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3.自宅にダンジョンが現れた
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●5月1日 水沢健司
水沢健司は、洗面台の鏡に映る白髪交じりのしょぼくれた顔を見つめて、そっとため息をついた。
つい先日、40年余り勤めた会社を定年退職したばかりで、何か目的を見失ったかのような疲れた顔をした男の顔が、鏡には映っている。
「いけませんね。早く何か目標を見つけないと、暗くなってしまう。まずは、規則正しい生活からですかね。今日も日課の散歩に出かけるとしますか」
水沢は、自分に喝を入れるつもりで、敢えて考えを口に出して呟いた。
水沢は、郊外にある田園地帯の中に立つ築35年の一軒家で一人で暮らしている。
別に独身にこだわりがあった訳ではないが、何となく女性とは縁がないまま、この年まで一人暮らしを続けてしまった。
この家にしても、特にこだわりを持って選んだわけではない。
家を購入した時期は好景気で、この辺りも東京のベッドタウンとして栄えるという不動産会社の触れ込みに押し切られるようにして選択したものだ。
しかし、その後の不景気もあって周囲の開発は進まず、自宅周辺は通勤に時間がかかるばかりの不便な土地として残されてしまった。
そうは言っても、この土地に愛着がないわけではない。
何しろ自分の人生の半分以上をこの土地で暮らしてきたのだ。
特に定年後の日課としている散歩では、働いていた時には気づかなかった周囲の自然の豊かさに心を癒されることも少なくない。
「しかし、体力の衰えは隠せませんね。年は取りたくないものです」
水沢は、少し坂道を登っただけで上がってしまった息を整えながら呟く。
「若いころは幾ら酒や煙草を飲んでも平気だと考えていたものですが、そのツケが今になって出てくるとは……」
彼は、長年の喫煙の習慣から、COPDと呼ばれる肺の病気を患っていた。
その病気は酷くなると、酸素マスクなしでは暮らせなくなることもあるという。彼はそこまで重症ではないが、少しの運動で酷く息が切れることがある。
さすがに、今は禁煙しているが、医者からは一度傷ついた肺が完治することはないと言われている。
この散歩も、日々の無聊を慰めるだけでなく、適度の運動は病気の進行を抑える効果があると医者から言われて始めたものだ。
若いころの不摂生が原因、自業自得と言ってしまえばそれまでだが、やはり歳は取りたくないものだと水沢はまたため息をついた。
散歩からの帰り道で、近所の老人会に所属している2人に出会った。
背筋のピンと伸びた白髪の婦人が、橋口清美。社交的な性格で、一人暮らしをしている水沢が会社を退職して日々の目標を失い、少し元気がなくなったことを心配して老人会に誘ってくれたのも彼女だ。
もう一人の、禿頭の厳めしい顔つきの男が、伊吹吾郎。もとは警備会社を経営していたが、今は仕事を息子に譲り、小さな剣道の道場を開いている。
「やあ、伊吹さんに清美さん、おはようございます」
「おはようございます、健司さん」
「うむ、おはよう」
「健司さんは、日課のお散歩ですか」
「ええ、ちょうど散歩が終わって家に戻るところです」
「私たちも散歩をしていたところですよ。ちょうどそこで吾郎さんと出会ったところです」
「うむ、自宅と道場に籠ってばかりではいかんと、息子夫婦がうるさいでな。こうして散歩に出てきたんじゃ」
「そうじゃ、お前さんも道場に来んか。清美も午後から道場に顔を出す予定になっとるし、ちょうどよかろう」
「清美さんは、確か専門は薙刀でしたね?」
「ええ。時々、吾郎さんの道場をお借りして練習しているんですよ」
「それで、お前さんの方はどうするんじゃ?」
「せっかくのお誘いですが、私の体力ではお二人についていけそうにありません」
「あの何とかいう肺の病気はまだ悪いんですか?」
「COPDですね。ええ、日常生活だけなら問題がないのですが、少し激しい運動をすると、息切れがして呼吸ができなくなってしまいます。今の私ではこの散歩が限界ですよ。とても武道の稽古などできそうにありません」
