【小説版】妖精の湖

葵生りん

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1章

新人メイド奮闘記1

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「へ……っ?」


 フリーレは思わず間の抜けた声を上げた。


「ですから、あなたは明日アレス様の奥方になるディーネ様の側付きに任命すると言ったんです」


 眉尻を吊り上げている侍女長は、苛立たし気に繰り返した。

 フリーレが孤児院からリベーテ家の下女として引き取られて半年。掃除をさせれば高価な花瓶を落とす。給仕をさせれば料理をこぼし、皿洗いをさせれば割り、調理補助をさせれば香辛料を大量にこぼして料理を台無しにした。洗濯をさせても白物に色物の色移りをさせてしまったり、破いてしまったり。とにかくやることなすこと失敗ばかりだった。

 だから侍女長の呼び出しは、きっとクビを言い渡されるものだとばかり思っていた。


「セティエ。手がかかるでしょうけど、フリーレに仕事を教えてやってちょうだいね」

「はい」


 フリーレの隣に立っていた黒髪をきっちりとまとめた品のいいメイドが返事をする。以前からアレス様側付きをしているセティエだ。

 貴人の身辺のお世話をする側付きの侍女は普通、礼儀作法をきちんと教育されたある程度良家のお嬢様がさらに上の家柄の貴人に付くもので、セティエもその例にもれず作法も教養も身に着けている。

 だから、フリーレのような孤児——しかもドジでおっちょこちょいで、礼儀作法もなにもあったものじゃない——が、拝命するなど聞いたことがなかった。

 しかも、アレスが婚礼するお方は王家の血を引く大変高貴な姫君らしいとみんなが噂している。


「えっと、あの…なぜ私がそんな大役を……?」

「旦那様が直々に選任なさったそうよ。ちょうどディーネ様と同い歳だから気安かろうと」


 侍女長は困惑しきりで、旦那様の意向を伝えるためにその隣に立っている執事長もまた苦い顔をしていた。


「ディーネ様は大変柔和な人柄だそうだから、安心しなさい。但し――」


 フリーレには執事長の注意に耳を傾ける余裕がなかった。

 雇用主であるリベーテ子爵ですら恐ろしいのに、そんな雲の上の神様にも等しい高貴なお姫様の世話など務まるだろうか。務まらない自信ならあるが、できる自信はひとかけらもなかった。

 翌朝、フリーレがびくびくしながら迎えたディーネはとても温和な方だったからまずは胸をなでおろした。それから実際に側付きをしているが、いつも穏やかな笑みを浮かべた優しい方だと思う。

 フリーレがティーカップを落として割ってしまっても「あなたにケガがないのが一番だわ」と許すし、なにかと優しい言葉をかけてくれる。誰に対してもそんな調子だから、使用人達の多くはディーネが「ありがとう」と声をかけてもらいたくて、すすんで身辺の手伝いをしたがった。

 だからフリーレはディーネの側付きを誇らしく思ったし、ドジをしないできちんとお役に立ちたいと思っていた。


「おはようございます。朝の支度のお時間です」


 セティエが断りを入れ入室し、フリーレも「失礼します」と挨拶しながらそれに続く。

 ディーネは愛犬用のソファに腰掛けてそのクリーム色の毛並みに丁寧に丁寧にブラシを入れているところだった。


(ああ、また——……)


 ディーネはいつも笑みを浮かべているが、ふとした瞬間に酷く物憂げな顔をすることがあった。けれどアベルがひょいと頭を上げてセティエ達に一声「わふんっ」と挨拶すると、物憂げな表情は煙のように消えていつもの穏やかな笑みを向けてくれる。


「セティエさん、フリーレさん、おはようございます」

「おはようございます、ディーネ様」


 穏やかなほほえみに迎えられ、セティエとフリーレは深く腰を折って挨拶した。


 ディーネが奥方としてこの部屋に迎えてられて一月が経っていた。

 他人に対して無頓着なアレスのことだから、お互いに無頓着な仮面夫婦となるのか、もしくは奥方は大変苦労をされるだろうという周囲の予想はどちらも外れたと言わざるを得ない。新婚の甘い雰囲気ではないにしても、互いを思いやる雰囲気は確かにある。それはディーネが我を通すことなく、いじらしいほど謙虚にアレスに従っているおかげによるところも大きいだろうが、それが不服なようには見えなかった。

 ディーネは同い歳とは思えないほど落ち着いて大人びた雰囲気だとフリーレは思う。

 それに我が侭を言うことも居丈高なこともなく、誰にに対しても淑やかな物腰で丁寧に接し、ドジな上に新人で至らない点が多すぎるほど多いフリーレにもいたく優しかった。だからフリーレは精一杯尽くしたいと思っているのだが、フリーレ達が朝の支度をお手伝いに行く頃には着替えも身嗜みも、ひとりでできることはひととおり済ませている。

 さらに愛犬・アベルの世話にしても、そのほとんど人の手を煩わされることはない。だから「私達がもっと早い時間に出向いたほうがよろしいでしょうか?」と相談したが、アレス様がお休みのところを騒がせるのも申し訳ないとか自分でできることは自分でやりたいと言われてしまった。

 けれどフリーレがしょんぼりしたのに気づいたのだろう。いつも、フリーレが唯一得意な髪結いのお手伝いだけは残していてくれた。


「お髪は、今日はどのようになさいますか?」

「フリーレさんはどういうのがいいと思います?」

「では横を編み込んで、こうくるっと――」


 意気込むあまり身振り手振りを交えて説明すると、ディーネはふふっと笑った。


「シニヨンね。ではそのようにお願いします」

「は……はいっ! がんばりますっ!」


 ディーネの朝日を浴びてキラキラ輝く銀色の髪や楚々とした風情はレテ湖に棲む妖精がこのような容姿だろうかと思うほど美しく、同姓のフリーレすらうっとりと見惚れてしまいそうになる。

