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第二話 楽器修理依頼 ②

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 伶次朗の襟首を、これでもかと掴み持ち、振り回す愛。

 焦りからなのか、女性では有り得ない腕力で、縦振り、横振り、斜め振りと、伶次朗の残像が並ぶ。

「まて、まてまて、く、苦しくて……喋れん」

 “はっ”と我に還ると、

「あっ、あぁ、すまん」
「……ひいぃ。死ぬかと思った」
「す、すまない。つい力が」
「ったく、まあ分からんでもねぇよ。そりゃ焦るさ」
「だろ、備品だぞ! 一年経たずに廃棄申請した日にゃ廃部にされちまうし、私も始末書だけじゃ済まない」
「ちっ……テメェの心配か」
「んだと! 現場を知らん貴様には関係無かろうが」
「伶ちゃん! ちょっと落ち着いて、先輩も!」

 サッと二人の間に割って入るかすみ。

 年下にありながら、悶着もんちゃくをあっさりとなだめ、焦りと勢いで持ち上がった愛の腰を、何事も無かったかのように席に着かせる。

 店のオーナーという立場、目上を立てる技量もあるが、この行為が許される生まれ持った特質。 と、言うべきの方が、彼女に当て填まる。


 そして、憎む事など絶対不可能、完全無欠な、にっこり笑顔で、本当に何事も無かったかの様に、手慣れた手付きで、テーブルに珈琲を提供すると……。
 白帯びとなった、香ばしく深い薫りが、両者の鼻腔を擽り、吊り上がった口元を緩ます。


「出て……来そうなの?」

 指先で伶次朗のカップ隣に、銀色の小さなミルクピッチャーを添えながら、小声で問うかすみ。

「ああ、多分。割れの方も、日が浅そうだしね。それに……」

 テーブルの上に置かれた、先程手にしていた保証書を、スッと、ズラすと。

「あら」

 “選定書”と表記された保証書と同じサイズのカードが下に存在していた。
 "Murdoch " と、筆記体で荒く書き殴られたサインを指で撫でながらかすみに示し、薄らと微笑む伶次朗。

「このサイン。マスターのモノだよ」
「今夜は、盛り上がりそうだね」

 そう小声で呟きながらバーカウンタの方を見つめるかすみ。
 その先には、紫色の艶光沢のある、小さな座布団に置かれた、黒い木片の様な存在があった。

 何やら義理姉弟の事情が有りそうな会話で盛り上がっているが、愛には全く分からない……いや、全く気付いていない様子。

 目の前の珈琲から素肌、頰にも感じる立体感ある薫りが、問答無用に責め立て来る事に感動している愛。
 無意識? 自然と鼻の下が伸び、深く吸い込む為、前のめりの姿勢で、かなりブサイクな格好になっていた。

「な、なにやってんだアンタ」

 ハッと我に還り、アヘ顔となっていた表情を何事も無かったかの様に取り繕うが、赤面した頰は隠せなかった。

「先輩、かわいい」
「う、うるさい」

 モジモジとしながら赤面した顔面を俯き隠す愛。

「チャンス……か」

 少し思い詰めた表情を一瞬見せ、二本目の煙草に火を灯し、溜息混じりで嗜みの煙りを言葉と共に吐き放つ伶次朗。

「遠山乃中って、確か……吹奏楽コンクールの小編成部門で、地区予選突破の常連校だよな」
「ああ」
「今年度、顧問が変わって、アンタが指揮を振るって訳だ」
「まあ、その通りだ」
「んーー、察しはつくが、状況は……非常に」
「ひ、非常に!?」

 瞼を閉じ、二口目の嗜みを味わい終えると、愛に目線を合わせ一言放つ。

「厳しいな」

 伶次朗の言葉に顔をしかめ、怯みを見せる彼女、矢間田 愛。

 音楽大学卒業、彼女は中学校の臨時採用ではあるが、夢の音楽教師として一歩を踏み出した。
 そして数年、産休や病欠教員の代理業務で現場の転勤と、教員採用試験を繰り返すが、これがかなりの狭き門。

 採用枠は恐ろしい倍率で、中々結果が出ない。そんな中で先輩教員から『インパクトある結果を履歴書に書ければ結構有利になるぞ』とのアドバイスをもらい、今回の転勤でチャンスが巡ってきた。

 そのチャンスは、遠山乃中学校への転勤とその吹奏楽部にあった。少人数ではあるが小編成部門、地区大会突破の常連校で、前任の顧問が産休となり、そこに愛が顧問として抜擢されたのだ。

 地区大会突破。

 前任の指導を受け継いだ生徒となら、簡単にその大会を突破して、更にその先の結果を履歴書に書ければ面接での評価は上がり好印象、教員採用への強力な武器となる事は間違いなしと、なるプランだったのだが……。

「通常修理で全治……約一週間だな。こりゃ完全オーバーホールだ」
「い、一週間!!」

「まあ俺が察するに、アンタんとこの問題は、それだじゃないと思うが……」
「へっ?」

 まだ、何かあるのかと、焦る愛を尻目に、問答無用で話を勧める伶次朗。

「役所に備品登録されたそのクラリネット、修理するのは当然、落札、納品をした公的登録の指定業者が行うのが筋、それが保証期間内なら尚更なことだ。場合によったら無償で修理……いや、これは無理か」
「無償修理!?」