「まあ、お互いにいい歳じゃし、病気なら仕方がないか」
水島は暗くなりかけた雰囲気を吹き飛ばすように、努めて明るく振舞った。
「せっかく誘っていただいたのに申し訳ありませんね。お詫びと言っては何ですが、うちに寄ってお茶でも飲んでいきませんか?」
水島の気持ちが分かったのだろう、清美もその誘いに乘ってきた。
「分かったわ。それじゃあお邪魔しますね」
「さあ、遠慮なく上がってください」
水沢の言葉に従って、2人は家に上がる。
先頭に立って2人をリビングに案内していた水沢が、呆然としたように立ち尽くす。
「何だ、あれは……」
立ち止まった水沢の様子を訝しげに眺めていた伊吹が、彼の陰からひょいとリビングを覗き込む。
「……これはまたけったいなオブジェをリビングに飾っとるのう」
一人リビングの様子が見えない清美が、苛立ったように二人に声をかける。
「ちょっと。二人とも何を言っているの? 一体何があるっていうの?」
「ああ、すみません」
そう言いながらも水沢はまだ心ここにあらずといった様子で、ふらふらとリビングに入っていく。
その水沢の後に続いてリビングへ入った2人の前に現れたのは、古代ギリシャ建築のような意匠の施された巨大な『門』であった。
そう、それは一般の住宅内に収まるにはあまりにも巨大であった。その高さは見上げるほどで、少なく見積もっても10メートルかそれ以上はあるように感じられた。
その光景を見つめていた清美が、目元を擦りながらつぶやく。
「どういうことなのかしら? この家の天井の高さから考えてせいぜい2、3メートルしかないはずなのに、それ以上の大きさがあるように感じられるわ……。なんだか遠近感が狂って目が回りそう」
門柱を触って調べていた水沢が、その言葉に答える。
「きちんと実体はあるようですね。映像上のトリックというわけでもなさそうです。……何というか、まるで次元がゆがんでいるような感じですね」
伊吹が何か疲れたような声で、水沢に尋ねる。
「念のために聞くが、水沢、お前さんがわしらを驚かすために、仕組んだんじゃあないな?」
「違います。散歩に出かけた1時間前には、ここにこんなものはありませんでした」
「じゃあ、これはいったい何なんじゃ?」
「さあ? それは私にも……」
2人の言い争いに加わらず『門』を調べていた清美が、何かに気付いたように声を上げる。
「……『門』の中央は地下に続く通路になっている……ねえ、もしかしてこれってダンジョンの入り口じゃないのかしら⁉」
清美のはしゃいだような声に、伊吹が胡乱《うろん》な表情で問いかける。
「ダンジョン? 何じゃそれは?」
「ダンジョンっていうのはねえ、モンスターとかがいる地下の迷宮のことよ。そのモンスターを倒せばお宝が手に入るという訳なの」
「もしかしてゲームの話か?」
「そうなの。孫に勧められて最近始めたのだけれど、これが面白くてはまっているのよ」
「馬鹿々々しい。ゲームと現実を一緒にするな」
二人のやり取りを聞いていた水沢は、はっとした表情で伊吹に反論する。
「いや、清美さんの意見はいい線を行っているかもしれません」
「何⁉」
「この装飾を見てください。これは自然にできたものとは思えない。そして、何者かがこれを造ったとすれば、そこには何らかの意図があったに違いありません」
「何らかの意図のう……一体そいつは何者なんじゃ? 宇宙人か?」
揶揄するような伊吹の物言いにも、水沢は大まじめで答える。
「何者かは現時点では不明です。ただ、彼らが宇宙人か異世界人かはともかく、我々より進んだ技術かあるいは異質な技術を持っているのは確かでしょう」
「そして、わざわざ『門』を造り、地下への入り口を設けているからには、我々に地下に潜ってもらいたいと考えている可能性があります。そして、もしそうであるならば地下へ潜る動機付けのために何らかの報酬を準備していることもありえます」
興奮して話す水沢を、伊吹は落ち着かせようとする。
「お前さんの言うことも分かるが、あくまで仮定に仮定を重ねた話じゃな。そもそもこれが『入り口』と決まったわけでもあるまい。それこそ、ただの排気口やトンネルの可能性もあるんじゃないか?」
