上 下
23 / 45

第二十三話・神隠し3

しおりを挟む
 夕方に異臭騒ぎがあったせいで、いつにも増して深夜の喫煙席は閑散としていた。二人いる利用客はどちらも寝息を立てて就寝中で、カチカチと聞こえるマウスを操作する音はアクリル壁で仕切られた向こう側――禁煙席からだ。

 白井は喫煙エリアの通路をゆっくりと歩き、その様子を慎重に探っていく。微かにまだ残るブリーチ剤の匂いが鼻の奥にツンときて顔をしかめる。薬剤の匂いはあまり得意じゃない。それでも鼻をスンスンと働かせて、5番ブースに残された香りを嗅いだ。

「……火炎系のあやかし、か」

 僅かに漂う、すすの香りと妖気。瞼を閉じて、その移動経路を鼻先で追う。それは5番ブースの真上に設置されている換気口へと続いていた。
 「チッ」と小さく舌打ちすると、白井は前髪をワシャワシャと鬱陶しそうに掻く。

 稲荷神の名の下に賜った、この現世うつしよにて人外の風紀を取り締まる任。妖狐である己がここにいると分かった上での所業かと、腹立たしさに下唇をぎりりと噛む。

 フロントへと戻って来た白井の手に、5番ブースに置き去りになっていたボディバッグとスマホがあるのに気付き、千咲はすぐさまパソコンで入店管理の画面を開く。白井は客がもう帰ってはこないと判断したのだ。なら、やる業務は決まっている。

「とりあえずの退店時刻は今でいいですか?」
「ああ。ただ少し気になるから、朝まではメンテナンス表示にしておいてくれ」

 了解です、と返事してから、バッシング用材の入った篭を手に持つ。ブースの数には限りがある。客不在のスペースをいつまでも放置しておく訳にはいかない。気持ち的には、事故物件を抱えてしまった大家さんだ。

 どんなにイレギュラーなことが続いても、それは他の客にとっては関係のないこと。通常業務をこなして、いつもと変わらないサービスを提供するのが最善。
 ブースに放置されていたコミックスを戻しながら、乱れた棚もついでに整理していく。少女コミックの棚前にしゃがみ込んでいる女の子のことは、見て見ぬふりして素通りした。朧気なその輪郭がゆらゆらと揺れているのは、この世とあの世のどちらにも魂が定まっていないからだろうか。

 その時、ふっと視界に赤い光が入った気がした。驚いて振り向いてみるが、これといって何もない。歴代の『島耕作』を学生から社外取締役までずらりと取り揃えた、かなり壮観な棚があるだけだ。

 ――気のせい、かな。

「こんばんは」

 フロントへ戻ると、白井が入店受付をしていた客が、満面の笑顔で振り返る。お世辞にもイケメンとは言えないが、誠実を絵に描いたような真面目面の男に、千咲は心の中で「ゲッ」と毒吐く。

「渡辺さん、この時間に珍しいですね」
「うん、夜に来るのは初めてかな。明日は休みだから、たまにはね」
「そうですか、ごゆっくりどうぞ」

 形式ばった挨拶を返すとぺこりと頭を下げて、逃げるように厨房へ駆け込む。そんな千咲の様子を白井は何か物言いたげに眺めていた。

 千咲が日勤だった時の常連客である渡辺は、27歳の独身で、営業の仕事をしていると言っていた。外回り中のちょっとしたデータ確認などに店のwifiを利用しに、いつもノートパソコン持参で来ていた。

 愛想もよく、ブースの使い方も綺麗で、無茶なことも言わない。所謂、神客だ。
 でも、初めて会った時から千咲は彼のことが苦手だった。笑っているはずなのに笑っているように見えない目。表情に何となく違和感を感じて、少し怖くもあった。だから、出来るだけ避けるようにしていた。

 けれど、一緒に勤務していた相田は渡辺のことがお気に入りらしく「千咲ちゃんには、あれくらい年上の人のが合うんだって」とやたらと千咲に勧めてきた。渡辺にも同じようなことを言っていたのだろう、その気になった彼から連絡先が書かれたメモを手渡されそうになったこともある。顔を合わす度、個人的に声を掛けられることも多かった。

 ――絶対、相田さんから聞いてきたんだ。

 お節介なパート主婦が千咲の勤務移動を喋ったに違いない。じゃなきゃ、毎回必ず領収書を貰って、これまで一度もプライベートな時間帯に利用したことなんてなかったのだから。

 洗い物を頑張っている河童の背の甲羅を褒めるよう撫でてやると、肩を揺すって喜びを表している。話さないあやかしだってこんなにも意思の疎通ができるのに、あの感情の無い目の奥が理解できない。

「面白い知り合いがいるんだな」

 不意打ちの再会に、心臓のバクバクが止まらない。落ち着けようと厨房の隅で深呼吸していると、笑いを噛み殺した白井が顔を見せる。

「ああ、昼の常連さんです」
「のっぺらぼうの割には、巧く化けてたな」
「……へ?」

 ――の、のっぺらぼう?! って、顔が無い妖怪の?

