【小説版】妖精の湖

葵生りん

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1章

新人メイド奮闘記2

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 身支度を終えると、夫婦仲良く食堂へと赴く。

 リベーテ家当主アトラスとその奥方グレイス、それからアレスの兄であるラグナスは大抵先に席についており、今朝もまた同様だった。

 今日の予定や他愛のない雑談を交わしながらの朝食が始まるが、アレスは終始無言、無表情だ。しかも一足早く朝食を済ませると仕事へ向かうために席を立つ。

 ちなみに社交性皆無と評されるアレスの外交手腕は推して知るべしだが、内務に関してはアトラスもお墨付きをくれるほどだとか。

 アレスに従うように慌てて食後の挨拶を済まされたディーネが丁寧にお辞儀をして席を立ち、セティエとフリーレがそれにつき従おうとすると、旦那様は侍女二人を呼び止めた。


「姫君に懐妊の兆候はまだ見られぬのか?」

「いえ、まだご成婚から一月ですから……」


 アトラスの眼光は鋭く、声も不機嫌で、フリーレの声は震えていた。


「ふむ…ならば、夫婦の営みの証拠は?」


 フリーレは絶句した。

 いくら父とはいえ息子夫婦の夜の営みにまで口出しするなんて、と。


「侍女長の報告では寝具に破瓜の跡は見つからなかったらしいではないか。寝具でも夜着でも拭き清める時の身体でも構わん。営みの証拠はあるのだろうな?」

「父上、嫁入り前の若い娘にそのようなことを尋ねるのはかわいそうですよ」

「そんな悠長なことを言っている余裕はない!!」


 助け舟を出してくれたのはラグナスだ。だが、アトラスはテーブル上のすべての食器が音を立てるほど乱暴に目前のステーキにフォークを突き立て、フリーレは身を竦めた。


「あの姫君には一刻も早く懐妊していただかねばならんのだ」


 大きなステーキの塊に乱暴に毟り取るようにかじりつく父親に、ラグナスも苦笑いを浮かべる。


「アレス様とディーネ様は大変仲睦まじくていらっしゃいます。毎晩腕枕でお休みなり、朝お目覚めになるまで寄り添っていらっしゃるご様子で……」

「そんなことはどうでも良い!!」


 歯の根が合わないフリーレの代わりにセティエが答えたが、アトラスはさらに叫んだ。その隣でグレイスは眉根を寄せていた。


「父上。夢見がちとはいえアレスも健全な男子。それで煮え湯を飲まされたことだってあったではないですか。あの日以来、他人を全く寄せ付けなかったアレスが朝まで寄り添って離さないなんて、それだけでも信じがたいこと。あのように美しい妻を一晩中抱き寄せているだけということもないでしょう。――君達、主の下でやるべき仕事があるだろう? 下がっていいよ」


 父にやんわりと制止をかけたのはまたしてもラグナスだ。騎士然と優しさに助けられたフリーレとセティエはお辞儀するとようやく食堂を後にすることが許された。








「旦那様ったら、あんまりだわ! 牛馬の種付けじゃあるまいし、朝食の席であんな……っ!」

「フリーレ。あなた、ディーネ様に肩入れしすぎよ」


 苛立ちを込めて踏みしめられた廊下の床はドスドスと重い音を立てていた。

 それとは真逆に、セティエの声は静かだ。


「王家はベッドのすぐそばに見張りがいるって聞くし、旦那様の詮索も詮無いことよ」

「えぇ~……?」


 唇を尖らせたフリーレに、セティエは短い溜息をついた。


「ディーネ様の側付きを拝命したときに『適度な距離を取りなさい』って言われたでしょう?」

「え? そんなこと言われたっけ?」

「言われたわよ、かなりキツく。あの方に気に入られると不幸になるとか死ぬとか、気味の悪い噂があるからって」

「そんな噂……!!」


 だからこそアトラスは適当な理由をつけて使用人の中で最も使えないフリーレを側付きに任命したのだと——つまるところフリーレは捨て駒なのだと、セティエは理解していた。だが天真爛漫なフリーレにそれを口にするほど非情ではない。