伊吹のその言葉に対しては、清美が殊更に軽い言葉で答える。
「その時は、その時よ。それならば、この『門』を造った相手に出会うなり、彼らの作った設備を見つけるなりすれば、大発見じゃない」
清美の言葉に、水沢も同意する。
「そうですね。異質な技術の産物ともなれば、この『門』を造った者たちが意図していたかどうかに関係なく、我々にとっては重要な発見となる可能性もありますね」
興奮した水沢と清美の二人を説得するのは困難なことに気付いた伊吹は、ひとまず時間をおいて二人を落ち着かせようと考えた。そのためにとりあえず話をいったん切り上げることにした。
「二人の言うことは分かった。じゃが急ぐばかりでは足元がお留守になる。何よりわしはのどが渇いたわい。最初の予定通り、茶を出してくれんか」
その言葉に、水沢も自分が興奮し過ぎていたことに気付き、苦笑しながら「分かりました」と言ってキッチンへ向かった。
残された二人は、リビングの椅子に腰かけて水沢を待つことにした。
「それにしても、この『門』を前にしてお茶を飲もうと言い出すなんて、吾郎さんも大物ね。私なんか巨大な『門』の威圧感で落ち着かなくて仕方がないのだけれど」
「なあに年の功というやつさ。どれテレビでは今日はどういうニュースをやっとるかのう」
そう言いながら伊吹はテレビのリモコンを手に取り、朝のニュース番組にチャンネルを合わせた。
だが、芸能人の不倫や交通事故の情報といった日常のニュースが流されることを予想していた伊吹の期待は裏切られることになる。
そこで放送されていたのは、自分たちのすぐ近くにあるものとそっくりな『門』についてのニュースであった。
●テレビニュース
女性リポーターが、東京タワーを背景にした公園に立っている。
「こちらは、東京都港区の芝公園です」
彼女は、自分の背後を示しながら話を続ける。背後には、どこかで見たことのあるような建造物が建っている。
「あちらに見えます凱旋門のような建造物が見えますでしょうか? あの建物は今朝突然空中から現れました。視聴者のかたが撮影した『門』出現時の映像がありますのでご覧ください」
レポーターの言葉に続いてビデオが放映される。
そのビデオには空間を捻じ曲げ、次元を割るようにして現れる『門』の様子が映っていた。
「これは合成でもドラマでもありません。昨日までは公園にはあのように巨大な建造物はありませんでした。通常の方法ではあの大きさの建造物を1晩で建てることは不可能です。そのことからも、ビデオの内容が真実であると考えられます」
レポーターは『門』の中央を指し示しながら説明を続ける。
「『門』の中央に地下への通路があるのが見えますでしょうか。今現在も警察と消防によって地下の調査が行われています。既に帰還した第1次調査隊の警察と消防の発表によりますと、あの先にはかなり広い空間と通路が広がっているとのことです」
レポーターはメモを見ながら説明を続ける。
「地下の空間は少なくとも半径数百メートルに達し、第1次調査隊は全容を調査しきれずに一旦帰還したということです」
「地下には動物が住み着いており、調査隊員が襲われたとのことです。幸い、隊員にけがはないと伝えられています」
「なお、現在のところ、地下および地上とも都市ガスの漏出や、漏水による断水などは起きていないということです。また、有毒ガスの類も検出されておらず、今のところ差し迫った危険はないとのことです」
「安全が確認されるまで、芝公園を中心とした半径500メートルは一般の方は立ち入りが制限されています」
「首都高速環状線は、一ノ橋ジャンクションから浜崎橋ジャンクションの間で通行止め」
「都営三田線および都営大江戸線は運休となっています」
●水沢健司
「お二人ともコーヒーでいいですか?」
半ば呆然とニュースをみていた伊吹と清美の二人は、水沢の声で正気を取り戻す。
「そんなことより、大変なの。ここと同じような『門』が、他の場所でも見つかったんですって」
「ええ、ニュースはキッチンでも聞こえましたから、大体の内容は把握しています」
「それにしては落ち着いているわね」
清美の問いに、水沢はコーヒーを配膳しながら答える。
