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1.新学期の朝

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 今朝は少しだけ懐かしい夢を見た。
 夢の内容を思い出してほんの少し感傷的な気分になりながらも、夏癸はいつものように朝食作りに勤しんでいた。
 鍋の中身を軽くかき回すと、味噌の良い香りが鼻腔に広がる。
 味噌汁の具はシンプルに油揚げとわかめだけだ。
 本当はネギも入れたほうが彼の好みなのだが、好き嫌いをほとんどしない同居人の数少ない苦手な食べ物なので、めったに入れることはない。
 コンロの火を止めて味見をする。よく出汁のきいた味に満足し、夏癸は一人頷いた。
 ご飯をよそおうと炊飯器を見ると、時刻は午前七時の七分前を示していた。

 いつもなら起き出しているはずの彼女が、まだ姿を見せない。そろそろ起こしに行ったほうがいいだろうかと思案していると、廊下から小さな足音が聞こえてきた。
 居間に入るのかと思った足音は、台所の前でぴたりと止まった。
 視線を動かすと、曇りガラスの向こうで立ち尽くしている小柄な影が見えた。逡巡している様子が、ガラス越しにも伝わってくる。
 やがて、そっと引き戸を開けて、僅かな隙間から少女が顔を覗かせた。

「あ、あの、夏癸さん……」

 彼女はおずおずと声をかけてきた。
 頬を染めて困ったように眉を寄せた表情は、泣き出す寸前のようだ。夏癸はあえてにこやかに微笑みを向けた。

「おはようございます、茜。どうしました?」

 茜、と呼ばれた少女はびくりと身を竦ませた。顔を下に向けて「おはようございます」と、か細い声で呟く。

「……ごめんなさい」

 茜は俯いたまま、両腕に抱えているものをぎゅっと抱き締めた。それが濡れて重たくなったシーツであることには、すでに気が付いていた。
 夏癸は朝食を用意する手をいったん止め、引き戸を開けると彼女の前で軽く膝を折った。
 寝癖がついたままの髪をそっと撫でる。

「あとで洗濯しておきますから。布団は濡れていませんね?」

 こくんと、茜は頷いた。

「じゃあ、早く着替えておいで。もうすぐ朝ごはんもできますから」

 優しく言い聞かせるようにして顔を覗き込むと、茜は涙を堪えながら小さく頷いた。そのままくるりと踵を返し、足早に廊下を歩いていく。
 可愛らしい水玉模様のパジャマは、太腿から腰の辺りまでぐっしょりと濡れていた。
 夏癸は軽く嘆息して、引き戸を閉めた。――随分と落ち込んでいる様子だった。慣れたこととはいえ、久しぶりの失敗に少なからずショックを受けたのだろう。
 さてどうやって慰めたものかと、夏癸は朝からひそかに頭を悩ませることとなった。

***

「はぁ……」

 着慣れたセーラー服に袖を通しながら、椎名茜しいなあかねは重いため息をついた。
 しょんぼりと肩を落として、藤色のスカーフタイをふんわりと結ぶ。シャワーを浴びて着替えて、下半身にまとわりついていた不快感からは解放されたものの、落ち込んだ気分はあまり晴れなかった。
 今日から中学三年生になるというのに、まさか新学期初日の朝からおねしょをしてしまうとは思わなかった。
 寝る前にはちゃんとトイレに行ったし、夕食のときから水分も摂りすぎてはいなかったのに。鏡を覗きながら、僅かに湿っている髪をふたつの三つ編みに結う。目が少しだけ赤い。

(夏癸さん、怒ってないかな……)

 髪を編みながら、はぁ、ともう一度ため息をつく。
 茜は幼い頃から、彼の前で粗相をしてしまうことが何度もあった。
 その度に夏癸は優しく慰めてくれて、濡れた布団や床を片付けてくれた。もともと声を荒げて怒るような性格ではないということもあるが、このような失敗をしたことで彼に怒られた記憶はほとんどない。
 けれど、小さな子どもならともかく茜はもうすぐ十五歳だ。
 たとえ怒っていなかったとしても、態度に出さないだけで内心は呆れているかもしれない。

 沈んだ気持ちのまま身支度を整え、敷きっぱなしだった布団を押入れに片付ける。シーツはぐっしょりと濡れてしまったが、敷き布団には染みひとつない。おねしょ対策として防水加工されたシーツを使っているからだ。
 この歳になってまでこんなものを使っているのは情けないが、ただでさえ夏癸に迷惑をかけているのだから少しでも後始末の手間は減らしたい。もっとも、小学生のときはともかく、最近はめったにおねしょなんてしていなかった。
 そろそろ普通のシーツにしてもいいかもしれない――そう思っていた矢先の失敗だったので、茜は深く落ち込んでいた。

「あ、もうこんな時間……!」

 時計を見ると七時を十五分ほど過ぎようとしていた。
 早く朝ごはんを食べないと、と慌てて鞄を掴んで部屋を出ようとするが。
 あっ、と足を止め、襖に手をかけたまま茜は後ろを振り返った。

「お父さん、お母さん、いってきます」

 机の上に飾られた写真の中で微笑む両親に向けて、茜は今日初めての柔らかい表情を浮かべた。


 ほんの少し足早に階段を下りていき、玄関に通学鞄を置いておく。おずおずと居間を覗くと、座卓の前で朝のニュース番組を眺めていた夏癸がこちらに気付いて優しい笑みを向けてきた。