 驚き顔で目を丸くした千咲に、「気付いてなかったのか?」と白井は呆れた溜め息を吐く。

「わ、分かる訳ないじゃないですかっ。店長みたいに余計なものがひょっこり出てるならまだしも――」
「はははっ、確かにな。無いはずの顔があったら、のっぺらぼうじゃないからな」

 声を出して笑い出す白井。千咲は珍しい物でも目撃したかのように目をぱちくりさせた。彼が笑っているところなんて、これまで見たことがあっただろうか。
 ただ、彼の次の台詞に一気に背筋が凍りつく。

「気を付けろよ。のっぺらぼうはストーカー体質だからな」

 暗い夜道、助けを求めて声を掛けた人全ての顔がのっぺらぼう。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛する人は幼馴染に奪われました

杉本凪咲
恋愛
愛する人からの突然の婚約破棄。 彼の隣では、私の幼馴染が嬉しそうに笑っていた。 絶望に染まる私だが、あることを思い出し婚約破棄を了承する。

ある辺境伯の後悔

だましだまし
恋愛
妻セディナを愛する辺境伯ルブラン・レイナーラ。 父親似だが目元が妻によく似た長女と 目元は自分譲りだが母親似の長男。 愛する妻と妻の容姿を受け継いだ可愛い子供たちに囲まれ彼は誰よりも幸せだと思っていた。 愛しい妻が次女を産んで亡くなるまでは…。

所詮は他人事と言われたので他人になります!婚約者も親友も見捨てることにした私は好きに生きます!

ユウ
恋愛
辺境伯爵令嬢のリーゼロッテは幼馴染と婚約者に悩まされてきた。 幼馴染で親友であるアグネスは侯爵令嬢であり王太子殿下の婚約者ということもあり幼少期から王命によりサポートを頼まれていた。 婚約者である伯爵家の令息は従妹であるアグネスを大事にするあまり、婚約者であるサリオンも優先するのはアグネスだった。 王太子妃になるアグネスを優先することを了承ていたし、大事な友人と婚約者を愛していたし、尊敬もしていた。 しかしその関係に亀裂が生じたのは一人の女子生徒によるものだった。 貴族でもない平民の少女が特待生としてに入り王太子殿下と懇意だったことでアグネスはきつく当たり、婚約者も同調したのだが、相手は平民の少女。 遠回しに二人を注意するも‥ 「所詮あなたは他人だもの!」 「部外者がしゃしゃりでるな!」 十年以上も尽くしてきた二人の心のない言葉に愛想を尽かしたのだ。 「所詮私は他人でしかないので本当の赤の他人になりましょう」 関係を断ったリーゼロッテは国を出て隣国で生きていくことを決めたのだが… 一方リーゼロッテが学園から姿を消したことで二人は王家からも責められ、孤立してしまうのだった。 なんとか学園に連れ戻そうと試みるのだが…

前世で処刑された聖女、今は黒薬師と呼ばれています

矢野りと
恋愛
旧題:前世で処刑された聖女はひっそりと生きていくと決めました〜今世では黒き薬師と呼ばれています〜 ――『偽聖女を処刑しろっ!』 民衆がそう叫ぶなか、私の目の前で大切な人達の命が奪われていく。必死で神に祈ったけれど奇跡は起きなかった。……聖女ではない私は無力だった。 何がいけなかったのだろうか。ただ困っている人達を救いたい一心だっただけなのに……。 人々の歓声に包まれながら私は処刑された。 そして、私は前世の記憶を持ったまま、親の顔も知らない孤児として生まれ変わった。周囲から見れば恵まれているとは言い難いその境遇に私はほっとした。大切なものを持つことがなによりも怖かったから。 ――持たなければ、失うこともない。 だから森の奥深くでひっそりと暮らしていたのに、ある日二人の騎士が訪ねてきて……。 『黒き薬師と呼ばれている薬師はあなたでしょうか?』 基本はほのぼのですが、シリアスと切なさありのお話です。 ※この作品の設定は架空のものです。 ※一話目だけ残酷な描写がありますので苦手な方はご自衛くださいませ。 ※感想欄のネタバレ配慮はありません(._.)