「まあ、伊吹さんが一息入れるように言ってくれましたから、少しは冷静になれました。もっとも、外見だけで、内心は私もドキドキしていますがね」
「それにしても、こんな代物が他にもあるとはのう。この2つで終わりだといいんじゃが」
伊吹のつぶやきに対して、水沢は首を横に振る。
「2つ目が見つかった以上は、3つ目や4つ目、いやそれ以上の数があると考えたほうがいいでしょうね。それに、『門』が見つかるのは日本だけとは限りません。世界中のどの国で見つかってもおかしくないと思いますよ」
水沢の予想に、伊吹は嫌そうな表情を浮かべる。
「やれやれ、これから世の中どうなるのかねえ」
その言葉に清美が目を輝かせて宣言する。
「決まっているわ。これからは、ダンジョン大冒険社会になるのよ‼」
伊吹はため息をつきながら、水沢に意見を求める。
「清美の戯言は置いておいて、お前さんはどう思う」
「そうですね。呼び方はともかく時代が変化するのは確かでしょうね。だた、歴史上の変換点といっても、その時代を生きている者にとっては、それほど大きな変化とは感じられない人も多いでしょうね」
「ほら、少し古い言い方になりますがインターネット革命とか言ったじゃありませんか。いろいろと変化があったのは事実ですが、年寄りの中にはネットなどなくても平気だという人もいます。一方で若者にとってはネットは生まれた時から当たり前にあるもので、変化ではありません」
その言葉に伊吹は少し安心したような顔を浮かべる。
「それなら少しはましじゃの。わし独りならどうでもなるが、孫まで厄介ごとに巻き込むわけにはいかんからのう」
「大冒険者社会は? 冒険者で社会があふれることにならないの?」
清美の質問に、水沢はすまし顔で答える。
「15世紀からの大航海時代でも、航海士は人口のごく一部であったように、大冒険時代になっても冒険者の数が人口の多くを占めるとは限りませんよ。もっとも、インターネット革命でIT技術者の数が増えたように、ありふれた職業になる可能性もありますが……」
「うう、裏切り者……。健司は、冒険者になってダンジョンに潜りたくないの」
清美の恨めしそうな声に、水沢は肩をすくめて答える。
「ダンジョンの調査は行うつもりですよ。ただ、私は他の人が冒険者になるかどうかには興味がないだけです」
「そうか、そう言わるとその通りだね」
「それに冒険者になるならば、トップランナーになりたいじゃないですか。冒険者時代になったから冒険者になるのではなく、自分たちが冒険者になったから後世で冒険者時代と呼ばれるくらいのことは目指しましょう」
「おお、確かにその通り‼」
盛り上がる二人を前にして、伊吹は頭を抱えた。
「どうあっても、自分たちで中を調査するのを諦める気はないようじゃな」
「当然よ」
清美の言葉に、水沢も言葉を続ける。
「そうですね、物わかりのいい大人ならば、警察や消防などの専門家に任せるべきなのでしょう。ですが、私は物わかりのいい大人には成りそこなったようです。未知の現象を前にして、子供っぽい冒険心を抑えきれそうにありません」
その言葉に清美は大きくうなづく。
「子供っぽい冒険心でもいいじゃない。この機会を逃せば、後は老いていくばかり。そうなれば、体も思う様に動かなくなり、冒険どころじゃなくなるもの。この機会に最後の一花咲かせたいと思わない?」
伊吹は首を振りながら答える。
「わしはまだ二花も三花も咲かせるつもりじゃ。縁起でもないことを言うんじゃない。まあ良い。これ以上止めてもお前さんらだけでも行くんじゃろ。それじゃあ、不安だからわしもついて行くわい」
「それじゃあ、今すぐ出発する?」
清美の言葉に、伊吹が反論する。
「そう慌てるんじゃない。まずは準備をしてからじゃ。テレビでも、洞窟内で動物に襲われたと言っていたじゃろう」
「それなら、私は試技用の薙刀と防具を取ってくるわ」
清美の言葉に、伊吹も答える。
「わしも試技用の真剣を取ってくるかの。それと、警備会社の備品の中から、使えそうな防具を見繕ってくるわい」
「そういえば、伊吹さんは警備会社の経営をしていたのでしたね」
「昔のことじゃ。今は会社は息子に譲っておる」