「落ち着きましたか?」
「は、はい。なんとか」
「ならよかった。朝ごはん、用意できていますよ」

 促されて食卓につく。炊き立てのご飯と温かい味噌汁、ハムエッグに付け合わせのサラダ、そしてフルーツヨーグルト。いただきます、と手を合わせて箸を取ると、目の前にお気に入りのマグカップが置かれた。淹れたての緑茶が湯気を立てている。
 夏癸は向かい側に座り、同じようにいただきますと手を合わせた。毎朝つけているニュース番組の音声をなんとなく聞きながら黙々と箸を進める。小ぶりな茶碗の中身が半分くらいに減ったところで、茜はちら、と彼の顔を窺うように視線を向けた。

「茜? どうしました?」
「あっ、え、えっと……なんでもないっ」

 頬を赤らめて、ぱっと顔を俯ける。
 おねしょをしたことを怒っていないか、なんて、口に出せるわけがない。けれど、茜が言いたいことを察したかのように彼はそっと口を開いた。

「べつに、気にしなくていいんですよ、と言っても茜は気にしてしまうかもしれませんが……大丈夫ですよ、迷惑だなんて思っていませんから、ね」

 穏やかな夏癸の声は優しく響いて、恥ずかしさは拭いきれないけれど安心感に包まれる。
 おずおずと顔を上げると、夏癸は細い銀フレームの眼鏡の奥で目を細めた。
 早く食べてしまいなさい、と促されて、茜は再び箸を動かした。家を出なければいけない時間が迫っている。

「ごちそうさまっ」

 残さずに朝ごはんを食べ終えて、食器を下げる。走らない程度の早足で廊下をぱたぱたと歩いていき、トイレを済ませてから茜は再び居間を覗いた。食器を片付けようとしている夏癸に明るく声をかける。

「夏癸さん、いってきます」
「気を付けていってらっしゃい」

 はぁい、と応えて、通学鞄を掴んで家を出ると、茜は学校に向かって足早に歩き出した。

***

 淡い色の桜が美しく咲き誇っている通い慣れた通学路を少しだけ急ぎ足で歩いていく。

「――茜、おはよ!」
 ふいに肩を叩かれて、思わず、びくっと竦んでしまう。後ろを振り返ると、小学校からの友人である河野柚香こうのゆかがポニーテールを揺らして明るい表情を浮かべていた。

「おはよう、柚香ちゃん……」
「ん、なんか元気ない?」
「そう、かな。クラス替えで緊張してるかも」
「そんなに心配することないよー」

 茜は自分の表情を誤魔化すように苦笑を浮かべ、二人で並んで歩き出した。
 幼い頃から付き合いがあるとはいえ、新学期早々おねしょをしてしまったことを彼女には知られたくなかった。それに、クラス替えに緊張しているということは本当だ。
 同じクラスに仲の良い子がいなかったらどうしよう、といつもクラス替えのたびに不安に思ってしまう。

「ねー、あたしたちもう三年って早いよね?」
「そうだね。あっという間だよね」
「最近お母さんが塾行けってうるさくてさー、絶対やだー。茜はそういうこと言われない?」
「夏癸さんは、とくに何も言わないかな……」
「そっかぁ。茜、勉強できるもんねー」

 他愛のない会話を繰り返しながら学校への道のりを歩いていく。校門を潜り、昇降口へ行くと人だかりができていた。クラス替えの紙が貼り出されているみたいだ。

「えーと……あ、あたし二組だ! 茜も同じクラス!」
「ほんと?」

 必死に背伸びをして人垣の隙間に目を凝らす。三年二組の一覧に、椎名茜、と自分の名前を見つけた。すぐ上に柚香の名前も確認して、ほっとする。他にも仲の良い子の名前がある。

「三年間同じクラスだね!」
「うんっ」

 柚香と笑い合っていると、登校してきたべつの友人に声をかけられた。

「おはよー、茜ちゃん、柚香。クラスもう見た?」
「あ、なずなちゃん。おはよう」
「おはよ、なずな。同じクラスだよ!」
「ほんとー? あ、ほんとだ。二組、やった」

 早坂はやさかなずなはクラスを確認すると、耳の下で二つに結んだ髪を揺らして口元をほころばせた。
 中学に入学してから仲良くなったなずなとは二年生のときにクラスが別れてしまったのだが、今年は三人とも同じクラスになれた。

「担任の先生誰かな?」
「あたし葉子先生か香枝先生がいいなー。茜は誰がいい?」
「えっと……怖い先生じゃないといいかな」
「わかる! 楠田先生とか絶対やだ!」

 学校で一番厳しい先生だと言われている生徒指導の教師の名前を柚香が上げる。そんな会話をしながら三人で教室に向かう。三階まで階段を上がり廊下を歩いていると、ふと二組の教室から出てきた男子生徒と目が合った。

「あ……椎名さん、おはよう!」
「おはよう、麻倉くん。えっと、今年も同じクラスだね」
「うん。またよろしく」

 何気なく言葉を交わして麻倉椋あさくらりょうとすれ違う。一瞬、彼の頬が赤いように見えたが気のせいかもしれない。椋とも、柚香と同じく三年間同じクラスだ。
 中学生として最後の一年間が始まることに期待と不安を覚えながら、茜はそっと教室に足を踏み入れた。
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