【小説版】妖精の湖

葵生りん

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2章

懊悩ーディーネー

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 ふと目が醒めると、細身のごつごつした男の腕が枕代わりに頭の下にあって、その腕は背中から腰へと蔓のように絡んでいた。最初は気恥ずかしくて落ち着かなかったが今ではすっかり体に馴染んで、辛い夢の残滓を洗い流してくれるぬるま湯のようですらあった。

(初めて会った時は大人と子供ほどの年の差を感じたのに、今はそれほどでもないように思えるから、なんだか不思議……)

 薄闇の中で夫の寝顔をこっそりと見つめ、そんなことをぼんやり思う。
 およそ澄まし顔か仏頂面しかしない夫の無防備な寝顔を見つめられる幸福を噛みしめていると今度は面映ゆくなってきて、今度は胸にぴたりと額を付けて寄り添う。
 衣類を隔てていても穏やかな鼓動を感じ、それに心を預けようとした時――ふっと寒気にも似た感覚に襲われた。

 無愛想で非社交的。
 人付き合いは必要最低限の会話しかせず、決して人を寄せ付けない空気を発しているのが常。その麗しい見目と、見目に反比例した愛想の悪さは以前から貴婦人達の間で手の届かない高嶺の花と囁かれているが、しかしレテ湖の妖精に心を奪われて以来、いまだにどれほどの美姫にも美男にも関心を示さない変わり者――という嘲笑が専ら彼の評判だ。
 他人に全く無関心で、どう思われようと気にする様子はないけれど、嘲笑を直接たたきつけられるのはさすがに不快らしかった。彼は噂話を嫌って殻に籠もり、まわりも腫れ物に触るようにありとあらゆる噂話を彼の耳に入れないようにしていた。だからこそ、呪いの噂を最後まで知らずにいられるならそのほうが好都合だと思って嫁いできた。
 ただほんの一時、妻として彼の傍らにいることができればそれで満足だったはずなのだ。義務でも劣情でも構わない。一度きりでも、ほんの一瞬でも——彼が見て、触れてくれる。それだけで満足だった。それさえ叶えば、魔女の定めた運命を受け入れる覚悟だった。
 なのに。
 あの初夜のベッド上で、すべての計画は水泡に帰した。

(……アレス様は悪くない。悪いのは、私……)

 予想外だった。完全に。
 他人に無関心で無愛想でどんな美人にも見向きもしないと言われているアレスが、家のために強引にあてがわれた妻にまさか愛し合いたいだなんて、誰が予想できただろう。
 それがあまりに衝撃的で、嬉しくて、舞い上がってしまった。
 理性がそれは許されないことだと、どれほど罪深いことかと警鐘を鳴らしても、舞い上がった心を押さえることができずに頷いてしまった。
 そして、すでに半年が経とうとしている。
 毎晩のようにこうして寄り添って眠りにつくのに、あの初夜以上のことは一度もないままに、半年も。

 やはりあの夜に最後まで添い遂げなければならなかったのだと思う。覚悟が足りなかったと今でも悔やむ。
 恐怖に負け、夫を拒絶した。そのせいで、彼はこの半年もの間にせいぜいが額や頬に軽く触れるような口づけしかしない。

 あの時、いっそのこと愛していますと叫んでしまえばよかった。
 5年も前からお慕い申し上げておりましたと。

 あの時そう言っていたら続けてくれただろうかとぼんやり考えてみるけれど、きっと私は愛してないとか言われて素気なく拒否されただろう。
 彼は妖精に心を奪われたという噂だ。
 本物の妖精なのか、想いの叶わない人をそう表現しているのか定かではないけれど、それでも想い続けている人がいるのは確かなのだから。

(……愛し合いたいなんて、あの場を切り抜けるための言い訳だったらどうしよう……)

 そう思うと胃がしくしくと痛んで手を添える。
 彼は自分の心に背いて一度は夫婦の義務を果たそうとしてくれた。なのに嫌だなんて言ってその気を削いでしまった。
 もし、と考えると胃の痛みに加えてお腹も痛くなってくる。
 もしその場凌ぎの言い訳だったとしたら、それに舞い上がって本当に愛されたいと願ってしまった愚かしさに罪の意識はさらに深く胸を抉る。

