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第二十話・河童
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深夜のメンテナンス作業が一通り終わると、千咲は翌日の食材の下拵えに取り掛かっていた。下拵えと言っても、本格的な飲食店ではないから薬味用のネギを小口切りにしたり、料理の為の野菜をカットしておくくらいだ。冷凍のポテトやタコ唐の重さを測って小分けにしておくのなんて、下拵えのうちには入らないのかもしれないが、量が多いから結構な手間だ。
玉ねぎの薄切りを終えてまな板を洗い直してから、サラダ用の野菜を洗っていると、かなり低い位置からの視線を感じた。
「あ、河童」
いつの間に厨房へ入って来たのだろう、河童が瞬きもせずにじっと千咲の方を見ていた。あれ以来は全く姿を見ていなかったが、シャワー室の前を通る時に水音を聞くことはあった。河童が普段はどこにいるのかは分からないが、たまに来てはシャワーを好きに浴びているようだ。いつも綺麗に掃除しておいてくれるので、これまで一度もクレームになったことはない。
河童の視線の先を辿ってみると、千咲が左手に持っているキュウリへと向けられていた。その熱い期待を込めた眼差しは、千咲がまな板の上にキュウリを乗せた途端、一瞬で悲壮感漂うものへと変化する。
まな板の上で薄い輪切りにされていくキュウリ。それを物悲しげに見つめ続ける河童。どんどん短くなっていくキュウリに「あぁ……」という河童の残念がる心の声が聞こえてくるようだ。間に挟まれてる千咲が意地悪しているみたいで、いたたまれない気持ちになってくる。
「……少しだけど、食べる?」
端をカットして3センチほどになったキュウリの残りを河童の前に差し出す。目をパチパチと激しく瞬きさせて驚き顔になる河童。水かきの付いた手で千咲からキュウリを受け取ると、それを両手で高々と掲げて喜びを身体いっぱいで表している。その純粋過ぎる反応に、思わず笑みが零れる。
「河童はキュウリが好きって、本当だったんだ……」
そんなに喜んでくれるならと冷蔵庫を確認するが、残念ながら今のが最後の一本だった。他に河童の食べれそうな物はと庫内を物色して、半玉だけ残ったレタスを発見する。サラダで使う用に常備してあるけれど、レタスはいつも全部使い切る前に痛んで変色してしまうから勿体ないとは思っていた。今もすでに芯の一部がピンク色になっていて、これも廃棄寸前の状態だ。
「ねえ、レタスはどう?」
キュウリと同じ緑の野菜だからと外側の一枚を剥がして、試しに河童の前に見せる。河童はそっと慎重にそれを受け取ると、レタスの端っこを少しだけかじった。そして、コクコクと頭を上下してから、残りをバリバリと勢いよく食べ始める。どうやらレタスもお気に召したようだ。
「新しいのが入ったみたいだし、こっちは全部食べていいよ。自分で洗える?」
家庭だとこの程度なら痛んだ部分を取り除くだけでいいが、店ではそうもいかない。廃棄するくらいなら、河童に美味しく食べて貰った方がいい。残ったレタス半玉を差し出すと、さっきのキュウリと同じように河童は両手で高々と掲げて喜んでいる。話すことはできないみたいだが、ここまで全身で感情を表してくれると分かりやすい。
そして、厨房の片隅にあったミニ脚立を運んでくると、河童は流しで器用にレタスを洗い始める。脚立の置き場所や蛇口の操作など、河童の動きには一切の躊躇いがない。千咲には見えていなかっただけで、実は結構前から居座って人の動きを見て覚えていたのかもしれない。
脚立にちょこんと腰かけて、洗い終えたレタスをかじっている河童を、千咲はピーマンを薄切りしながら眺めていた。同じ緑野菜だからとピーマンも勧めてみたが、一口だけで首を思い切り横に振られた。何となく河童の好みが分かったような気がする。
ほとんどの人が静かに過ごすこの時間帯。内線も滅多なことでは鳴らないし、集中して作業ができる。社員になってから任されるようになった食材やドリンク類の発注業務。在庫を確認しつつ、棚や冷蔵庫を整理していく。
その間、河童は流しで食器洗いのお手伝いに精を出していた。レタスを洗った時に水道で物を洗うことに目覚めたらしく、脚立の上で飛び跳ねたりとテンション高めに水仕事に興じている。
休憩に出ていた白井が賄いで使った食器を戻しに来て、皿洗いする河童にギョッとしていた。河童の方もいきなり遭遇したことで、持っていたマグカップを落としそうになるくらいに慌てていた。白井のことを怖がっているのか、カップを握りしめたままブルブルと震えている。
「……人の世の理から逸れない限り、無理に帰すことはない」
