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3章
レテ湖の妖精☆
しおりを挟むいったい誰を抱いたのかとディーネに詰られた瞬間、アレスの脳裏に唐突に記憶が閃いた。
虹を溶かしたような美しい湖の畔で妖精に会ったあの日。靄がかかるように日々欠けていくばかりだったその記憶が、突如鮮烈に甦った――。
自然の美しさだけがリベーテ家領地の唯一の資源だが、虹色に輝くレテ湖はそのなかでも格別だった。
昔からとても嫉妬深い水の妖精が棲んでいると言い伝えられるレテ湖には、さもありなんと言わせるだけの雰囲気があった。
普通なら妖精が棲む湖と銘打てば観光客で賑わいそうなものだが、レテ湖は閑散としている。
見惚れずにはいられない美貌の妖精は、湖畔で恋人達が逢瀬をしているとその姿を現して男を惑わせ仲違いをさせてみたり、恋人達の仲を引き裂く悪戯をしてみたり、魔法をかけたりするのだ。しかも、悪戯と笑って済ませられないほど切実に、圧倒的な成功率と破壊力で恋人や夫婦を不仲にさせるのだと噂されている。
しかしそれでも、アレスは実際に出会うまで妖精などただの御伽話だと思い続けていた。
逢瀬をしていると必ず妖精が出てくるわけではないし、そんなものは偶然不仲になった恋人たちがおとぎ話に理由をなすって騒いでいるだけに思えた。
だからあの日、肝試し気分でレテ湖に行こうとリズに誘われたアレスは何の感慨もなく、ただ断るのが面倒臭かったから付き合っただけだった。
「まぁ、綺麗……!」
「そうだな」
感動に目を輝かせたリズが同意を求めるように見上げてくるが、とっくに見飽きて感慨の湧かないアレスは苦笑いで相づちを打った。
とたんに彼女は頬を膨らませて詰め寄り、指先を私の口元にびしっと勢いよく突きつける。
「アレス様、ここは君のほうがキレイとかなにか気の利いたこと言うべきところです!」
「そんなことを私に期待されても困るんだが」
気のない返事にリズは脱力してへたっと肩を落とし力のない笑みを浮かべた。家柄が近く親が親しく行き来しているから必然幼少の頃からよく顔を合わせていたリズは、アレスがおよそそんなリップサービスなど縁遠いことくらい承知している。
「……そうでしたね。では、せめて態度で示してください」
リズは控えめに一歩だけ歩み寄って胸の中に寄り添うと、今度は妖艶な笑みを見せ、誘うように自分の唇に細い指を滑らせてから目を伏せた。
はいはいとおざなりに返事をして、誘われるままに唇を重ねる。
彼女の両手が、私の後ろ頭を抱え込んで、唇が招き入れるように開かれる。腰に腕を回してから舌を差し入れると、彼女もまたそれに応えた。
「ん……んぅ……」
濃密な口づけに互いの息が乱れていく。どちらからともなく崩折れ、短い草が絨毯のように敷き詰められている草むらに転がる。
口づけたままアレスが胸元に両手を添えると、彼女の唇が離れ、恋人の手に自分の手を重ねて諌めた。
「んっ。アレス様、ダメです……」
形だけの抵抗を面倒だからと無視したアレスは次々とドレスのボタンをはずしていく。露わになる白い肌に唇を滑らせながら、手探りでスカートをたくしあげてその中に手を滑り込ませると、コルセットはおろかドロワーズもつけていない。
「態度で示せと言ったのは君だ。それに、君も準備万端のようだ」
「……ここでは、人目が……あっ……」
唇で首筋を、両手で胸を愛撫する。口では拒否していても、アレスの頭を抱える両腕には逃すまいと力が籠もっている。
「君は人目につくかどうかきわどいほど好きだろう?」
二人が恋仲にあるのは既に有名な話で、それも彼女が吹聴しているのだから、いまさら気にかけることでもない。
「そ、それに――」
彼女は物欲しそうな顔で見上げながらも、珍しくどこか迷いがあるように見えた。