「それに、あの方は―――」


 言いかけたセティエは、そこで口を噤んだ。

 ディーネを慕っているフリーレに面と向かって、あの方はそう遠くない将来に死ぬ呪いがかけられているらしいとまで告げるのはなんとなく憚られて、別の話にすり替える。


「……婚礼の日に、あの方の嫁入り道具があまりにも少ないことを不思議に思って尋ねたら、旦那様は『姫君の滞在は長くても一年』と仰られたわ」


 首を傾げた使用人達に、ディーネの父であるグラ公爵は早く世継ぎが必要で、出産のために里帰りをするだけだと説明したが。


「旦那様は私たちのことを案じているから、ああいうことを言われるんだわ」


 フリーレは息を呑む。

 朝食の前、空耳かもしれないが『あなたを死なせないように頑張らなくてはね』と呟いていたことを思い出したからだ。


「でも!」


 だからといって、フリーレはあれほど心優しいディーネがまるでただ子どもを産むための道具のように扱われるのが納得いかなかった。

 家長アトラスの考えは到底一介の使用人の及ぶところではない。それでも、息子の妻に対して――それも、自分で決めた嫁に対して――冷たすぎる、と思った。


「どうしてそんなにあの方にこだわるの? 私は正直、あの方はなにを考えているのかわからなくて苦手だわ」

「セティエみたいになんでもできる人にはわからないよ! ドジばっかりの私を必要だって言ってくれたのはディーネ様だけなんだもの!!」


 フリーレは勢い駆けだした。

 いくあてがあったわけではない。ただ、ディーネの味方をしてくれないセティエから逃げただけだった。

 ふ、と。

 不器用ながらもディーネを気遣うアレスのことが浮かんだ。

 それがせめてもの希望に思えたフリーレは、アレスのいる執務室に足を向けた。


 長くても一年――旦那様のその言葉がアレス様のお耳に入った時、あの方はどうなさるだろう、と思った。

 酷く気落ちなさるのか、怒るのか――いずれにしても、平静ではいないだろうと思った。

 平静でいられるような夫婦でいてほしくない、とも。







「アレス様!」


 不躾に執務室に押し入ったフリーレに、アレスもその周りで補佐をしていた執務官や執事達も盛大に眉をしかめた。


「アレス様はご存じなんですか? ディーネ様の噂を——」

「噂など、聞く必要はない」


 ひやりとするほど冷たい声音に、フリーレは凍りつくように口を閉ざした。

 アレスの冷たい目も、執事達の青ざめた表情も、まるでフリーレが呪詛でも口にしたかのように忌々し気だった。


「お騒がせして申し訳ありません! この子には以後このようなことがないようきつく指導いたしますので、どうかお許しくださいませ!!」


 ぐいと腕を強く引かれて我に返ると、隣でセティエが頭を下げていた。それも、かなり必死の形相で。

 背中を叩かれ謝るように促されたフリーレは慌てて先輩に倣って頭を下げたが、なぜそれほどまでに必死なのかはわからなかった。


「……くだらない噂話に興じる暇があったら仕事をしろ」

「はい」

「いかに姫に気に入られていても、二度目はない」

「はい。ご温情、感謝いたします。失礼いたします」


 冷たく言い渡されたものの、セティエは安堵の息をつく。そしてフリーレの腕を掴むとぐいぐい引っ張って廊下まで連れ出した。




「アレス様がこの世で一番嫌いなのが噂話なの」


 ぽかんとしているフリーレの腕をようやく離したセティエは、大きく肩で息をしながら一息にいい放った。


「アレス様は5年前に妖精に会ったけど、でも誰も彼も幻を見たんだと取り合わなくて、散々陰口を叩かれたから」


 セティエは喉の震えを手で抑えながら、必死に続ける。


「以来、アレス様に噂話をしようとした使用人は鞭で打たれた人や解雇された人もいるくらいだし、陰でこそこそ話をしているだけでもお叱りを受けるんだから。絶対にあの人の前で噂なんて口にしたらダメよ」


 いかにも不承不承頷いたフリーレだったが、釈然としなかった。


「でも……っ!!」


 フリーレは突き上げる思いから声をあげたが、なにが言いたいかは自分でもよくわからなかった。でもなにかを言わなければと口を戦慄かせた時、唐突に頬をべろりと舐められた。


「ああ、ごめんなさい。アベルが急に走っていくなんて、どうしたのかしら?」


 アベルだった。追って駆けつけたディーネが申し訳なさそうに謝罪するが、尻尾を緩やかに振りながら「きゅうん?」と鳴いて見上げてくる犬は、フリーレの涙を拭いてくれたのだと気づく。

 いつも主のそばにいて主を守っている騎士然としているアベルは、主に似てとても優しい犬だと。


 (アベルだけは、きっとディーネ様の味方なのね……)


 そのぬくもりにすがるようにもふもふの毛皮に顔を押し当てるとまたポロポロと涙がこぼれて、アベルはそわそわと主とフリーレを見比べた。

 ディーネはそんなアベルの行動でなにかを察したのか、ふっと笑いかけるとフリーレも一緒に抱き締めた。


「……ありがとう」


 小声の礼はなぜか謝罪に聞こえて、フリーレの胸は痛んだ。

 その痛みを押さえ込むように強く、なにがあってもこの人の味方でいようと思った。





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