妖狐に会うと隠り世に送還される、そう思い込んでいるあやかしも少なくない。河童だけに聞こえる声で静かに囁くと、白井は使っていた丼と箸を洗い桶の中へ沈める。要は、「ついでにこれも洗っとけ」ということらしい。
河童はコクコクと首を上下に動かすと、食器用スポンジを張り切って握り直した。
玉ねぎの薄切りを終えてまな板を洗い直してから、サラダ用の野菜を洗っていると、かなり低い位置からの視線を感じた。
「あ、河童」
いつの間に厨房へ入って来たのだろう、河童が瞬きもせずにじっと千咲の方を見ていた。あれ以来は全く姿を見ていなかったが、シャワー室の前を通る時に水音を聞くことはあった。河童が普段はどこにいるのかは分からないが、たまに来てはシャワーを好きに浴びているようだ。いつも綺麗に掃除しておいてくれるので、これまで一度もクレームになったことはない。
河童の視線の先を辿ってみると、千咲が左手に持っているキュウリへと向けられていた。その熱い期待を込めた眼差しは、千咲がまな板の上にキュウリを乗せた途端、一瞬で悲壮感漂うものへと変化する。
まな板の上で薄い輪切りにされていくキュウリ。それを物悲しげに見つめ続ける河童。どんどん短くなっていくキュウリに「あぁ……」という河童の残念がる心の声が聞こえてくるようだ。間に挟まれてる千咲が意地悪しているみたいで、いたたまれない気持ちになってくる。
「……少しだけど、食べる?」
端をカットして3センチほどになったキュウリの残りを河童の前に差し出す。目をパチパチと激しく瞬きさせて驚き顔になる河童。水かきの付いた手で千咲からキュウリを受け取ると、それを両手で高々と掲げて喜びを身体いっぱいで表している。その純粋過ぎる反応に、思わず笑みが零れる。
「河童はキュウリが好きって、本当だったんだ……」
そんなに喜んでくれるならと冷蔵庫を確認するが、残念ながら今のが最後の一本だった。他に河童の食べれそうな物はと庫内を物色して、半玉だけ残ったレタスを発見する。サラダで使う用に常備してあるけれど、レタスはいつも全部使い切る前に痛んで変色してしまうから勿体ないとは思っていた。今もすでに芯の一部がピンク色になっていて、これも廃棄寸前の状態だ。
「ねえ、レタスはどう?」
キュウリと同じ緑の野菜だからと外側の一枚を剥がして、試しに河童の前に見せる。河童はそっと慎重にそれを受け取ると、レタスの端っこを少しだけかじった。そして、コクコクと頭を上下してから、残りをバリバリと勢いよく食べ始める。どうやらレタスもお気に召したようだ。
「新しいのが入ったみたいだし、こっちは全部食べていいよ。自分で洗える?」
家庭だとこの程度なら痛んだ部分を取り除くだけでいいが、店ではそうもいかない。廃棄するくらいなら、河童に美味しく食べて貰った方がいい。残ったレタス半玉を差し出すと、さっきのキュウリと同じように河童は両手で高々と掲げて喜んでいる。話すことはできないみたいだが、ここまで全身で感情を表してくれると分かりやすい。
そして、厨房の片隅にあったミニ脚立を運んでくると、河童は流しで器用にレタスを洗い始める。脚立の置き場所や蛇口の操作など、河童の動きには一切の躊躇いがない。千咲には見えていなかっただけで、実は結構前から居座って人の動きを見て覚えていたのかもしれない。
脚立にちょこんと腰かけて、洗い終えたレタスをかじっている河童を、千咲はピーマンを薄切りしながら眺めていた。同じ緑野菜だからとピーマンも勧めてみたが、一口だけで首を思い切り横に振られた。何となく河童の好みが分かったような気がする。
ほとんどの人が静かに過ごすこの時間帯。内線も滅多なことでは鳴らないし、集中して作業ができる。社員になってから任されるようになった食材やドリンク類の発注業務。在庫を確認しつつ、棚や冷蔵庫を整理していく。
その間、河童は流しで食器洗いのお手伝いに精を出していた。レタスを洗った時に水道で物を洗うことに目覚めたらしく、脚立の上で飛び跳ねたりとテンション高めに水仕事に興じている。
休憩に出ていた白井が賄いで使った食器を戻しに来て、皿洗いする河童にギョッとしていた。河童の方もいきなり遭遇したことで、持っていたマグカップを落としそうになるくらいに慌てていた。白井のことを怖がっているのか、カップを握りしめたままブルブルと震えている。
「……人の世の理から逸れない限り、無理に帰すことはない」
妖狐に会うと隠り世に送還される、そう思い込んでいるあやかしも少なくない。河童だけに聞こえる声で静かに囁くと、白井は使っていた丼と箸を洗い桶の中へ沈める。要は、「ついでにこれも洗っとけ」ということらしい。
河童はコクコクと首を上下に動かすと、食器用スポンジを張り切って握り直した。
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