放課後の生徒会室

志月さら

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放課後の生徒会室

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 紙にペンを走らせる音と時計の秒針が時を刻む音が妙に耳につく。
 手元の書類に書かれている内容を確認し、春日知佳かすがちかは必死にペンを動かしていた。
 窓の外からは練習に励む運動部の声や吹奏楽部の演奏が聞こえてくるが、生徒会室の中にはピリピリとした空気が漂っていた。

「あ~~青葉ちゃんがいてくれればなぁ」
「そもそもお前のせいだろ! 黙って手ぇ動かせ!」

 ぼやく副会長の三好司みよしつかさに向けて一喝したのは生徒会長の楠木旭くすのきあさひだ。
 今日が提出期限の書類の存在を司がいままで忘れていたために、生徒会役員は急遽全員招集されることになったのだ。全員、といっても頼みの綱であった女子副会長の斎藤青葉さいとうあおばは運悪く欠席しており、まだ仕事に慣れていない一年生は呼んでいないため、この三人しかいないのだけれど。
 司は肩を竦めて仕事を再開したが、隣の机で手を動かしていた知佳は、開きかけていた口をそっと噤んだ。

(どうしよう……)

 こっそりと左手を机の下へ持っていき、スカートの端をぎゅっと握る。
 脚はもじもじと落ち着きなく擦り合わせている。見咎められたら恥ずかしいのだけれど、じっと座っていることができない。
 生徒会室にやって来る前から、知佳はトイレに行きたいのを我慢していた。
 ホームルームが終わったらトイレに行こうと思っていたのだが、放課後になった途端に、三年生の旭が迎えに来て生徒会室まで連行されてしまったのだ。腕を引かれながら歩く道中で「トイレに行きたい」と言い出すことは恥ずかしくてできなかった。
 仕事を始めたらもちろん席を外すことなどできるわけがなく、尿意を催してから二時間近く我慢を続けていた。休み時間に行っておけばよかった、と後悔するものの今更どうしようもない。

(うぅ……トイレ行きたいよぉ……)

 ぎゅう、と膝を寄せて尿意の波に耐える。
 仕事を終わらせるまで生徒会室から出ることは許されないだろう。
 離席を願おうと何度か口を開こうとはしたのだが、タイミングが掴めない。何より、殺気立った様子の旭に声をかけることは躊躇われた。
 どうして期限ぎりぎりまで書類を溜め込んでいたのだろう、と幼少の頃より顔見知りの副会長に向けて恨みがましい視線を向けてしまう。

 早く仕事を終わらせればこの我慢からも解放されるのだが、知佳は尿意を堪えることに精一杯で、一枚の書類を仕上げるだけでも時間がかかっていた。
 数行ペンを進めては、襲われる波に耐えるため片手でさりげなくスカートの上から太腿の辺りを押さえてしまう。内腿はきつく寄せ、脚は時折小刻みに震えていた。
 お腹が重たい。膀胱の中には我慢を重ねたおしっこがたっぷりと詰まっている。
 全ての書類を片付けるまで我慢できるだろうか――否。すでに相当切羽詰まっている。

(このままだと、おもらししちゃう――?)

 最悪の事態が脳裏を過ぎり、知佳はぶるりと身震いした。
 そんなの嫌だ。高校生にもなって。恥ずかしくて死んでしまう。
 それに、いまの旭は機嫌が悪い。そんな粗相をしたら烈火の如く怒られるに決まっている。
 トイレに行かせてと頼んでみようか。
 いくら日頃から鬼、悪魔、冷血漢と恐れられている彼とはいえ、生理現象の我慢を強要してくることはさすがにないのでは。
 ちら、と会長用の机に座る旭の顔をそっと窺うが、喉の奥が凍り付いたかのように声が出ない。やっぱり怒られるかもしれないし、羞恥心が邪魔をして言い出せない。
 どうしよう、どうしよう――。