 ドレスも髪型もシンプルで楚々とした意匠を好み、宝石よりも花を愛でる傾向にあるから、なおさらのこと。


「できましたっ! いかがでしょうか?」

「ありがとう、とても素敵ね」


 完成した髪型の出来にディーネがねぎらうように微笑みかけると、フリーレはそれはもうとろけるような心地がした。


「ではそろそろ、アレス様にも起きていただきましょうね」


 ディーネが時計を見て立ち上がると、セティエは無言でアレスの着替えを差し出す。


「ありがとう、セティエさん」


 ディーネは礼を言ってから、アレスが眠っているベッドへと足を向ける。

 本来ならアレスの身の回りの世話はセティエの仕事だが、ディーネがやりたいと申し出たのだ。こうしているとあの人の妻になったことが実感できて嬉しいの、といじらしくはにかまれてはセティエとフリーレはその補助にあたるしかない。


「おはようございます、アレス様」

「んー……、…………姫?」


 それに、大変寝起きが悪くてセティエが起こしても起こしてもなかなか起きないアレスが、ディーネだと耳元に優しく声をかければほんの一言だってぼんやりと目覚めるのだから、微笑ましく見守るほうが良いのは瞭然としていた。


「――――姫……もう少し、寝ていよう……?」


 アレスは寝ぼけているのか、ベッドに引きずり込むように力強くディーネを抱き寄せた。


「ダメですよ、アレス様。朝食の時間ですから、起きてください」


 頬をバラ色に染めたディーネが腕をじたばたさせる光景もまた、侍女たちを微笑ませる。


「……ん――……う…ん……。……あー…おはよう……」

「おはようございます。お目覚めに熱い紅茶を淹れましょうか?」

「……ああ、うん。貰う……」


 ようやく目覚めて絡ませていた腕を離してもらったディーネは、手際良く紅茶をカップに注いで、ベッドの上でぼんやりしているアレスに手渡す。 

 熱い紅茶で完全に目覚めたアレスが不要となったカップを再びディーネに戻し、それを片づけるのがフリーレの役目だ。


「フリーレさん、カップのお片づけ、いつもありがとうございます」

「いえ、仕事ですから……」


 カップを渡しながらディーネが声をかけてくれのは嬉しいが、その後ろでアレスは盛大に眉を寄せている。フリーレはその視線から逃げるように茶器の片づけのため隣室へ移動した。


「あらアレス様、寝癖がついていらっしゃいますよ」

「んー……今日は特段人に会う予定もないし、差し支えない」

「いけませんよ。身嗜みですから。もう少しだけ、そのまま座っていてくださいね」


 ディーネはアレスの不機嫌を笑顔で受け流して話題を変えると、セティエに向き直る。


「セティエさん。忙しいところ申し訳ないのだけど、温かいおしぼりを用意してきてくださらないかしら?」

「かしこまりました」


 命を受けたセティエが頭を下げて退室すると、アレスは溜息をこぼす。


「姫君は使用人相手に腰が低すぎる」

「ふふ、他の人がいる時にはきちんと弁えますから問題ないでしょう? 貴族でも使用人でもアベルでも尊い命を生き、精一杯仕事に励んでくださっているのですから」


 カップを片づけるために隣室にいたフリーレには、アレスの苦言が聞こえた。でもディーネはその苦言に静かに笑う。優しさがじんわりと心に沁みて、この方にお仕えできる幸せを噛みしめていると、足下にいたアベルが「我が姫はすばらしい方なのです」とでも言いたげに胸を張ってフリーレを見上げていた。

 そんなアベルを撫でようと手を伸ばしたフリーレは、うっかりティーカップを床に落としてしまった。


「大丈夫? ケガはない!?」

「はいぃ~……でもっ、でもカップが……っ!!」


 見事に割れたカップを前におろおろしていると、ディーネが隣室から駆けつけてきた。


「またか……お前にはこの仕事は向いていないんだろう。父上に言って配置換えを……」

「あら。私はこの子に続けてもらいたいのですけれど、いけませんか?」


 その後ろからゆっくりと出てきたアレスの言葉を遮ったのはディーネだった。


「は?」


 アレスと同じくらいフリーレも驚いていた。


「まだ慣れない仕事ばかりで失敗もしてしまうけれど、私、この子のこと気に入っているんですよ」


 一片の曇りもない笑みが向けられる。


「いつも元気いっぱいで、どんなことも一生懸命で。羨ましいくらいにまっすぐな子なんですもの。それに髪結いがとっても上手で、小物を合わせるセンスもいいんです。だからもう少しだけ私の元におくことをお許しください」

「姫がそういうなら、別に私に異存はないが……」

「うわぁぁあんっ! ディーネ様、一生ついていきますぅ~!!」


 アレスが口の中でごもごもと許可を出すと、フリーレは嬉しさのあまりがばっとディーネに抱きついた。


「おい……」


 ドン引きのアレスが控えめに静止しようとした声は聞こえていない。ディーネが「あらあら、ありがとうございます」と笑って答えるから、フリーレはわんわん泣いた。


「頑張ります! 絶対、お役に立てるように頑張りますぅ~~っ!」


 きゅっと抱き返してポンポンと背中をさすってくれるディーネは、しかし少しだけ困惑したように呟いた。


「……私も……あなたを死なせないように頑張らなければね……」


 それは蚊の鳴くような囁きで、フリーレはなにか幻聴でも聞いたのかと思った。


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