「それでは、私もアウトドアグッズの中から使えそうなものがないか探してみます」
水沢のその言葉で一旦解散となった。
水沢健司は、洗面台の鏡に映る白髪交じりのしょぼくれた顔を見つめて、そっとため息をついた。
つい先日、40年余り勤めた会社を定年退職したばかりで、何か目的を見失ったかのような疲れた顔をした男の顔が、鏡には映っている。
「いけませんね。早く何か目標を見つけないと、暗くなってしまう。まずは、規則正しい生活からですかね。今日も日課の散歩に出かけるとしますか」
水沢は、自分に喝を入れるつもりで、敢えて考えを口に出して呟いた。
水沢は、郊外にある田園地帯の中に立つ築35年の一軒家で一人で暮らしている。
別に独身にこだわりがあった訳ではないが、何となく女性とは縁がないまま、この年まで一人暮らしを続けてしまった。
この家にしても、特にこだわりを持って選んだわけではない。
家を購入した時期は好景気で、この辺りも東京のベッドタウンとして栄えるという不動産会社の触れ込みに押し切られるようにして選択したものだ。
しかし、その後の不景気もあって周囲の開発は進まず、自宅周辺は通勤に時間がかかるばかりの不便な土地として残されてしまった。
そうは言っても、この土地に愛着がないわけではない。
何しろ自分の人生の半分以上をこの土地で暮らしてきたのだ。
特に定年後の日課としている散歩では、働いていた時には気づかなかった周囲の自然の豊かさに心を癒されることも少なくない。
「しかし、体力の衰えは隠せませんね。年は取りたくないものです」
水沢は、少し坂道を登っただけで上がってしまった息を整えながら呟く。
「若いころは幾ら酒や煙草を飲んでも平気だと考えていたものですが、そのツケが今になって出てくるとは……」
彼は、長年の喫煙の習慣から、COPDと呼ばれる肺の病気を患っていた。
その病気は酷くなると、酸素マスクなしでは暮らせなくなることもあるという。彼はそこまで重症ではないが、少しの運動で酷く息が切れることがある。
さすがに、今は禁煙しているが、医者からは一度傷ついた肺が完治することはないと言われている。
この散歩も、日々の無聊を慰めるだけでなく、適度の運動は病気の進行を抑える効果があると医者から言われて始めたものだ。
若いころの不摂生が原因、自業自得と言ってしまえばそれまでだが、やはり歳は取りたくないものだと水沢はまたため息をついた。
散歩からの帰り道で、近所の老人会に所属している2人に出会った。
背筋のピンと伸びた白髪の婦人が、橋口清美。社交的な性格で、一人暮らしをしている水沢が会社を退職して日々の目標を失い、少し元気がなくなったことを心配して老人会に誘ってくれたのも彼女だ。
もう一人の、禿頭の厳めしい顔つきの男が、伊吹吾郎。もとは警備会社を経営していたが、今は仕事を息子に譲り、小さな剣道の道場を開いている。
「やあ、伊吹さんに清美さん、おはようございます」
「おはようございます、健司さん」
「うむ、おはよう」
「健司さんは、日課のお散歩ですか」
「ええ、ちょうど散歩が終わって家に戻るところです」
「私たちも散歩をしていたところですよ。ちょうどそこで吾郎さんと出会ったところです」
「うむ、自宅と道場に籠ってばかりではいかんと、息子夫婦がうるさいでな。こうして散歩に出てきたんじゃ」
「そうじゃ、お前さんも道場に来んか。清美も午後から道場に顔を出す予定になっとるし、ちょうどよかろう」
「清美さんは、確か専門は薙刀でしたね?」
「ええ。時々、吾郎さんの道場をお借りして練習しているんですよ」
「それで、お前さんの方はどうするんじゃ?」
「せっかくのお誘いですが、私の体力ではお二人についていけそうにありません」
「あの何とかいう肺の病気はまだ悪いんですか?」
「COPDですね。ええ、日常生活だけなら問題がないのですが、少し激しい運動をすると、息切れがして呼吸ができなくなってしまいます。今の私ではこの散歩が限界ですよ。とても武道の稽古などできそうにありません」
「まあ、お互いにいい歳じゃし、病気なら仕方がないか」
水島は暗くなりかけた雰囲気を吹き飛ばすように、努めて明るく振舞った。