「――知佳、どうしたの? 具合でも悪い?」

 突然、司の囁き声が聞こえて、知佳ははっとした。気付けば手が止まっていた。

「な、なんでもない」

 ごく小さな声で応えるが、その声は震えてしまった。

「うそ。さっきから辛そうだよ」
「だい、じょぶ、だから……」

 僅かな声を発するだけで、膀胱が刺激されるような気がする。
 ふいに強い尿意に襲われて、知佳は思わず両手で腿の間を押さえた。ぎゅう、と力を込めるが、身体は限界を訴えてくる。

「もしかして――」

 彼女の様子を見て、司は何かに気付いたように目を丸くした。

「テメーら無駄口叩いてないで手を動かせ!」

 司の呟きは、旭の怒声に掻き消された。
 バン、と机を叩いて立ち上がった旭の怒鳴り声に、知佳はびくりと震えた。一瞬、身体の力が抜ける。

「ぁ……」

 じわっと下着が濡れて、手にも温かい感触が広がった。
 押さえる手に強く力を込めるが抵抗も空しく、指の間を漏れ出したものは椅子を濡らしていく。お尻の下に広がった温かい液体は、水音を立てて床に水たまりを作り上げていった。
 ――時間が、止まったみたいだった。
 知佳は頭が真っ白になりながらも、我慢していたものから解放される心地良さに身を委ねた。はあ、と無意識のうちに息を吐き出す。

(おしっこ……でちゃった、きもちいい……)

 びちゃびちゃと響く水音が耳に入るたびに、張り詰めていたお腹が軽くなっていく。
 やがて、長い水音が止まった。
 誰もが言葉を失った中、ぴちゃり、と水滴が落ちる音だけが聞こえた。

「春日……お前……」

 沈黙を破ったのは、呆然としたような旭の呟きだった。
 その声で知佳は我に返る。視線を落とすと、自分の失態が目に入った。
 足元に広がった、大きなおしっこの水たまり。

「あ、ぁ……っ」

 それを見た瞬間、身体が震えた。顔が熱くなる。

「あーやっぱり……」
 司の小さな呟きが耳に入ったような気がした。

(やっちゃった、どうしよう……! 楠木先輩も司くんもいるのに……おしっこ、もらしちゃった……)

 頭の中が混乱して、ぼろぼろと涙が零れてくる。

「ごめんなさ、ごめんなさい……っ」

 深く俯いて、嗚咽混じりに知佳は必死に謝った。
 高校生にもなって、男の子もいる場で、おもらしをしてしまった。
 その事実が酷く恥ずかしくて、濡れた下肢が気持ち悪くてどうしたらいいのかわからない。
 はあ、とため息が聞こえて、びくっと肩が震えた。

(怒られる――!)

 怒鳴られるのを覚悟して、ぎゅっと目を瞑る。

「お前な……トイレ行きたいならちゃんとそう言え」

 呆れたような声が降ってきて、頭を軽く叩かれる。
 それ以上は何もされなくて、知佳は不思議に思いながらもおずおずと顔を上げた。
 涙で濡れた視界に、いつの間にか目の前に立っていた旭が映る。

