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第十七話・憑き物
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この建物の中に十人近くも人がいるとは思えないほど、ネットカフェ『INARI』の中がしんと静まり返っている深夜。店の前の国道を通る車も少なく、遠くから風に乗って微かに聞こえてくるのは貨物列車が走る音だろうか。
パーツの分解洗浄を済ませたばかりのコーヒーサーバを組み立てて、その下にマグカップをセットする。HOTのボタンを軽く押して、香ばしい湯気と共に珈琲が注がれていくのしばらく眺めていた。それを持って厨房へと戻ると、千咲はカップに口を付けて一口だけ口に含んでみる。
「うん、相変わらず苦い」
美味しいか美味しくないかは分からないが、いつもと同じ味なのは確か。機械がちゃんと正常に動いているのが確認できればそれでいい。試飲した残りはシンクに流してから、他の食器と一緒にカップもまとめて洗ってしまう。
珈琲豆やスープバーの粉の補充も終わらせると、フロントにいた白井に声を掛ける。
「休憩いただいていいですか?」
新刊用のポップを切り分けていた白井の「ああ」という返事を聞きながら、カウンター脇に立て掛けられているメニューを取り出し、千咲は真剣な表情でそれを見つめる。夜勤になってから一番苦労しているのが、実はこれだ。
「この時間って、何食べたらいいのか迷いますよね。白井さん、いつも何食べてるんですか? っていうか、いつも休憩では何してるんですか?」
「別に。適当に賄い作って食ってる」
「あっ、きつねうどんとか?!」
勢いで聞いてから、千咲はしまったと口を抑える。狐とくれば油揚げという発想はかなり安直過ぎたかもしれない。小馬鹿にしていると思われたんじゃないかと焦り出す。
が、神妙な顔つきを装ってソッポを向いてしまった白井の反応から、意外とそうでもないことを悟った。
「私も今日はきつねうどんにします。やっぱり、この時間にカツサンドとかマズイですもんね」
「従業員特権で、油揚げは二枚までだ」
「いえ、そんなには要りませんから……」
生活が昼夜逆転したせいか、近頃どうも身体が重く感じるのだ。特にお腹周りの触り心地が明らかに違うような……。一応気を使って、揚げ物の時はご飯を少なめにしたり、甘いジュースは避けるようにしていたけれど、さすがに深夜のカツサンドが続くのは良くなかったらしい。うどんなら、きっとギリギリセーフに違いない。
厨房に戻って冷凍きつねうどんを鍋で温めていると、「いらっしゃいませ」という入り口センサーの機械的な音声が耳に届く。壁面モニターを振り返り見ると、フラフラと覚束ない足取りのスーツ姿の男性が、白井が立つカウンターへと歩み寄っているのが映し出されていた。
――酔っ払い、かな?
終電を逃してホテル代わりに利用していく客は珍しくはない。外のベンチで始発までを過ごすにはもうキツイ季節だ。駅からあの千鳥足でよく辿り着いたなと感心しながら、千咲は作り終えた夜食を持って厨房を出る。
「鮎川、そこを動くなっ!」
「へ?」
カウンターの横を通り過ぎようとした千咲に、白井が焦った声を出す。振り返ると、酔っ払い客だと思っていた男が血走った眼でこちらへ向かってこようとしていた。ふらつきながら近付いてくる様に、ゾッと背筋が凍りつく。よく見ればその足元は片方だけ靴を履いていない。黒色の靴下だけの右足を引き摺るようにして歩き、両腕は肩からだらんとぶら下がっているだけに見えた。
半端に糸の切れた操り人形のような動作。この男は何かに憑りつかれている。それだけは千咲にも理解できた。常連客の現場監督も、人外である天狗に憑りつかれていたが、全くと言っていい程に状態が違う。性質の違うものに無理やり身体を支配されている、そんな風に感じさせる。
丼茶碗が乗ったトレーを持って茫然と立ち尽くす千咲の前に、白井はさっと立ちはだかった。「くっそ、面倒だな……」という独り言が、前髪をワシャワシャしている白井の口から漏れていた。