 煙草の灰を落とし、少々納得いかない口調で語り出す伶次朗。

「納品時の説明不足に突っ込んで、揚げ足を取ってもいいんだが、まあ、アンタに非があり過ぎて、逆に己の醜態を晒す事になる……まあ、コンクール前の今次期、どこのメーカーも修理の殺到で順番待ちだろうから、どちらにしても、納期に最低二週間以上は掛かるだろうな」
「ぜ、絶望だ」
「まあ、アンタにとっては、この路線の段取りじゃないと、結構ツライと思うが……」
「と、言うと?」
「備品登録した楽器、そのクラリネットは、教育現場において必要不可欠という名目で、その現場に存在するが、その持ち主、所有者は役所、自治体の物だ。それを修理して修理代を請求する」
「ん?」
「まだ、わかんねぇーーか? つまりは修理代金、請求出来るのは、このクラリネットを収めた業者で、金を払うのはお役所だ、修繕費っちゅう予算が、役所にあらかじめ組み込まれていて、アンタの腹は痛まんし、部費の出費も避けられる。管体割れ修理と、全タンポ交換にキー調整……これだけやって、いくら掛かると思ってんだ」
「い、いくらなんだ」

 短くなった煙草を咥え、左手は“パー”右手は“チョキ”と愛に見せる。

「なな……せんえん?」
「アホか」

 眉を顰め呆れ顔をする伶次朗。

「ジェロが一個足らんよジェロが」
「な、ななまん!!」

 煙草の火を消しながら、伶次朗が小さく頷くと、愛は意気消沈として、どこを見ているのか分からない視点でブツブツと小声で呟く。

「バス代に楽器運搬費、レンタル楽譜代にリード代……」

「“から”だ。まあ、俺だったら割れの修復費用は、ちょっとだけサービスするにしても、あともう一万ぐらいは掛かるか」

 ガックリと項垂れる愛。慈愛を込めて、かすみがその頭を優しく撫でながら、伶次朗を睨む。

 “分かっておりますよ”と言わんばかりに伶次朗は再び顔を顰めながら愛想笑いで語り出した。

「お役所の指定業者ともなれば、公的書類の元、修理代金の請求をする事もできるが……あいにく、ウチは見てのとおりの喫茶店……どうだろう」

 かすみが愛の肩をポンポンと叩く


「交換条件ってのは?」

 息を吹き返したかのように顔を上げる愛。

「こ、交換条件?」
「ああ、交換条件だ。従うのであれば、明日の本番前の朝練に間に合うよう、このクラリネット、完全元通りにしてやる。しかもタダ、無償でだ」

 薄らと、笑いを浮かべながら愛を見つめる伶次朗。その視線に耐えかねたのか、愛の顔が真っ赤に染まり……。

「わわわ、私は、だだだ、駄目だ!! ばばば、ばってん、ままま、まだそんな経験あらんと、交換条件で、そそそ、そげんなこと!!」

 伶次朗の視線から、胸を隠すように押さえ、身を縮める愛。

「お前、帰れ!!」

 立ち上がりながら出口ドアを指さす伶次朗。これには、かすみは大爆笑で、腹を抱えテーブルをドンドンと叩く。

「あぁ~楽しいぃ」
「楽しくない!! ったい、俺はいったいどんな目で見られてたんだ」
「伶ちゃん目、エッチだったんだよ」
「大体、そんな疚しい報酬目的で修理するほど、落ちぶれちゃあおらん」
「先輩、安心して。伶ちゃんああ見えて攻められる方が好きなの。いわゆる“エム”よエム」
「やめなさい、人聞き悪い」

 ふくれて、三本目の煙草に火を灯す伶次朗。少し落ち着いた愛が恐る恐る切り出す。

「か、体が目的じゃないんだな」
「まだ言うか、そんなしょーもないこと言ってたら俺の気が変わっちまうぞ。一生懸命練習した生徒も待ってるんだろ」
「ああ、そのとおりだ」

 チリチリと美味そうに嗜み返答を待っている素振りの伶次朗だが、愛が切り出す前に語り出した。

「かすみさんの顔もあるしな、交換条件ってのも、とりあえず保留にしてやる。だけど、これだけは守ってくれ」
「な、なんだ」
「この事は、一切他言無用だ」

 火のついた煙草の噸先を愛に向け、真剣に睨み付ける伶次朗。これに愛は一切反論せず素直に返答を返した。

「ああ。分かった」
「これでもアンタを信用してるんだからな。頼むぞ」

 少し長めに残った煙草ではあったが惜しげも無く灰皿に押しつけ火を消すと、ミルクピッチャーを摘まみ、運ばれた珈琲にドボドボと注ぎ込む。

 少し冷めているとはいえまだ十分な温かさを残した珈琲だが、伶次朗は躊躇する事なく一気に飲み干した。

「ありがと伶ちゃん」

 チラリとかすみを見て、静かに頷き、その頭を撫でると、
「よっこらしょっと……」
「すまない、早速取りかかってくれるのか」

 納期一週間の代物からの罪悪感か、少し躊躇いの声を掛ける愛。それに対し大きく背伸びをして、更には、涙混じりの大あくびをしながら一言。

「さて、寝るか」
「えっ?」
「おやすみ伶ちゃん」
「ええぇぇぇぇ!?」
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