「お、怒らないんですか……?」

 小さな声で訊ねると、彼は口元に苦笑を浮かべた。

「そんな顔で泣いてるやつを怒れるわけないだろ」

 そう言って、今度は優しく頭を撫でられる。そして、旭はハンカチを取り出すと知佳の涙でぐちゃぐちゃになった顔をそっと拭った。

「とりあえず、着替えてこいよ。ジャージ持ってるか?」

 問われて首を振る。今日は体育のない日だった。

「じゃあ、保健室で借りて……おい、司。一緒に行ってやれ」
「りょーかい」
「あ、あの、掃除……」
「俺がやっておく」
「い、嫌です! わたし、やります、からっ」

 さすがに粗相の跡を生徒会長に片付けさせるわけにはいかない。

「わかった、わかった。先に着替えてきな」

 宥められるようにもう一度頭を撫でられて、恥ずかしさに耳まで赤くなる。

「知佳、保健室行こ」

 司に促され、恐る恐る水浸しの椅子から立ち上がる。スカートからぽたぽたと水滴が落ちて、またじわりと視界が滲んだ。このまま歩いていったら廊下も汚してしまう。

「あー……ちょっと待って」

 司が踵を返す。怪訝に思っていると、彼は鞄の中からタオルを出してすぐに戻ってきた。

「スカートとか軽く拭きな」
「えっ……でも、汚しちゃう……」
「いいよ、どうせ洗濯するし」

 躊躇う知佳をよそに、司はびしょ濡れになった彼女の手を取りタオルで拭った。そこまでされると受け取るしかなくなる。

「わかった……」

 二人の視線を気にしつつ、濡れたプリーツスカートにタオルを押し付けて水気を吸い取る。脚も少しだけ拭いたが、靴下も上履きもぐっしょりと濡れてしまっている。このまま歩いたらどちらにしろ床を汚してしまうのではないだろうか。

(どうしよう……)

 困惑していると、ふいに司と視線がぶつかった。何かを思いついたかのように、彼はひとつ頷く。

「よし、俺が抱っこしていってやろう。靴下と上履き脱いじゃいな」
「やだよ!? 司くんまで汚しちゃう……!」
「今更気にしないよ。おもらしして泣いてた知佳を家までおんぶしてあげただろ」
「そんなの小学生のときでしょ……! なんでまだ覚えてるの!?」
「俺、記憶力いいし。ていうか知佳だって覚えてるじゃん」
「……騒いでないでさっさと行け」

 低い声に命じられ、二人して言い合っていた口を噤む。
 知佳がおとなしく上履きと靴下を脱いで裸足になると、ひょいと横抱きにされた。
 放課後とはいえ校舎内にはまだ人が残っている。司はなるべく人目を避けるように保健室まで連れていってくれた。

***

「失礼しました」

 ぺこりと頭を下げて、知佳は保健室から出た。
 ジャージの上下に着替えて、スカートと下着はビニール袋に入れ、他の制服とともに紙袋に入れてある。足元は素足にスリッパなのでなんとなく落ち着かない。
 汚れた下肢はお湯で濡らしたタオルで拭かせてもらったのですっきりした。
 さすがに下着までは借りられないだろうと思っていたのだが、サニタリーショーツを貸してもらえたので助かった。

(先生、優しかったな……)

 高校生になってまでおもらしをしたなんて知られたら引かれるかと思ったが、養護教諭の先生はとくに驚くこともなく着替えを用意してくれた。
 誰にでも起こり得ることだから気にしなくていい、と慰められて、恥ずかしかったけれど少し気持ちが落ち着いた。

「なんとかなった?」
「うん」

 廊下で待っていた司に声をかけられて、頷く。

「あの……色々、ありがとう」
「どういたしまして。早く戻ろうか、あんまり遅いと鬼会長に怒られそうだ」

 まだ仕事は終わっていないのだ。それに、床も掃除しないといけない。
 廊下を歩き出すと、ふいに隣を歩く司に髪をくしゃりと撫でられた。

「あんまり気にすることないよ。だいたい旭のせいなんだし。急にあいつに連れてこられたからトイレ行けなかったんだろ?」
「……うん。……あれ、ていうかそもそもの原因は司くんだよね?」
「スミマセンでした」

 ばつの悪い様子の司がちょっとだけ可笑しくて、思わず頬が緩む。
 少しだけ急ぎ足で、二人は生徒会室へ戻っていった。


「ただいまー」

 ガラッと小気味よくドアを開ける司の後ろに隠れるようにして、知佳は恐る恐る生徒会室に足を踏み入れた。
 部屋の中を見渡すと、なぜか彼女の粗相の跡は綺麗に片付けられていた。