 父・ロランは、好きな男に嫁ぎなさいと言ってくれた。冗談混じりに、アベルでもいいとまで言ってくれた。
 だからディーネが彼に嫁ぐことを決め、ロランは無理を押してこの縁談をまとめてくれた。
 なのに、いざとなったら怖くて、竦んでしまった。
 怖かった。覚悟していたはずなのに、なにもかも擲って逃げ出したいほどの恐怖だった。
 産褥の床で命を落とすという魔女の呪いから逃げ出したかった。逃げれば死ぬより辛い災いが起きると強く自分に言い聞かせたが、それでも本能的な恐怖を押さえ込むことができなかった。

(その結果が、この現状――)

 ぐるぐると思考が渦を巻いて結局同じ場所に戻ってくる。
 もやもやした気持ちのせいなのか、なんだか肌寒いような気がしてきて、掛布を肩の上まで引き上げた。

「……ん、ディーネ……」

 仰向けだった彼が寝返りを打ち、右腕もディーネの背中に回された。起こしてしまったかとどきりとしたけれど、健やかな寝息がしてほっと胸をなで下ろす。

 最近では寝言でも名前で呼んでくれるようになった。
 こんなふうに優しく名前を呼びかけてくれるだけで胸の中を羽箒でくすぐられたような気分がした。
 子犬だったアベルに向けた笑みを、向けてくれる。くすぐったそうに、ふんわりと抱き寄せて。
 それは、愛していると言ってくれているようにも思えた。
 言葉にしてくれたことは一度もないけれど、多分錯覚ではないと思う。
 だけどそれは、ディーネがアベルに向けるような、あるいは兄が妹に向けるような種類の愛情なのかもしれない。
 毎晩こんなに寄り添って眠るのに、夫婦の契りを求められないというのがなによりその証明ではないのだろうか。
 でも、この腕枕でまどろむ時間があまりにも満ち足りていて、これに甘えてしまう自分もいる。
 どんな形であれこんなふうに彼を独占し、愛されていると思うことができる。この夢のように幸せな日々を手放す時を思うと泣きたくなったし、涙を留めることができないこともしばしばあった。

 薄ら寒くて、つい、彼の腕の中にぴたりとくっついてみる。
 けれど、どれだけ彼のぬくもりに寄り添っても薄ら寒さは消えるどころか、ますますひどくなった。
 寒いのは気温のせいではなくて恐怖のせいだと否応なしに思い知らされる。

(……私が呪われていることを、知ってもらわなければならない)

 それで嫌われようと、そばにいられなくなろうとも、これ以上彼をこの呪いに巻き込まないためには。

 ふいに、笑っていてもいつも苦しそうな父の姿が、忌々しそうにディーネを見る祖父の姿が、脳裏に浮かんだ。

 あの時――頷くべきではなかった。
 愛されたいなんて、一瞬でも願ってはいけなかった。
 グラ家の娘を愛すれば、父や祖父のように生涯消えない痛みと苦しみを背負うことになる。
 だから、子供を作るのが責務だからと、嫌々でも、淡々とでも、あの時に添い遂げ、真実を知られないようにしなければならなかった。

「…………っ」

 後ろめたさがちくちくと心を苛んで、ぎゅっと彼の腕の中で縮こまる。息を詰めて、必死に泣くのを堪える。

「ディーネ……」

 アレスがまた、名を呼ぶ。

「……っ、………アレス様………っ」

 その声の優しさに、堪えきれず涙がこぼれた。

「…………ご……めん……なさい……、ごめんなさい………………っ」

 必死に声を殺したが、すすり泣きにするのが精一杯だった。
 誰にも愛されてはいけないのなら、最初から愛しい人の元ではなくもっと軽薄な人にでも嫁げばよかった。一方的に思いを寄せたまま、ほんの数ヶ月彼の傍にいられるだけでいい。それなら彼を巻き込まずに済むだろうって、そう思って嫁いできたくせに。

――愛し合いたい。

 あの言葉を思い出すたびに頭の奥がじんと痺れる。
 何も知らないからそんなことを言えるのだと囁く理性を霞みの奥に隠してしまう。

「………お慕い申し上げております………」

 この時間が幸せすぎて、離れられなくなっていく。
 愛されたいと、叶ってはならない願いが強くなっていく。
 伝えなくてはという理性を、押し流していく。

「ごめんなさい……ごめんなさい………ごめんなさい…………」

 彼を傷つけると知っていて巻き込んでいる自分の浅ましさが憎かった。憎いと思っているくせに結局いつもこうして彼の腕の中から抜け出す勇気がない。その弱さも醜さもまた憎くてたまらなくて――いつまでたっても、涙が、止まらなかった。

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