「妖精か? 君に怖いものなどないと思っていたが、おとぎ話に怯えるようなかわいいところもあるんだな」
「怖いものなら、両親とか虫とかいくらでもありま……――」
珍しい表情をからかって笑うと、むくれてぷいと湖のほうをみた彼女の表情が唐突に青ざめた。
不思議に思ってその視線を追うと――そこに、湖面の上に、小鳥と戯れる妖精がいた。
一目。
たった一目で、その美しさに心を奪われた。
光の下でキラキラと輝く朝日のように清浄な銀の光を纏う姿は、この世のものとは思えない凄絶な美貌だった。
「きゃぁあぁぁぁぁ!」
絹を裂くような悲鳴を上げて逃げていくリズのことは、完全に意識の外にあった。
妖精と戯れていた小鳥が私達に気づき――リズの悲鳴に驚いたのだろう――飛び去った。
不思議そうに小鳥を見送った後、妖精がゆっくりと振り返る。
光を浴びて空気に溶けていきそうな銀色の髪が、さらさらと透けそうなほど白い肩を滑り落ちた。
菫色の澄んだ瞳が、嬉しそうに細められる。
ほのかに桃色に色づく唇の端が少しだけ持ち上げられ、鈴の音のような可憐な声音がこぼれ落ちる。
「――私と遊んでくれる?」
喉が凍り付いて、どんな言葉も出てこなかった。それどころか、座り込んだまま麻痺したように指一本動かすことすらできなかった。
妖精は音もなく湖の上を歩いてくる。
純白の薄布は水に濡れ、肌に張り付くと肌の色が透けて見えた。
心臓が耳の中にあるのではないかと思うほど、自分の鼓動がうるさかった。
何も考えられず、ただ自分の鼓動の音を聞いていた。
妖精は体が触れあうような距離まで歩いてきて膝をつくと、上目遣いで優美に微笑む。
目が合うと、その神秘的なアメジストの瞳に宿る熱が伝染したかのように、全身が燃え上がりそうな気がした。
妖精の指先が軽く肩を押し、緑の絨毯に寝かされる。
ゆったりと覆い被さってくる妖精に組み敷かれ、ひんやりした指先が形を確かめるように頬を、唇を、なぞっていく。
肩からこぼれ落ちた銀色の髪がさらさらとアレスの体を撫でる。それだけのことに背筋がぞくぞくする。それが恐怖によるものか快感なのか、よく、わからない………。
「ねぇ、私……ひとりぼっちで淋しいの」
鈴の音のような声に、くらりと眩暈にも似た感覚がする。
アレスの頭を両腕で抱え込むので、白桃のようにかぐわしくやわらかな胸が顔に押し当てられる。ほのかに甘い香りに、柔らかさに、酔う。
「だから、私にあなたの愛をちょうだい?」
耳に触れるほど唇を寄せて囁かれ、甘く痺れるような感覚が全身を駆け巡る。
白く細い腕が頭の後ろから首筋をなぞり、腰のほうへと滑っていく。耳の中に舌先が入り込み、次に首筋に噛みつくような口づけを次々と落としていく。
そして、冷たい指がそそり立っている雄を服の上から撫でた。
瞬間、服が全部消えた。
一瞬、その不可思議を不気味に思ったが、妖精がにこりと笑うとそんなことはどうでもいいと思い直す。
水のように冷たい手のひらが今度は直に、艶めかしくつつっとそれをなぞる。
「………っ!」
なぞるように触れられただけで、達してしまいそうだった。
「一生、私だけを愛してくれるって約束して?」
それまで馬乗りになっていた妖精が腰を浮かせ、互いの体の芯を添えて甘い声でねだる。先端が触れあうととろりと蜜が溢れ出て絡みついてくる。
「約束してくれたら、続きをしてあげるわ」
妖艶さとあどけなさの同居する蠱惑的な妖精の微笑みに、無我夢中で約束すると叫んだ。
愛しているとも。
あとはもう――ただ快楽の渦に呑まれ、一生分の精根が枯れ果てたかに思えるまで何度も何度も妖精と睦み合った。
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