「せっかく誘っていただいたのに申し訳ありませんね。お詫びと言っては何ですが、うちに寄ってお茶でも飲んでいきませんか?」
水島の気持ちが分かったのだろう、清美もその誘いに乘ってきた。
「分かったわ。それじゃあお邪魔しますね」
「さあ、遠慮なく上がってください」
水沢の言葉に従って、2人は家に上がる。
先頭に立って2人をリビングに案内していた水沢が、呆然としたように立ち尽くす。
「何だ、あれは……」
立ち止まった水沢の様子を訝しげに眺めていた伊吹が、彼の陰からひょいとリビングを覗き込む。
「……これはまたけったいなオブジェをリビングに飾っとるのう」
一人リビングの様子が見えない清美が、苛立ったように二人に声をかける。
「ちょっと。二人とも何を言っているの? 一体何があるっていうの?」
「ああ、すみません」
そう言いながらも水沢はまだ心ここにあらずといった様子で、ふらふらとリビングに入っていく。
その水沢の後に続いてリビングへ入った2人の前に現れたのは、古代ギリシャ建築のような意匠の施された巨大な『門』であった。
そう、それは一般の住宅内に収まるにはあまりにも巨大であった。その高さは見上げるほどで、少なく見積もっても10メートルかそれ以上はあるように感じられた。
その光景を見つめていた清美が、目元を擦りながらつぶやく。
「どういうことなのかしら? この家の天井の高さから考えてせいぜい2、3メートルしかないはずなのに、それ以上の大きさがあるように感じられるわ……。なんだか遠近感が狂って目が回りそう」
門柱を触って調べていた水沢が、その言葉に答える。
「きちんと実体はあるようですね。映像上のトリックというわけでもなさそうです。……何というか、まるで次元がゆがんでいるような感じですね」
伊吹が何か疲れたような声で、水沢に尋ねる。
「念のために聞くが、水沢、お前さんがわしらを驚かすために、仕組んだんじゃあないな?」
「違います。散歩に出かけた1時間前には、ここにこんなものはありませんでした」
「じゃあ、これはいったい何なんじゃ?」
「さあ? それは私にも……」
2人の言い争いに加わらず『門』を調べていた清美が、何かに気付いたように声を上げる。
「……『門』の中央は地下に続く通路になっている……ねえ、もしかしてこれってダンジョンの入り口じゃないのかしら⁉」
清美のはしゃいだような声に、伊吹が胡乱《うろん》な表情で問いかける。
「ダンジョン? 何じゃそれは?」
「ダンジョンっていうのはねえ、モンスターとかがいる地下の迷宮のことよ。そのモンスターを倒せばお宝が手に入るという訳なの」
「もしかしてゲームの話か?」
「そうなの。孫に勧められて最近始めたのだけれど、これが面白くてはまっているのよ」
「馬鹿々々しい。ゲームと現実を一緒にするな」
二人のやり取りを聞いていた水沢は、はっとした表情で伊吹に反論する。
「いや、清美さんの意見はいい線を行っているかもしれません」
「何⁉」
「この装飾を見てください。これは自然にできたものとは思えない。そして、何者かがこれを造ったとすれば、そこには何らかの意図があったに違いありません」
「何らかの意図のう……一体そいつは何者なんじゃ? 宇宙人か?」
揶揄するような伊吹の物言いにも、水沢は大まじめで答える。
「何者かは現時点では不明です。ただ、彼らが宇宙人か異世界人かはともかく、我々より進んだ技術かあるいは異質な技術を持っているのは確かでしょう」
「そして、わざわざ『門』を造り、地下への入り口を設けているからには、我々に地下に潜ってもらいたいと考えている可能性があります。そして、もしそうであるならば地下へ潜る動機付けのために何らかの報酬を準備していることもありえます」
興奮して話す水沢を、伊吹は落ち着かせようとする。
「お前さんの言うことも分かるが、あくまで仮定に仮定を重ねた話じゃな。そもそもこれが『入り口』と決まったわけでもあるまい。それこそ、ただの排気口やトンネルの可能性もあるんじゃないか?」
伊吹のその言葉に対しては、清美が殊更に軽い言葉で答える。
「その時は、その時よ。それならば、この『門』を造った相手に出会うなり、彼らの作った設備を見つけるなりすれば、大発見じゃない」
