かちゃん?」
「ほら、寝ぼけてないで立ってー! 学校着いたよ!」
「はぁい……」

 柚香に腕を引かれ、寝ぼけ眼を擦りながらバスの座席から立ち上がる。疲労感と寝不足のせいで帰りのバスではすっかり寝入ってしまった。
 座った体勢で寝てしまったために首や肩が少し痛い。そういえばトイレ休憩のときにも柚香に揺り起こされて、ぼんやりしながらトイレを済ませてきた記憶がある。
 バスから降りたら校庭で整列して解団式が行われたが、皆疲れているからだろう、手短に終了して解散となった。
 柚香と連れ立って駐車場に移動すると、すでに夏癸が迎えに来ていた。軽く手を上げて場所を示す夏癸に駆け寄る。

「夏癸さん!」
「おかえりなさい。二人とも、楽しかったですか?」

 夏癸は穏やかな笑顔で迎えてくれた。

「楽しかったです! 山登りとかキャンプファイアーとか! ね、茜」
「う、うん」

 柚香に話を振られてとっさに頷く。
 めったにない宿泊行事はたしかに楽しかったのだが、それ以上に気苦労やら失敗やらが多すぎたと思っている茜だ。数々の粗相を夏癸には知られたくない。

「茜? なにかありました?」
「な、なにも! ちょっと疲れちゃって……」
「そうですよね。早く帰りましょうか」

 察しのいい夏癸に勘付かれないように、慌てて取り繕った笑みを浮かべる。
 疲れたという言葉に納得してくれたようで、彼はそれ以上追及することはなく二人の荷物を車に載せてくれた。

「柚香ちゃん、夏癸さんに色々内緒にしてね?」

 車に乗ろうとする柚香の袖を引いて、こっそりと耳打ちする。
 柚香は心得た、と言わんばかりの表情で小さく頷き、後部座席に乗り込んだ。

「二人とも、シートベルト締めましたか?」
「はぁい」
「大丈夫でーす」

 運転席に座った夏癸に訊かれ、二人して頷く。柚香を家まで送り届けたあとはまっすぐ帰宅した。
 玄関先で荷物を置くなり、茜はおずおずと口を開いた。

「あ、あの、いまから洗濯機使ってもいいですか? 体操着とか早く洗いたくて」
「ええ、構いませんよ」

 夏癸はとくに理由を訊ねることもなくそう言ってくれた。ほっとして、ボストンバッグを抱えて洗面所へ向かう。
 扉を閉めて、バッグの奥底に押し込んでいたビニール袋を引っ張り出した。恐る恐る中を見ると、昨夜ぐっしょりと濡らしてしまった衣服が姿を現す。顔をしかめたくなりながらも、茜は汚した衣服を抱えて浴室に足を踏み入れた。このまま洗濯機に入れるわけにはいかないので下洗いをしないといけない。

(ゆうべ洗っておけばよかったかも……)

 汚れが染み付いてしまったジャージや下着を洗いながら今更のように後悔するが、昨晩はそこまで頭が回らなかったのだ。きちんと綺麗になるだろうかと不安に思いながらも、下洗いを終えて洗濯機を回す。
 そこまで終えて一息ついていると、ふいに廊下から夏癸の声が聞こえた。

「茜、いま開けても大丈夫ですか?」
「はっ、はい。大丈夫ですっ」

 一瞬焦ってしまったが、洗濯中のいまは彼に見られて困るものはない。返事をすると、夏癸はそっと扉を開けて顔を覗かせた。

「ご飯の前に……」

 言いかけて、夏癸はふと口を閉じた。なんだか不思議そうな顔でこちらを見ている。

「夏癸さん?」
「ああ、いえ、すみません。ご飯の前に、先にお風呂入りますか?」
「あ、うん。そうします」

 普段は夕飯のあとに入浴という順番だが、今日は先にお風呂に入りたいなとちょうど思っていたところだ。

「じゃあ、お風呂入っちゃってくださいね。掃除は昼間したから大丈夫ですよ」
「はぁい。……あ、」

 ふと、着替えもせずジャージを着たままでいたことにいまになって気付いた。先ほどの夏癸の視線の意味を理解して、じわじわと頬が熱くなる。
 体操着を洗うという名目で洗濯機を使っているのに、今日一日着ていたものは身に着けたままなのだ。不思議な顔をされても仕方がない。

「あ、ぅ、あの、その、昨日、色々、汚しちゃった、から……」

 夏癸は何も言っていないというのに、茜の口は勝手に動いていた。何を言っているのだろうと自分でも思うけれど、ここまで口にしてしまったら林間学校中に失敗をしたことは彼に伝わってしまっただろう。
 せめて、家でしてしまうような粗相をしたわけではない、ということだけは言っておきたかった。

「おねしょしたわけじゃないんです! けど、夜中におトイレ間に合わなくて……っ」

 思わずそう言ってから、自分の失敗を自ら告げてしまったことに恥ずかしさを強く感じた。思わず夏癸から視線を逸らして俯いてしまう。すると、夏癸は洗面所の中に入ってきて、茜の前でそっと足を止めた。顔を上げることはできなくて彼の足先だけが目に入る。

「茜、大丈夫ですよ。顔を上げてくれませんか?」
「……」

 おずおずと顔を上げると、夏癸は苦笑を滲ませながらも優しい表情をしていた。

「あの……ごめんなさい……」
「謝らなくていいんですよ。着替えも持っていって、洗濯もして、全部自分でなんとかしようとしたのでしょう? 何も悪いことなんてしていませんよ」

 夏癸の手が伸びてきて彼女の髪をそっと撫でる。でも、と茜は小さな声で言葉を続けた。

「……隠そうと、したから……」
「べつに隠していてよかったんですよ? もしかして、やってしまったのかなと気付いてはいましたけど」
「やっぱり、気付いてたんですか……?」
「帰ってきたときの顔を見て、なんとなくですけどね」

 やっぱり夏癸にはなんでもお見通しみたいだ。けれどせめて、トイレ以外の場所で用を足してしまったり、夜中以外にも下着をほんの少し汚したりしてしまったことは絶対に内緒にしておこうと思った。
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