人に憑いている状態だから、いつものように蹴り飛ばしてそのまま隠り世に送り返す訳にもいかない。男と憑依しているモノとを引き離す方法はと思案する。しばらく考えた後「仕方ないな」と吐き捨てると、千咲に向かって指示を出す。
「合図したら、ブースに向かって走れ」
「え、は、はいっ」
白井の言葉に、千咲は素直に頷き返す。元々、賄いはブースで食べるつもりでいたのだ、零さずに走る自信はあまりないが、ここに居て白井の妨げになっているよりはいい。
「蜘蛛女、こいつの動きを止めろ。左足だ」
白井の命令に、入り口の天井から女郎蜘蛛が男へ向かって糸を出す。白銀の糸は男が唯一自在に操れていた足へと絡みつき、その歩を制止する。必死で足を引っ張っているみたいだが、蜘蛛の糸はビクともしない。
「鮎川、行けっ!」
白井の声と共に、千咲は彼の背後から飛び出して、書籍コーナーへと続く防音扉めがけて駆け出した。
すると、蜘蛛の糸で身動きを封じられ、代わりとなる媒体を求めて男の身体から離れ出た憑き物。黒いモヤのようなものが、走って逃げる千咲の後を追いかけて飛んでくるのが視界の端にちらりと見えた。
だが、「よし、離れたな」という白井の笑いを含んだ声が聞こえてきたかと思うと、その直後には断末魔の叫びのような、声にならない声がエントランスに響き渡った。
その後に残されたのは、何かを咀嚼し続けている大蜘蛛と、床で気を失っている片足だけが裸足の男。
落ち着かないながらも休憩時間を過ごし、頃合いを見計らって戻ってきた千咲は、その事実を知り驚愕する。危険なフロントから安全な場所へと逃がして貰ったと信じきっていたが、よく考えてみるとあれはどうも違うと気付いてしまったのだ。
――あれ? もしかして私、さっきのって囮にされた?
「お前、護符持ってるだろ。だから何も問題ない」
勿論、休憩中だから護符の入ったスマホもバッグも当然持ち歩いていた。だが、白井から売られた気がして、少しやるせない気分だ。
パーツの分解洗浄を済ませたばかりのコーヒーサーバを組み立てて、その下にマグカップをセットする。HOTのボタンを軽く押して、香ばしい湯気と共に珈琲が注がれていくのしばらく眺めていた。それを持って厨房へと戻ると、千咲はカップに口を付けて一口だけ口に含んでみる。
「うん、相変わらず苦い」
美味しいか美味しくないかは分からないが、いつもと同じ味なのは確か。機械がちゃんと正常に動いているのが確認できればそれでいい。試飲した残りはシンクに流してから、他の食器と一緒にカップもまとめて洗ってしまう。
珈琲豆やスープバーの粉の補充も終わらせると、フロントにいた白井に声を掛ける。
「休憩いただいていいですか?」
新刊用のポップを切り分けていた白井の「ああ」という返事を聞きながら、カウンター脇に立て掛けられているメニューを取り出し、千咲は真剣な表情でそれを見つめる。夜勤になってから一番苦労しているのが、実はこれだ。
「この時間って、何食べたらいいのか迷いますよね。白井さん、いつも何食べてるんですか? っていうか、いつも休憩では何してるんですか?」
「別に。適当に賄い作って食ってる」
「あっ、きつねうどんとか?!」
勢いで聞いてから、千咲はしまったと口を抑える。狐とくれば油揚げという発想はかなり安直過ぎたかもしれない。小馬鹿にしていると思われたんじゃないかと焦り出す。
が、神妙な顔つきを装ってソッポを向いてしまった白井の反応から、意外とそうでもないことを悟った。
「私も今日はきつねうどんにします。やっぱり、この時間にカツサンドとかマズイですもんね」
「従業員特権で、油揚げは二枚までだ」
「いえ、そんなには要りませんから……」
生活が昼夜逆転したせいか、近頃どうも身体が重く感じるのだ。特にお腹周りの触り心地が明らかに違うような……。一応気を使って、揚げ物の時はご飯を少なめにしたり、甘いジュースは避けるようにしていたけれど、さすがに深夜のカツサンドが続くのは良くなかったらしい。うどんなら、きっとギリギリセーフに違いない。
厨房に戻って冷凍きつねうどんを鍋で温めていると、「いらっしゃいませ」という入り口センサーの機械的な音声が耳に届く。壁面モニターを振り返り見ると、フラフラと覚束ない足取りのスーツ姿の男性が、白井が立つカウンターへと歩み寄っているのが映し出されていた。
――酔っ払い、かな?
