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第十一話・一人っ子とお菓子
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「愛華ちゃんはいいよね、お家では何でも独り占めできるし。私も一人っ子だったら良かったのになー」
小学3年生の時のこと。学校からの帰り道、三軒隣の家の川瀬睦美が言ってきた。あの時、愛華よりも二つ下の少女とはどういう流れで一緒に下校していたのかまでは覚えていない。別に特別に仲が良かった訳でもなかったし、たまたま出会っただけだったように思う。睦美が一方的に話しているのを、愛華が適当な相槌を打って返していた。
睦美はただ無邪気に言葉にしただけだろうが、それは鋭い刃のように愛華の心をえぐってくる。
生まれてこなかった姉か兄と無意識に比べて落ち込むことの多い愛華には、一人っ子と言われることに違和感があった。自分には本当は兄弟がいたはずなのに、という心の呪縛も、傍から見れば何の意味もないただの虚構。その事実を突きつけられるのは、時には心の拠り所にもなっていた存在を否定されるのと同じだ。
「えっ?」
「お菓子とか、玩具とか。むっちゃんはいつも、お姉ちゃんと半分こしなきゃだもん」
「ふーん、そうなんだ」
「あとね、お下がりばかりなのも嫌。今日のお洋服だって、お姉ちゃんが着られなくなったやつなんだよ。あ、この靴もそう!」
ブラウスは気に入ってるからいいけど、靴は好きじゃないと頬を膨らませる。まだ傷一つない真新しいランドセルを左右に揺らして歩く睦美は、後ろから見ると鞄から手足が生えているようにしか見えない。
三歳年上の姉は決して意地悪なタイプではないし、ズルをして妹の分まで奪うようなことはしないはずだ。けれどそれでは不満だと、睦美は「一人っ子はいいなー」を繰り返していた。
「お菓子が一個余った時も、ジャンケンしなくていいのもいいなー。お姉ちゃんがいなかったら全部食べられるのに」
最近ずっとジャンケンに負け続けているらしく、かなりの恨み節も入っている。ジャンケンで決めるのはとても合理的で公平だ。負けは負けなのだから仕方ないのにとは思ったが、愛華は愛想笑いを浮かべながら黙って流した。
――余ったお菓子って、ジャンケンで決めるんだ。楽しそう……。
分け合ったり奪い合ったり、そういうのを愛華は経験したことがない。歳の近い親戚もいないから、そんなシチュエーションは少し憧れでもあったかもしれない。
家に帰れば祖母がいつもお菓子を用意してくれていた。それをリビングでテレビを眺めながら一人で食べているだけだから、別に楽しくも何ともなかった。大好物のチョコレートケーキだって、一人で食べていても大した面白みもない。切り分けたケーキの大きさに文句を言ってくる人もいない。
「佳奈ちゃんは、ケーキの中では何が一番好き? チョコレートケーキって苦手?」
夕ご飯のカレーライスの最後の一口をお茶で流し込んだ後、愛華は向かいでショートケーキをゆっくり味わいながら食べている妹に問いかける。冷蔵庫から自分の分のケーキも出してきて、丁寧にフィルムを剥がした。パックに2個入りの苺ショートは定番商品なだけあって、万人受けする無難な味だ。
「一番は分かんないけど、チョコレートケーキも普通に好き」
「そうなんだ。近所にすごく美味しいザッハトルテを売ってるお店があるから、また今度買ってくるね。ただ、そこのケーキってカット売りしてないんだよねぇ」
いつもお祝い事があると父に買って来て貰っていた、お気に入りのザッハトルテ。甘い物がそこまで得意じゃない父と二人では、結局いつもほとんどを愛華が一人で食べることになり、数日のおやつがそれに固定されてしまう。だから本当に食べたい欲が高まった時にしかリクエストできなかった。いくら好きでも連日で食べたいとは思わない。
「でも、二人で半分こなら、すぐ食べきれそうだね」
「お母さんはホールのケーキはお誕生日しか買ってくれなかった。残したら勿体ないって言って」
「うちも似たようなもんだよ。お父さん、甘い物はあんまりだから」
そう考えると、一人っ子だったから選ぶのを避けていた選択肢もあったはずだ。分け合うことが前提の大袋のお菓子なんかは、家ではほとんど見かけたことがなかった。量の入っている物は次の日も出されてくるのが目に見えている。
先に食べ終わった佳奈は、「ごちそうさまでした」とお行儀よく呟いて椅子から立ち上がった。自分の使っていたお皿を持ってキッチンへ行く妹の背中へ向かって、愛華が声を掛ける。
「後で一緒に食洗機にかけるから、そのまま置いておいてね」
黙って頷き返した後、佳奈はシンクに皿とフォークを入れてから静かに部屋を出ていく。階段を昇り、佳奈の部屋のドアが開閉する音が聞こえたのを確認して、愛華は少し堪えながら嬉しそうな笑いを漏らした。
「やっぱり、甘い物が好きなんだ」
愛華がホールケーキの話をした時に見せた佳奈の反応を思い出す。あの期待に満ちた表情は、この家に来てから見せてくれた中でもダントツトップの良い顔だ。ザッハトルテを買って来たら、またあの顔を見ることができるだろうか。
