【小説版】妖精の湖

葵生りん

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2章

黄昏2

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「……会議は、もう終わられたのですか?」


 一呼吸だけ彼の手のあたたかさに心を預けてから、体を離して彼を見上げた。


「終わった」


 短く答えた声には棘が含まれていて、眉間に深い皺を刻む。


「なぜ倒れたことをすぐに知らせなかった? あなたはいつも、私に何ひとつ教えようとしないな」


 責めるような厳しさに、思わず目を伏せた。


「……ご迷惑を……おかけしたくなくて……」

「会議など、私がいなくても滞りなく進む」


 間髪を入れずに大仰に溜息をついて、軽く前髪をかきあげる。

 そして何度か迷うように視線を泳がせ、さらにもう一度溜息をつくと、私を手離して体ごと角度を変え、窓の外を眺めた。

 再び、気まずい沈黙がひたひたと部屋に満ちていった。

 部屋がすっかり沈黙で満たされ、体の奥まで染み渡り始めた頃、聞こえるかどうかというような小さな呟きがぽつりと落ちた。


「…………リズに、なにをされたんだ?」


 思わず目を瞠り、息を呑んだ。


――リズ、愛してる。


 脳裏にまたその言葉が響いて、改めて深々と胸に刺さった。

 今まで何度思い出してもそれは彼女の声だったのに、アレスの声にすり替わってしまったから。


(本当に……“リズ”と、親しく呼ぶ仲の人なのですね……?)


 その問いは、恐怖に凍り付いて口からこぼれ落ちることはなかった。

 今の一言に彼女に対する親愛の情は感じとれなかった。けれどアレスは基本的に人の名を呼ばないし、ディーネの名を呼んでくれるまで一月かかった。それも、フリーレの謀がなければ今でも「姫」としか呼んでいないかもしれないのだ。

 なのに、彼女のことは今でも愛称。

 そう思うと、脳裏に何度も繰り返される妄想がより生々しく現実味を帯びていって、心が散り散りに引き裂かれそうだった。

 アレスが振り返ろうとする気配がして、慌てて俯いた。


「な……なにも……」


 もう一度頭まで掛布をかぶって隠れてしまいたい衝動に駆られるのを、拳を握って堪えた。そんな私の手を見、アレスは眉を寄せた。


「じゃあ、これは?」


 彼は手首を掴み、包帯の巻かれた私の手のひらに鋭い視線を送る。


「あ……あの、これは……痙攣を起こした時に、私の爪が食い込んでしまっただけで。包帯をするような大袈裟なものでもないし……なにかされてついた傷では……」

「つまり、痙攣を起こすような何かをされたのか?」


 しどろもどろで答えたら厳しい指摘をされて、それ以上の言葉に詰まる。

 異国の言葉を探すみたいになにを言えばいいのかわからず、ずしりとした重い沈黙が流れた。アレスは手を離し、沈黙を押しやってしまうほどの重い溜息をついた。


「……ランドハイア伯は会議の途中で慌てて退席して、会議が終わった後に私に謝罪してきた」


 びくりと肩が跳ねたのが、自分でもわかるほどだった。


「リズはあんなに動転するなんて思わなかったと泣きつくばかりで詳しいことは聞けないが、迷惑をかけたようで申し訳なかったと。けれど私はなんのことやらさっぱり状況がわからないから返事もできず、非常に困った」


 一言一言が、ぐさりぐさりと音を立てて胸に刺さる。

 迷惑をかけていると思うと後ろめたくて、でも、やっぱりなにを言えばいいのかわからなかった。


「迷惑をかけたくないと言うなら、ちゃんとなにがあったか話してくれ」


 容赦なく追い打ちを掛けられるが、よけいに言葉に詰まってしまう。

 されたことなんて、人によってはうまく受け流すことができるようなことだろう。

 だからこそ、恥ずかしくて言えない。

 脈絡もなく、二人が恋人同士のように親しげに話す姿を思い浮かべてしまう。

 ずっと胸の中に渦巻いている醜い感情。こんなどろどろした醜い気持ちを知られて嫌われたくない。

 彼女のことを聞いて、真実を聞かされるのが、怖い。

 彼が離れていってしまうのが。

 怖くて、堪らない。


「………っく…………ふ、……ぇ……っ、………ひっくっ」


 返事の代わりに零れたのは、堪えきれない嗚咽と涙だった。


「ディーネ、泣くことはないだろう」


 拭っても拭ってもぼろぼろとこぼれる涙と戦っていると、アレスがゆっくりと手を伸ばし、頭を抱き寄せ背中を撫でた。とても優しい手のぬくもりに、胸が詰まるほどの涙が次々に溢れて止まらなくなっていく。


 そばにいてください。

 どこにもいかないでください。

 ずっとずっと、私のそばにいて。

 私を、抱きしめて。

 私の名前だけを呼んで。

 私だけを、見ていて。

 ほかの誰の見ないで、呼ばないで、触れないでいて。

 もう少しだけ、夢を見せて。

 愛されていると思わせて。

 時間は、もう、あまり多くは残っていないから。

 どうか最後まで、このまま優しい夢を見せていて――。



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