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第四十一話・百鬼夜行2

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 ――そ、そうだっ、スマホ! 稲荷神の護符!

 頭上から聞こえてくる物音に顔を強張らせながら、千咲はスタッフルームへと駆け込んだ。唯一の御守りのことを思い出してドアを開け、すぐにギョッと目を剥く。

 建物の角の窓の無い狭い室内では、浅黒く骨ばった長い腕が天井からぶら下がって、誰かが入ってくるのを待ち伏せていた。それが獲物を探り寄せるべく、ひっきりなしに宙を掻いているのだ。腕だけが天井から突き出ている様は、全体像が見えない分余計に恐怖を煽ってくる。一般的な人間のものとは比べ物にならないくらい長い腕。もしあれが人の物だとすれば、その長さから推測すると身長3メートルはありそうだが、あの腕がどこからどういう風に生えているのかさえ怪しい。

 捕まらないよう腕を避けつつ、小刻みに震える手でロッカーの鍵を開けると、千咲はバッグの底からスマホを取り出す。ブラウンの合皮素材のブック型カバーを開いて、その内ポケットに忍ばせていた掌サイズの護符をエプロンのポケットに入れ直した。

 たった3センチ四方の小さな紙だが、この護符の力は確信している。これまでも何度も護ってもらったことは覚えているし、きっと千咲が気付いていない時でも護られていたはずだ。それに何より、これを持っていれば大丈夫だと、あの白井が言っていたのだから。

「大丈夫。きっと、大丈夫……」

 エプロンのポケットを外側から擦って、自分自身を落ち着かせるように「大丈夫」と繰り返す。
 無暗に怯えるな。背を丸めるな。弱みを見せるな。白井から、聞き飽きるほど言われ続けた言葉を思い出し、千咲を追いかけてくる腕に向かってキッと睨みつけた。気のせいか、天井の腕が少しだけ後ずさって離れたように見えた。

 遠くで内線が鳴る音が聞こえてきて、慌ててフロントに戻る。てっきり天井裏の音が煩いというクレームかと構えたが、何の変哲もない料理の注文だった。視えない人にはこの騒ぎも聞こえないということなのだろうか? 否、皆が気付いて店内がパニックになることを思えば、聞こえていない方がよっぽどいい。

「狐は休みか? 今日はやけに店中が騒々しいが」

 大盛りに絞り出したバニラソフトを大事そうに持ったまま、常連客でもある現場監督が厨房の入り口から覗き込んで声をかけてくる。あやかしである大天狗が憑りついている彼には当然、この物音は聞こえているし、屋根の上で待機しているカラスからの報告で外の異変にも気付いているはずだ。けれどやけに落ち着いている。

 揚げたてのポテトに塩を振りかけ、ケチャップを添えて皿に盛り付けていた千咲は、「そうなんです」とだけ短く答えた。トレーに乗せたフライドポテトを左手で持って厨房を出ると、反対の手で防音扉の取っ手を横に引く。どうぞと客へと先を促した千咲へ、「すまんな」と礼を言いつつ大天狗は奥へと足を踏み入れる。

「ま、今日のところは大事にはならんだろ。おとなしく朝になるのを待てばいい」

 カラスから得た情報か、確信に満ちた物言い。今日のところは、ということは、今後は何かが起ころうとしているということだろうか。人である千咲にはそれ以上のことを伝えるつもりはないらしく、大天狗は自分の席へ戻るとアクリル扉をぴしゃりと閉じてしまう。

 大学の課題であったレポートを最後まで仕上げきった井口は案の定、天井裏や駐車場の騒動には気付いていないようだった。常日頃から「大雑把過ぎて、細かいことは全然っす」とは言っていたが、今はそれが羨ましくさえ感じる。
 反対に、千咲は激しい音がする度にビクッと肩を震わせ、顔を歪ませていた。

 おとなしく朝を待てばいいという大天狗の言葉を、今は信じるしかない。千咲は気を紛らわせる為に、店中の床をモップで磨き上げていた。このモップは確か、中森が店内に閉じ込められた輪入道へ対抗する為に握りしめていた物。いざという時、何か長い物を手にして安心感を得ようとするのは、人もあやかしも同じなのかもしれない。

 ――そう言えば、白井さんもモップ持ったまま、からかさ小僧と対峙してたことあったっけ。

 力加減を誤ったとかで、狐耳と尻尾を出しっぱなしだった先輩のことを思い出し、自然と顔がニヤけてしまう。

 エントランスだけに流れるUSENが、穏やかなクラッシックから軽快なK-POPへと突如切り替わる。急に曲が変わったのは井口の仕業だ。以前も何度か、彼が自分の好きなチャンネルへ勝手に変えるのを目撃したことがあった。「クラッシックは眠くなるんで」ということらしい。
 本来は店の雰囲気に合わせた曲をと注意しなきゃいけないんだろうが、今日は明るい音楽に気分が幾分かは救われた気がして見逃すことにする。

 日が昇り始めて、自動ドアの外の景色が白んで来た頃。騒がしかった天井裏からは物音が完全に消えていた。そして、国道を走る交通量が増え出し、いつもの書籍配送業者が新刊を届けに来る時刻にもなれば、モーニングセットを求めて内線電話が鳴り始める。

「レポートも出し終わったし、帰った後はゆっくり寝れそうっす。あざっす」
「しっかり残業はしていってね」
「うっす、9時まで居残ります」

 無料モーニングと印字された伝票を手に、井口はカウンター内で大きく腕を伸ばしている。結局、休憩は1時間ほど延長してしまったみたいで、約束通りの残業決定だ。
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