「ああ、戻ったか」

 自分の机で書類に向かっていた旭が顔を上げる。
 知佳は顔を真っ赤にして、おずおずと彼に視線を向けた。

「先輩……あの、あの、掃除って」
「俺がやっておいた。そのほうが合理的だろ」
「わたしがやるって言ったじゃないですかぁ……っ」

 あまりの恥ずかしさに、一度止まったはずの涙が再びせり上がってくる。
 それを見た旭はぎょっとした表情を浮かべた。

「べつに泣くことないだろ!?」
「だ、だって、恥ずかし……」

 密かに憧れと恋心を抱いている先輩に、おもらしした床を拭かれてしまった。
 掃除をする旭の姿を思わず想像してしまい、知佳はぼろぼろと泣き出してしまう。異性に触れられたというだけでも恥ずかしいのに、相手が旭なのだから尚更だ。

「うわー旭くん、また泣かせたー」
「お前は黙って仕事してろ!」

 茶化す司に怒声を飛ばした旭は、席を立つと泣きじゃくる知佳に歩み寄った。俯いた頭を優しく撫でられる。

「すまん、俺が悪かった。デリカシーがなかった。どうしたら許してくれる?」
「……じゃあ、わたしと付き合ってくれますか」
「……は?」

 呆気に取られた声が聞こえて、知佳は自分がとんでもないことを口走ってしまったことに気が付いた。慌てて顔を上げて首を振る。

「ち、ちが、違くて」
「……違うのか?」
「ち、がわない、です」

 真正面から視線がぶつかり、否定しようとした言葉を更に否定する。
 知佳は震える手でジャージの裾を握り締めた。心臓がばくばくしている。

「一年生の頃から、楠木先輩が好きでした」

 ――一体何をしているのだろう。生徒会室で粗相してしまって、保健室から借りたジャージ姿で、憧れていた生徒会長に泣きながら告白。
 自分の行動に内心混乱しながらも、知佳は必死に言葉を繋げた。

「先輩に近付きたくて、生徒会にも入りました。怒ると怖いけど、それは真剣に仕事をしているからで、本当は優しいってことも知ってます。……先輩、わたしと付き合ってください!」

 精一杯想いを告げる。旭の顔が、みるみる赤く染まっていった。

「……すまん。ちょっと待ってくれ」

 旭は赤くなった顔を隠すかのように片手で顔を覆った。それでも、頬が紅潮しているのがはっきりと見て取れる。

「い、いえ、あの、わたしこそ急にすみません! わ、忘れてください……っ」

 わたわたと慌ててしまう知佳だ。
 どうしてこのタイミングで告白してしまったのか、自分でもよくわからない。
 すっかり涙は止まっていた。

「いや、返事はする。……これが終わったらでいいか」
「は、はいっ。全然、大丈夫です」

 真剣な顔で告げる旭に、どぎまぎしながら頷く。
 先ほどまであんなに真っ赤な顔をしていたというのに、彼はすでにいつもの冷静さを取り戻していた。

「じゃあ、仕事に励めよ。終わるまで帰らせないからな。ああ、でも……」

 耳元に唇を寄せて、低い声で囁かれる。

「またトイレに行きたくなったら、今度はちゃんと言えよ?」

 知佳は耳まで真っ赤になって小さく頷くことしかできなかった。

「……二人ともさ、俺の存在忘れてない?」

 司の声が聞こえて、びくりと肩が揺れる。――完全に忘れていた。

「…………」
「ご、ごめんなさいっ」

 旭は気まずそうな顔で無言のまま、知佳は慌てて謝りながら自分の席に戻る。
 壊れてしまうんじゃないかと思うくらい心臓が鼓動を打ち続けている。
 ――早く仕事を終わらせたいような、終わらせたくないような。
 複雑な気持ちを抱えながら、知佳は書類に向き合った。

(すぐに断らないってことは……もしかして、もしかするの、かな)

 書類を見るふりをしながら、そっと旭の顔を盗み見る。すっかり生真面目な生徒会長の顔になって仕事に取り組んでいる。
 未記入の書類に書き込もうとペンを握るが、視線はまた彼のほうを向いてしまう。
 ――仕事が終わるには、まだまだ時間がかかりそうだった。
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