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第四十二話・百鬼夜行3

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 昨夜あれほど怖い思いをしたにもかかわらず、千咲の足はネットカフェ『INARI』の敷地を自然と跨いでいた。正直言って、人では無いモノは怖い。視えるようになってから、さらに怖くなった。
 なのに、どうして怖い思いをしながらも、ここで働き続けようと思うのか。千咲自身もまだよくは分かっていない。

 また職安に通い直せば、どこか別の会社に就職できるかもしれないし、もっと条件の良いところなんて沢山あるはずだ。変なモノがウヨウヨいて、胡散臭い客も多いここに固執する必要なんて、どこにもない。

 ――でも……。

 怖い思いをすることは多いけれど、視えるようになって良かったとも思っている。視えないのに感じていた違和感、それが無くなったことで少し自信が持てるようになったから。原因が分からないのになぜか無性に怯えている自分はもういない。今ならちゃんと理由を説明できるし、自分自身を理解できる。

 ――勿論、怖いモノは怖いままなんだけど。

 店の入り口脇の駐輪スペースでは、三匹の狸が首を長く伸ばして駐車場の奥を眺めていた。昨日の今日のことだし、中森はまだ残っているみたいだ。狸達が興味津々と視線を送っている先には、この店の正社員でもある二人の姿。敷地の一番奥、方角で言えば北東の隅に植わっている桜の古木の前で、神妙な顔つきで何かを確認しているようだった。

 今の季節にはもう完全に落葉して枝だけになっている桜の木には、根元に小さな社祠が建てられていた。中には狐の御神体が奉られているので、商売繫盛を願った企業神社みたいだが、ここに家電量販店があった時よりももっと前からあるらしい。

 普段はテンション高く無駄に声の大きな中森だったが、今は珍しく声を潜めている。そのせいで彼らが何を話しているのかは分からない。だが、張り上げた狸耳と、足にぴたりと付けた尻尾で、彼が今かなり警戒していると同時に、とても怯えているのは明らか。

「じゃ、じゃあ僕はこれで――」

 用は済んだと振り返った中森は、出勤してきたばかりの千咲の姿を自動ドアの前に見つけ、「あ、鮎川さん、おはよーっす!」と声を掛ける。いつものテンションを装ってはいたが、その顔は遠目から見ても分かるくらいにかなり青褪めていた。

 着替えを済ませた千咲がタイムカードを通す頃には、中森の姿はもう店内にも店外にも無かった。また化け狸の勘というやつが働いたのだろうか、逃げるように帰って行ったと白井が呆れ笑いを漏らしていた。

「鮎川、今は護符は持ってるか?」
「昨日から勤務中も持ち歩くようにしてます」

 フロントにいた白井から聞かれて、千咲はエプロンの前ポケットから出して見せる。「そうか」と小さく頷き返すと、白井は窓の外に視線を送ったまま、それ以上は何も言わず黙り込んでしまう。
 ただ考え事をしているというよりは、何かの気配を必死で探っているようで、普段以上に表情が読めない。

 しばらくは微動だにしなかった白井の眉が、ぴくりと動く。その後、国道から勢いよく駐車場へと入ってきた一台の乗用車が、スピードはそのままに自動ドアの前を通過していったのが見えた。

 ドーン! という激しい衝突音が、駐車場の奥から響く。速度を落とすことなく、車が何かにぶつかった音だ。

 チッ、と舌打ちした後、白井はカウンターを出て、店外へと飛び出した。千咲も後を追いかけようとするが、鳴り始めた内線の呼び出し音に足止めされる。

「はい、フロントでございます――かしこまりました、すぐにお伺いいたします」

 ブースでドリンクグラスを割ってしまったという連絡に、ほうきと塵取り、モップを抱えて駆けつける。なんでこんな時に、とは思ったが、申告せずに黙って帰ってしまう客も多い中、すぐに報告してもらえるのは心底ありがたい。

 椅子までドリンクを被ってしまっていた為、連絡をくれた客にはすぐに別のブースへ移動してもらうことになった。完全に乾くまで、あの席はメンテナンス中扱いだ。
 濡れた床から回収してきたグラス片を分別し終えた後も、白井が外から戻ってくる気配はなく、千咲は自動ドアから少し出て外の様子を覗ってみる。

 駐車場の奥、小さな社祠のある場所に黒色の乗用車が突っ込んでいるのが見えた。点灯したままのヘッドライトが照らしている先には、破壊されて完全に倒壊してしまった社祠と、衝突によって木皮の一部がえぐられた桜。木が盾になったおかげで隣の民家との境になっていたフェンスは無傷なようだ。被害が『INARI』の敷地内だけで留まっているのは幸いか。

「おい、しっかりしろっ!」
「……え、えっ?! どういうことだ……?」

 まだエンジン音のする運転席のドアを開けて、白井は運転手を車外へと引っ張り出していた。初めは意識が朦朧としていた老齢の男性は、徐々に状況を把握し出すと、さらに混乱をきたし始める。

「なんで、こんなところに……?」

 運転していた時の記憶が、途中でぷつりと途絶えている。駅まで娘を送り届けた帰りで、ネットカフェになんて立ち寄る予定はなかったはずだ。

「チッ、操られたか。クソみたいなことをしやがって……」

 舌打ちし、白井は悔し気に吐き捨てた。運転していた男の中に微かに残っている妖気には、かなり覚えがある。
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