半妖のいもうと

蒼真まこ
キャラ文芸
☆第五回キャラ文芸大賞『家族賞』受賞しました。皆様の応援のおかげです。ありがとうございました。 初めて会った幼い妹は、どう見ても人間ではありませんでした……。 中学生の時に母を亡くした女子高生の杏菜は、心にぽっかりと穴が空いたまま父親の山彦とふたりで暮していた。しかしある日、父親が小さな女の子を連れてくる。 「実はその、この子は杏菜の妹なんだ」 「よ、よろしくおねがい、しましゅ……」 おびえた目をした幼女は、半分血が繋がった杏菜の妹だという。妹の頭には銀色の角が二本、口元には小さな牙がある。どう見ても、人間ではない。小さな妹の母親はあやかしだったのだ。「娘をどうか頼みます」という遺言を残し、この世から消えてしまったという。突然あらわれた半妖の妹にとまどいながら、やむなく面倒をみることになった杏菜。しかし自分を姉と慕う幼い妹の存在に、少しずつ心が安らぎ、満たされていくのを感じるのだった。これはちょっと複雑な事情を抱えた家族の、心温まる絆と愛の物語。

私は私で勝手に生きていきますから、どうぞご自由にお捨てになってください。

木山楽斗
恋愛
伯爵令嬢であるアルティリアは、婚約者からある日突然婚約破棄を告げられた。 彼はアルティリアが上から目線だと批判して、自らの妻として相応しくないと判断したのだ。 それに対して不満を述べたアルティリアだったが、婚約者の意思は固かった。こうして彼女は、理不尽に婚約を破棄されてしまったのである。 そのことに関して、アルティリアは実の父親から責められることになった。 公にはなっていないが、彼女は妾の子であり、家での扱いも悪かったのだ。 そのような環境で父親から責められたアルティリアの我慢は限界であった。伯爵家に必要ない。そう言われたアルティリアは父親に告げた。 「私は私で勝手に生きていきますから、どうぞご自由にお捨てになってください。私はそれで構いません」 こうしてアルティリアは、新たなる人生を送ることになった。 彼女は伯爵家のしがらみから解放されて、自由な人生を送ることになったのである。 同時に彼女を虐げていた者達は、その報いを受けることになった。彼らはアルティリアだけではなく様々な人から恨みを買っており、その立場というものは盤石なものではなかったのだ。

おかしくなったのは、彼女が我が家にやってきてからでした。

ましゅぺちーの
恋愛
公爵家の令嬢であるリリスは家族と婚約者に愛されて幸せの中にいた。 そんな時、リリスの父の弟夫婦が不慮の事故で亡くなり、その娘を我が家で引き取ることになった。 娘の名前はシルビア。天使のように可愛らしく愛嬌のある彼女はすぐに一家に馴染んでいった。 それに対してリリスは次第に家で孤立していき、シルビアに嫌がらせをしているとの噂までたち始めた。 婚約者もシルビアに奪われ、父からは勘当を言い渡される。 リリスは平民として第二の人生を歩み始める。 全8話。完結まで執筆済みです。 この作品は小説家になろう様にも掲載しています。

こちら鎌倉あやかし社務所保険窓口

たかつじ楓
キャラ文芸
【第5回キャラ文芸大賞 奨励賞受賞作!】 古都鎌倉・桜霞神社の社務所にて、あやかし専門の保険窓口を開いている、神主の娘、紗奈。 怪我や病気をすると霊力が減り、魂が消えてしまうあやかしたちのために、人間の健康保険制度と同じ方法で御神木に宿した力を分け与えていた。 その桜霞神社の祀り神、天狐・白銀は強大な霊力を持ち、雷雨の天災を起こした問題児なのだが、何故か紗奈を気に入っており、何かとちょっかいを出してくる。 小町通りのリスや、由比ヶ浜のトンビに化けたあやかしからの社務所への相談事は絶えず、紗奈と白銀は毎日鎌倉中を奔走する。 労災、交通事故、鬱病、無保険ーーー。 鎌倉を舞台に様々なあやかしたちの相談を解決する、あやかし×ご当地×お仕事のほっこりストーリー!

処理中です...