普段はあまり表情を見せてくれない佳奈だからこそ、反応が見れた時の感動は大きい。妹への餌付けは、しばらく止められそうもない。
母性本能とも庇護欲とも違う、この感情を何と呼べば良いのだろうか。
小学3年生の時のこと。学校からの帰り道、三軒隣の家の川瀬睦美が言ってきた。あの時、愛華よりも二つ下の少女とはどういう流れで一緒に下校していたのかまでは覚えていない。別に特別に仲が良かった訳でもなかったし、たまたま出会っただけだったように思う。睦美が一方的に話しているのを、愛華が適当な相槌を打って返していた。
睦美はただ無邪気に言葉にしただけだろうが、それは鋭い刃のように愛華の心をえぐってくる。
生まれてこなかった姉か兄と無意識に比べて落ち込むことの多い愛華には、一人っ子と言われることに違和感があった。自分には本当は兄弟がいたはずなのに、という心の呪縛も、傍から見れば何の意味もないただの虚構。その事実を突きつけられるのは、時には心の拠り所にもなっていた存在を否定されるのと同じだ。
「えっ?」
「お菓子とか、玩具とか。むっちゃんはいつも、お姉ちゃんと半分こしなきゃだもん」
「ふーん、そうなんだ」
「あとね、お下がりばかりなのも嫌。今日のお洋服だって、お姉ちゃんが着られなくなったやつなんだよ。あ、この靴もそう!」
ブラウスは気に入ってるからいいけど、靴は好きじゃないと頬を膨らませる。まだ傷一つない真新しいランドセルを左右に揺らして歩く睦美は、後ろから見ると鞄から手足が生えているようにしか見えない。
三歳年上の姉は決して意地悪なタイプではないし、ズルをして妹の分まで奪うようなことはしないはずだ。けれどそれでは不満だと、睦美は「一人っ子はいいなー」を繰り返していた。
「お菓子が一個余った時も、ジャンケンしなくていいのもいいなー。お姉ちゃんがいなかったら全部食べられるのに」
最近ずっとジャンケンに負け続けているらしく、かなりの恨み節も入っている。ジャンケンで決めるのはとても合理的で公平だ。負けは負けなのだから仕方ないのにとは思ったが、愛華は愛想笑いを浮かべながら黙って流した。
――余ったお菓子って、ジャンケンで決めるんだ。楽しそう……。
分け合ったり奪い合ったり、そういうのを愛華は経験したことがない。歳の近い親戚もいないから、そんなシチュエーションは少し憧れでもあったかもしれない。
家に帰れば祖母がいつもお菓子を用意してくれていた。それをリビングでテレビを眺めながら一人で食べているだけだから、別に楽しくも何ともなかった。大好物のチョコレートケーキだって、一人で食べていても大した面白みもない。切り分けたケーキの大きさに文句を言ってくる人もいない。
「佳奈ちゃんは、ケーキの中では何が一番好き? チョコレートケーキって苦手?」
夕ご飯のカレーライスの最後の一口をお茶で流し込んだ後、愛華は向かいでショートケーキをゆっくり味わいながら食べている妹に問いかける。冷蔵庫から自分の分のケーキも出してきて、丁寧にフィルムを剥がした。パックに2個入りの苺ショートは定番商品なだけあって、万人受けする無難な味だ。
「一番は分かんないけど、チョコレートケーキも普通に好き」
「そうなんだ。近所にすごく美味しいザッハトルテを売ってるお店があるから、また今度買ってくるね。ただ、そこのケーキってカット売りしてないんだよねぇ」
いつもお祝い事があると父に買って来て貰っていた、お気に入りのザッハトルテ。甘い物がそこまで得意じゃない父と二人では、結局いつもほとんどを愛華が一人で食べることになり、数日のおやつがそれに固定されてしまう。だから本当に食べたい欲が高まった時にしかリクエストできなかった。いくら好きでも連日で食べたいとは思わない。
「でも、二人で半分こなら、すぐ食べきれそうだね」
「お母さんはホールのケーキはお誕生日しか買ってくれなかった。残したら勿体ないって言って」
「うちも似たようなもんだよ。お父さん、甘い物はあんまりだから」
そう考えると、一人っ子だったから選ぶのを避けていた選択肢もあったはずだ。分け合うことが前提の大袋のお菓子なんかは、家ではほとんど見かけたことがなかった。量の入っている物は次の日も出されてくるのが目に見えている。
先に食べ終わった佳奈は、「ごちそうさまでした」とお行儀よく呟いて椅子から立ち上がった。自分の使っていたお皿を持ってキッチンへ行く妹の背中へ向かって、愛華が声を掛ける。
「後で一緒に食洗機にかけるから、そのまま置いておいてね」
黙って頷き返した後、佳奈はシンクに皿とフォークを入れてから静かに部屋を出ていく。階段を昇り、佳奈の部屋のドアが開閉する音が聞こえたのを確認して、愛華は少し堪えながら嬉しそうな笑いを漏らした。
「やっぱり、甘い物が好きなんだ」
愛華がホールケーキの話をした時に見せた佳奈の反応を思い出す。あの期待に満ちた表情は、この家に来てから見せてくれた中でもダントツトップの良い顔だ。ザッハトルテを買って来たら、またあの顔を見ることができるだろうか。
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