終電を逃してホテル代わりに利用していく客は珍しくはない。外のベンチで始発までを過ごすにはもうキツイ季節だ。駅からあの千鳥足でよく辿り着いたなと感心しながら、千咲は作り終えた夜食を持って厨房を出る。
「鮎川、そこを動くなっ!」
「へ?」
カウンターの横を通り過ぎようとした千咲に、白井が焦った声を出す。振り返ると、酔っ払い客だと思っていた男が血走った眼でこちらへ向かってこようとしていた。ふらつきながら近付いてくる様に、ゾッと背筋が凍りつく。よく見ればその足元は片方だけ靴を履いていない。黒色の靴下だけの右足を引き摺るようにして歩き、両腕は肩からだらんとぶら下がっているだけに見えた。
半端に糸の切れた操り人形のような動作。この男は何かに憑りつかれている。それだけは千咲にも理解できた。常連客の現場監督も、人外である天狗に憑りつかれていたが、全くと言っていい程に状態が違う。性質の違うものに無理やり身体を支配されている、そんな風に感じさせる。
丼茶碗が乗ったトレーを持って茫然と立ち尽くす千咲の前に、白井はさっと立ちはだかった。「くっそ、面倒だな……」という独り言が、前髪をワシャワシャしている白井の口から漏れていた。
人に憑いている状態だから、いつものように蹴り飛ばしてそのまま隠り世に送り返す訳にもいかない。男と憑依しているモノとを引き離す方法はと思案する。しばらく考えた後「仕方ないな」と吐き捨てると、千咲に向かって指示を出す。
「合図したら、ブースに向かって走れ」
「え、は、はいっ」
白井の言葉に、千咲は素直に頷き返す。元々、賄いはブースで食べるつもりでいたのだ、零さずに走る自信はあまりないが、ここに居て白井の妨げになっているよりはいい。
「蜘蛛女、こいつの動きを止めろ。左足だ」
白井の命令に、入り口の天井から女郎蜘蛛が男へ向かって糸を出す。白銀の糸は男が唯一自在に操れていた足へと絡みつき、その歩を制止する。必死で足を引っ張っているみたいだが、蜘蛛の糸はビクともしない。
「鮎川、行けっ!」
白井の声と共に、千咲は彼の背後から飛び出して、書籍コーナーへと続く防音扉めがけて駆け出した。
すると、蜘蛛の糸で身動きを封じられ、代わりとなる媒体を求めて男の身体から離れ出た憑き物。黒いモヤのようなものが、走って逃げる千咲の後を追いかけて飛んでくるのが視界の端にちらりと見えた。
だが、「よし、離れたな」という白井の笑いを含んだ声が聞こえてきたかと思うと、その直後には断末魔の叫びのような、声にならない声がエントランスに響き渡った。
その後に残されたのは、何かを咀嚼し続けている大蜘蛛と、床で気を失っている片足だけが裸足の男。
落ち着かないながらも休憩時間を過ごし、頃合いを見計らって戻ってきた千咲は、その事実を知り驚愕する。危険なフロントから安全な場所へと逃がして貰ったと信じきっていたが、よく考えてみるとあれはどうも違うと気付いてしまったのだ。
――あれ? もしかして私、さっきのって囮にされた?
「お前、護符持ってるだろ。だから何も問題ない」
勿論、休憩中だから護符の入ったスマホもバッグも当然持ち歩いていた。だが、白井から売られた気がして、少しやるせない気分だ。
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