清美の言葉に、水沢も同意する。
「そうですね。異質な技術の産物ともなれば、この『門』を造った者たちが意図していたかどうかに関係なく、我々にとっては重要な発見となる可能性もありますね」
興奮した水沢と清美の二人を説得するのは困難なことに気付いた伊吹は、ひとまず時間をおいて二人を落ち着かせようと考えた。そのためにとりあえず話をいったん切り上げることにした。
「二人の言うことは分かった。じゃが急ぐばかりでは足元がお留守になる。何よりわしはのどが渇いたわい。最初の予定通り、茶を出してくれんか」
その言葉に、水沢も自分が興奮し過ぎていたことに気付き、苦笑しながら「分かりました」と言ってキッチンへ向かった。
残された二人は、リビングの椅子に腰かけて水沢を待つことにした。
「それにしても、この『門』を前にしてお茶を飲もうと言い出すなんて、吾郎さんも大物ね。私なんか巨大な『門』の威圧感で落ち着かなくて仕方がないのだけれど」
「なあに年の功というやつさ。どれテレビでは今日はどういうニュースをやっとるかのう」
そう言いながら伊吹はテレビのリモコンを手に取り、朝のニュース番組にチャンネルを合わせた。
だが、芸能人の不倫や交通事故の情報といった日常のニュースが流されることを予想していた伊吹の期待は裏切られることになる。
そこで放送されていたのは、自分たちのすぐ近くにあるものとそっくりな『門』についてのニュースであった。
●テレビニュース
女性リポーターが、東京タワーを背景にした公園に立っている。
「こちらは、東京都港区の芝公園です」
彼女は、自分の背後を示しながら話を続ける。背後には、どこかで見たことのあるような建造物が建っている。
「あちらに見えます凱旋門のような建造物が見えますでしょうか? あの建物は今朝突然空中から現れました。視聴者のかたが撮影した『門』出現時の映像がありますのでご覧ください」
レポーターの言葉に続いてビデオが放映される。
そのビデオには空間を捻じ曲げ、次元を割るようにして現れる『門』の様子が映っていた。
「これは合成でもドラマでもありません。昨日までは公園にはあのように巨大な建造物はありませんでした。通常の方法ではあの大きさの建造物を1晩で建てることは不可能です。そのことからも、ビデオの内容が真実であると考えられます」
レポーターは『門』の中央を指し示しながら説明を続ける。
「『門』の中央に地下への通路があるのが見えますでしょうか。今現在も警察と消防によって地下の調査が行われています。既に帰還した第1次調査隊の警察と消防の発表によりますと、あの先にはかなり広い空間と通路が広がっているとのことです」
レポーターはメモを見ながら説明を続ける。
「地下の空間は少なくとも半径数百メートルに達し、第1次調査隊は全容を調査しきれずに一旦帰還したということです」
「地下には動物が住み着いており、調査隊員が襲われたとのことです。幸い、隊員にけがはないと伝えられています」
「なお、現在のところ、地下および地上とも都市ガスの漏出や、漏水による断水などは起きていないということです。また、有毒ガスの類も検出されておらず、今のところ差し迫った危険はないとのことです」
「安全が確認されるまで、芝公園を中心とした半径500メートルは一般の方は立ち入りが制限されています」
「首都高速環状線は、一ノ橋ジャンクションから浜崎橋ジャンクションの間で通行止め」
「都営三田線および都営大江戸線は運休となっています」
●水沢健司
「お二人ともコーヒーでいいですか?」
半ば呆然とニュースをみていた伊吹と清美の二人は、水沢の声で正気を取り戻す。
「そんなことより、大変なの。ここと同じような『門』が、他の場所でも見つかったんですって」
「ええ、ニュースはキッチンでも聞こえましたから、大体の内容は把握しています」
「それにしては落ち着いているわね」
清美の問いに、水沢はコーヒーを配膳しながら答える。
「まあ、伊吹さんが一息入れるように言ってくれましたから、少しは冷静になれました。もっとも、外見だけで、内心は私もドキドキしていますがね」
「それにしても、こんな代物が他にもあるとはのう。この2つで終わりだといいんじゃが」
伊吹のつぶやきに対して、水沢は首を横に振る。
「2つ目が見つかった以上は、3つ目や4つ目、いやそれ以上の数があると考えたほうがいいでしょうね。それに、『門』が見つかるのは日本だけとは限りません。世界中のどの国で見つかってもおかしくないと思いますよ」
水沢の予想に、伊吹は嫌そうな表情を浮かべる。
「やれやれ、これから世の中どうなるのかねえ」
その言葉に清美が目を輝かせて宣言する。
「決まっているわ。これからは、ダンジョン大冒険社会になるのよ‼」
伊吹はため息をつきながら、水沢に意見を求める。
「清美の戯言は置いておいて、お前さんはどう思う」
「そうですね。呼び方はともかく時代が変化するのは確かでしょうね。だた、歴史上の変換点といっても、その時代を生きている者にとっては、それほど大きな変化とは感じられない人も多いでしょうね」
「ほら、少し古い言い方になりますがインターネット革命とか言ったじゃありませんか。いろいろと変化があったのは事実ですが、年寄りの中にはネットなどなくても平気だという人もいます。一方で若者にとってはネットは生まれた時から当たり前にあるもので、変化ではありません」
その言葉に伊吹は少し安心したような顔を浮かべる。
「それなら少しはましじゃの。わし独りならどうでもなるが、孫まで厄介ごとに巻き込むわけにはいかんからのう」
「大冒険者社会は? 冒険者で社会があふれることにならないの?」
清美の質問に、水沢はすまし顔で答える。
「15世紀からの大航海時代でも、航海士は人口のごく一部であったように、大冒険時代になっても冒険者の数が人口の多くを占めるとは限りませんよ。もっとも、インターネット革命でIT技術者の数が増えたように、ありふれた職業になる可能性もありますが……」
「うう、裏切り者……。健司は、冒険者になってダンジョンに潜りたくないの」
清美の恨めしそうな声に、水沢は肩をすくめて答える。
「ダンジョンの調査は行うつもりですよ。ただ、私は他の人が冒険者になるかどうかには興味がないだけです」
「そうか、そう言わるとその通りだね」
「それに冒険者になるならば、トップランナーになりたいじゃないですか。冒険者時代になったから冒険者になるのではなく、自分たちが冒険者になったから後世で冒険者時代と呼ばれるくらいのことは目指しましょう」
「おお、確かにその通り‼」
盛り上がる二人を前にして、伊吹は頭を抱えた。
「どうあっても、自分たちで中を調査するのを諦める気はないようじゃな」
「当然よ」
清美の言葉に、水沢も言葉を続ける。
「そうですね、物わかりのいい大人ならば、警察や消防などの専門家に任せるべきなのでしょう。ですが、私は物わかりのいい大人には成りそこなったようです。未知の現象を前にして、子供っぽい冒険心を抑えきれそうにありません」
その言葉に清美は大きくうなづく。
「子供っぽい冒険心でもいいじゃない。この機会を逃せば、後は老いていくばかり。そうなれば、体も思う様に動かなくなり、冒険どころじゃなくなるもの。この機会に最後の一花咲かせたいと思わない?」
伊吹は首を振りながら答える。
「わしはまだ二花も三花も咲かせるつもりじゃ。縁起でもないことを言うんじゃない。まあ良い。これ以上止めてもお前さんらだけでも行くんじゃろ。それじゃあ、不安だからわしもついて行くわい」
「それじゃあ、今すぐ出発する?」
清美の言葉に、伊吹が反論する。
「そう慌てるんじゃない。まずは準備をしてからじゃ。テレビでも、洞窟内で動物に襲われたと言っていたじゃろう」
「それなら、私は試技用の薙刀と防具を取ってくるわ」
清美の言葉に、伊吹も答える。
「わしも試技用の真剣を取ってくるかの。それと、警備会社の備品の中から、使えそうな防具を見繕ってくるわい」
「そういえば、伊吹さんは警備会社の経営をしていたのでしたね」
「昔のことじゃ。今は会社は息子に譲っておる」
「それでは、私もアウトドアグッズの中から使えそうなものがないか探してみます」
水沢のその言葉で一旦解散となった。
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